片岡義男について
今年になって、早川書房から「片岡義男コレクション」が文庫で出ている。
いずれもアンソロジーなのだが、編者が堀江敏幸、北上次郎、都筑道夫とくれば、片岡義男は只者ではないというのがわかろうというものだ。
で、事実、只者ではないのだが、困ったことにこの片岡義男という人はただの人のような書き方をするので、そのテクニックというか、彼の小説世界の深みがなかなかわからない。
ここで、どのようにすばらしいかを書きたてる愚はしないが、要は読者を試すような作家なのである。
もともと作品は発信者と受信者の共同作業のようなところがあり、片岡作品にもその傾向が色濃い。
たとえば、コレクション2は恋愛小説のアンソロジーだが、見事にハードボイルドの手法をそこに導入している。
ハードボイルドでは、登場人物の内面描写を排除する手法をとるが、そのことが作品全体の深みになるという結実に向かわせる。(うまくいけばの話なのだが)
それを恋愛小説で行おうとする無謀は最初から最後まで両者の感情を一切描かないということを考えれば、ほぉぅ、そりゃあ大変だわいと思ってもらえるかな。
片岡氏の恋愛小説の深みは、最終的な勘所を読者に任せ、読者おのおのに果実の甘みを静かに聞いてくるところである。
だとすれば、恋愛経験の多寡によって果実の味が変わるのかといえば、まさにそうなのではあるが、ここで恋愛を実際に行われたものだと限定してもらってはとても困るのである。
恋愛はとりわけ精神的な作業で、それが想像の産物であっても何の不思議ではないからだ。
見知らぬあの娘への思いが、人生の大半の恋愛経験だとしても何を恥じることがあろう。
もともと恋愛は、空から舞い降りる風花のように、手のひらでそっと受ければ消えてしまうのではなかったか。
それでいて、いつまでもその感じが手のひらに刻み込まれたように残るものではなかったのか。
そこにあなたの恋した女がいたのではなかったのか。
ラベル: 小説
1 件のコメント:
「都築道夫」ではなく、正しくは「都筑道夫」です。
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