2009年8月27日木曜日

まねきねこダック

アフラックの宣伝で、「まねきねこダック」というのをやっているが、歌もキャラクターも女の子も気に入っている。
ふと笑顔がこぼれる。
おもしろいものだ。
ときどき自分の好むものに出合うということは。

けれども同時に自分の好きなものは自分が好きなだけでほかの人とは何の関係もないものなあと思ったりもする。(だから、大きな声で言えないし、書けないものなあという話だ)

この認識は特殊かもしれない。
テレビで自分のことを、とうとうとしゃべるタレントがおり、それをおかしそうに聞く相手がいたりすると、こいつら何も考えていないんだと思うが、と同時にこういうふうに人としゃべりあえるというのが幸せというものの一部なんだろうとも思う。

他人が自分のことに興味を持っていることを無防備に信じられるということは幸せであり、不幸の始まりだ。

不幸の始まりというのは、自分の周りの人が興味をもたなくなることを致命的に思ってしまうからだ。
そんなことは、はじめから決まっていることで、他人が自分に興味を持つはずはないのだ。
もしも、自分に興味を持ったり、気にしていたりしてくれる人がいたりすれば、それはとても大事な人で、「家族」と思ってもいいくらいだ。

ここで「家族」がカッコつきになっているのは現実の家族がそのように機能していないことが間々あるからだ。
ひとがそのままの存在でありながら認められるという美しいあり方は、なかなか出会えない関係だ。
多くはその人に何かを期待する。
そして、その何かは多かれ少なかれ世の中が作り出した着物であることが多い。

わたしは、まねきねこダックの宣伝を好もしく思う。
わたしは、わたしをそのまま認めてくれる人をありがたく思う。
そんな人は、いまは、もうそんなにはいないが…

家族もまた崩壊している。
情報が開かれてしまった悲劇と呼んでもいいだろう。

世の中は自浄作用をなくしかけているのかもしれない。
おそらくそんな頃合だ。

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