2009年9月17日木曜日

たとえば離婚

離婚というものがこの世にはあり、それが近場で生じることもある。
わが身も含めてだが…

離婚の処理には法的な介入があるものだが、この際に行われる事実の積み重ねは往々にして、実際に進行してきた事実とは異なっている。

事実は最終的に起こった事件ではなく、それまでに積み重なった精神的なもの、感情的なもの、あるときは風情といったものでさえ関係している。

ところで、法というものはこういった揺れ動くものには興味がなく、相手にいくらの預金があるとか、資産としての持ち家の評価額はいくらだとか、あるとき殴ったそうだが、その被害度は医者の証明によってはこれこれだとか、動かぬものが大変にお好きだ。

けれどもだ。
けれどもわれわれの生活は日々動くものによっておおよそ支配されている。
その日々の総括のような人生もまた流動的なものの中に浮かぶ。

あの時どうしたこうしたと並べ立てられても何の実感もわかないものは、確かにそのような事実はあったかもしれないが、その事実は確固たるものとしてそこにあったのではなく、浮遊物としてそこにあったからだ。

そういったことに反して、法律というものに話が及んだとき、事実の持つ浮力に対する言及は何の意味ももたなくなり、ただ事実がそこにあったとしか見えない愚弄すべき人々の主張のみが通っていく。

当たり前といえば当たり前だが、少し腹が立つ。

もちろん、立ててみても法の前には何の効果もなく、ただ泥仕合を呼び込むに過ぎないのだが。

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