2009年8月19日水曜日

ジョーカーゲーム


作品は読者と作者の共同作業によって生まれる。
それがわたしの持論だが、この手の論で押せば作品は読者が変われば変わっていくことになる。
それは承知しているが、読者があるレベルまで行けば、意外にその差は小さなものだ。

わたしは市川雷蔵の中野学校シリーズが好きで、評判のこの「ジョーカーゲーム」にその影を強く見る。
この小説が中野学校シリーズに大きく影響されていることは事実だろうが、小説でなければ入り込めない世界によく入り込んだ作品としてエンターテイメントの面目躍如たるところがこの作品には大いにある。

言ってしまえば、大沢在昌のジョーカーシリーズのレベルには到達している。(もちろん方向の違う作品の比較はあまり意味が重くはないのだが)

この作品は、知的であり、人のあり方にある程度言及している点がある読者にとっては大沢作品よりも好ましいかもしれない。
それが、戦時下のあの時代に可能であったかどうかは、小説の勝手さのなせる業で、あまり信用は置けないが、マア、おもしろければいいのだ。

手にとって、一、二時間遊ぶには最適な本であろうし、うれしいことに一つの重要なことを繰り返し書いている。

それは、自分の目で見なければだめだというポイントで、このポイントから逸脱しないことでこの小説はその品格を保っている。
品格を保ちながら、現代批判にもなっており、その批判は見事成立している。

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