2009年9月3日木曜日

ガリレオの苦悩

「ガリレオの苦悩」は短編集なのだが、先に読んだ「聖女の救済」に比べて落ちるのだ。
ガリレオと呼ばれる湯川学準教授のキャラが立っているからこその短編集で、もちろん内海薫という女性刑事も十分魅力的なのだが、それ以上特筆するものはない。
特筆するものはないと書いても、標準レベルは越えているのではあったが…

さて、ここでそのようなことを取り上げたのは、この前「聖女の救済」について書いたことへの訂正のためであった。
東野圭吾の卓抜さは短編の技術を長編の中でも開花させてみたことだと書いたが、実はそうではない。

東野圭吾は短編の中では十全に短編の技術を開花できないのであった。
端的に書けば、短編を書けないのだ。

したがって、短編を書くためにあれほどまでに長い小説が必要となり、それが読み手には長編と映ってしまったのだ。
あくまでも東野は短編を書いていたのだった。
だから「聖女の救済」もまた短編であったのだ。
だからこそ、主題は一つに絞り込んであったのだし、読後感がよき短編を読んだときのような心地よさと酷似していたのだった。

少し詳しく書けば、彼には短編を書くほどの硬質な感じが彼には出せないのだ。
それを文章が下手だとけなしてもいいのだが、ここではそれをしない。

なぜなら、その欠点により東野作品はとても読みやすいものに仕上がっているし、楽しんで読むとしたらこれほど信頼でき、お値打ちのものもないからだ。

くりかえすが、ここで指摘しておきたかったのは、東野圭吾は長編に短編の技法を持ち込んではいないということ。
その内実は、東野圭吾の質の高い短編はその作品の長さにおいては長編であるということだ。

イヤ、考えてみればそれもすばらしいことではないか、なにしろ短編はその分量で決定されるのではないことを教えてくれたのだから。
そう思って読んでみるとなるほど東野作品の多くの長編(分量的)は、短編の要素で満たされていることがよくわかると思う。

だとしたら、「白夜行」は?

イヤなことをお聞きになる。

もちろん、あれは長編だ。
東野作品にあっては、長編(分量的に)として長編(質的に)が成功した稀有な例だ。

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