2009年8月22日土曜日

何かをなそうとするとき

何かをなそうとするとき、それがいささかでも大向こう受けを狙うとき、行く道筋にたくらみをもつことは重要なことだろう。
この場合のたくらみとは、方針というほどの意味にとってもらって結構だ。

それは多くの偉大なスポーツ選手たちや芸能界で成功人たちの話に詳しい。
意識しなければ、そこにはたどり着けない場所がある。

その場所に到るためには、刷り込みは心の弱さを補強する一助として使用しないわけにはいかない手段となるだろう。

もちろん、だからといって、どのような生き方にも刷り込みが必要かといえば、そんな話にはならない。

ひっそりと暮らしたい人もいるのだ。

何でもかんでも有名になったほうがいいと思ってはならない。
金が入ってくればいいのだというのは、一部の考え方ですべての人の当てはまる志向性ではない。
行く道に従って方法も手段も変わってくる。

その道しだいで刷り込みの重要さも変わってくる。
そういう話をこの頃書き付けている。

将棋や落語のことをわたしが好んで書くのは、単なる刷り込みだけでは到達できないものがそこにあるからだ。
もちろんだからといって上等といっているのではない。(まあ、言ってもいいのだけれどね…)

わたしは、軽々しくスポーツや音楽に感動を求める今の風潮を揶揄しているだけなのかもしれない。
もともと感動は己が身の内にある。

それはボルトの走りの中にはない。
ボルトがボルトの走りの中に何もかを見出すようには、あなたはボルトの走りの中に何も見出すことはない。
もちろんあなたが、何かを密かに目指していて、そのことにボルトの走りをオーバーラップさせるのなら別の話になるのだろうが。

いやはや、正確に何かを書こうとすれば、書けば書くほど空ろで、怪しい話になってしまう。
ここまで書いて興がさめてくる。

己の未熟さも自戒して、本日はこのあたりで。

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