2009年8月27日木曜日

許されざる者

つい先ごろ書いた「悪魔を憐れむ歌」についての感想はおかしかった。
あの映画はそのように作られそのように巧まれた映画として何も悪いことをしていなかったと見たほうがずっといい。

あの映画のわたしの評は、わたしの好みにずっとひきつけたもので、赤子のようにないものねだりの評だった。

みっともない。

ここにあの映画は立派に立っており、あの映画はあることを狙って作られたものだとということを言明したい。
その向かう場所が、わたしの望む場所と違っているだけで、そのことをあれこれ言うものではないことも自戒としてここに強調しておきたい。

さて、最初の写真だが、これはDVDのもので、映画ではこの女性は登場してはいない。(彼女は若くして逝っている)
映画を見たあとに残る彼女のイメージをそれほど壊していないことは幸せだが、このような作為は危険だろう。

さて「許されざる者」はクリント・イーストウッド監督の1992年作品だ。
最初のアカデミー作品賞作品であり、ドン・シーゲルセルジオ・レオーネに捧げられたものだ。

最後の西部劇と称され、激しくて静かな作品だ。
その激しさも静かさもいく通りもあり、映像がそれを豊かにしている。
そして、書き加えておかなければならないことは、ラストの音楽とナレーションだ。
音楽は、レニー・ニー・ハウスだが、さて、ナレーションは誰だろう。

ラストにあるこの静けさがこの映画における通奏低音ならば、この映画のもとにあるスタイルが自分に響いてくる様子がよくわかる。

映画においても演劇においても小説においても音楽においても…情報量の多さの中で分析し、腑分けし、わかったような顔をする傾向がこの世界にはあるが、そんな縄ではくくれないところに作品のよさが横たわることは間々あることだ。

それをそのまま身のうちに引き寄せ、それが何ものかわからないままつき合っていくというのが、もうひとつのあるべき姿で、これは大きく構えればコミュニケーションとディスコミュニケーションの話だ。

コミュニケーション依拠するかぎり対象は整理され続け自分の箱の中に納まるだろう。
その箱からはみ出たものはいらないものだが、それもこれも含めてディスコミュニケーションはある。
小利口な顔をして整理ばかりする人間たちがいくつもの悪さをすることはもはやご存知だろう。

わたしは、いくら歩みが遅くとも混沌としたディスコミュニケーションを身のうちにもちながら。わからぬものをわからぬものとしてわからぬままつきあい続けていきたい。

それもまたわたしだからだ。

そんな雰囲気がこの作品にはある。
それが、わたしがこの作品をいい作品だと思うゆえんである。

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