聖女の救済
昔、京都の料理人に教わったことだが、
京料理のお椀は、はじめの一口でうまいと思うような味付けはしない。
お椀をすべていただいた後に満足感がくるような味付けをしなければいけない。
それをこの本を読んでいて思い出した。
とっかかりが、あまりに稚拙な感じがしたからだ。
東野氏もまたページターナーなので緻密に書き込むことはないが、それにしても物足りない感じがした。
それが、読み終わった後にある種の満足感をもたらすのだからたいしたものである。
それは、この作品に秀逸なトリックが隠されていることに起因するのだろうが、それにしても見事な構成だろう。
それと草薙刑事に恐ろしいほど示唆的なことを言わせている。
これにもまいった。
学生のころの草薙のエピソードなのだが、まもなく死んでしまうであろう子猫を草薙が必死に介抱するという場面だ。
他の学生が、もうすぐ死んでしまうのになぜそんなにむきになったように世話をするのかとたずねる。
その答が、それだ。
「それがどうした」
この場面での「それ」は、猫がもうすぐ死んでしまうということだ。
ストーリーには直接的にはあまり響いてこないこのセリフには感心した。
「もし明日世界が終わっても、私は今日リンゴの木を植えるだろう」と神学者ルターは言ったが、それをさらに衝撃的にしたセリフだ。
われわれの心意気もそうなのかもしれない。
そうだからこそ何も報われなくても生きていけるのだろう。
無駄なことをやり続けるということの奥にはこの言葉がある。
無駄なことの先に何かが見える気もするだろうし、おそらく何かある。
それを夢見るように思いながら、人はそのように生きていく。
この本にいい時間を過ごさせてもらった。
ラベル: 小説
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