2009年8月23日日曜日

ポピュリズム

ポピュリズムは、もともとは人気主義と訳されており、わりといい意味で使用されていた。
それが、衆愚政治とされ、悪い意味と変わっていったのがこのコトバの歴史だ。
それを決定的にしたのが、小泉純一郎であろうか。

問題は、政治家の操作に操られる人間が多くなってきたということにあるが、その責任は一概に国民側にだけあるわけではない。

人々は忙しくなり(忙しくなったように思わされ)、ものを自分で考える癖はなくなってきたし、その代わりに考えのモデルはマスコミを通しいつも示し続けられている。
街頭インタビューがテレビのコメンテーターと一致するのはその端的な例だ。

ひとは、自分の頭で考えることを止めたとき、(止めさせられたときか?)感情で動くようになる。
要は、煽られるようになるのだ。
人の感情は思ったより簡単に煽られるし、煽る技術も進んでいる。
報道の過激さとそれに同調する人々の姿を観れば、感情がいかにコントロールされているかよくわかる。
すでにわれわれは、コントロールされざるを得ない状況に追い込まれているのだ。

感情が動けば、印象は決定される。
印象とは感情の産物だから、その感情がほかのものの意のままになるとき、その場所にはあなたの印象はない。

そして多くの印象が寄ってたかって作るのが一人の政治家のイメージであり、そのイメージを操作するのがポピュリズムということになった。
そのために、服装、ジェスチャー、コトバ使い、…あらゆるものの大衆に対する印象効果が研究された。

問題は、再びわが手にものを考える習慣を取り戻せるかどうかだが、そのためには、多くのメディアから離れる必要があるように思う。
あるいは、メディアを選ぶ必要があるように思う。

幸いに、われわれはインターネットを持っており、わずかながらの良識的なラジオ番組を持っている。
番組の主張云々ではなく、その中にものを考える姿勢が見えるものからその考えるという行為をもう一度たどりなおせるかもしれない。
もちろん細い道なのだが。

選挙の夏の最終コーナーが見えてきた。
この国はどこに行くのだろうか。

前々から言っているが、わたしは貧乏の共有という方向を見せてくれる政治を求めている。
それは、死の共有ということも含んでいるかもしれない。

ここ5年以内うに医者がいなくなるということはすでに一部の人から大きな声で教えられている。
特に救急と産婦人科、そして介護に対しての医者が。

人の生を闇雲に守るというだけの主張に何の保証も与えられない時代がもうそこまでやってきている。

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