2008年12月31日水曜日

薄くなったね

ご存知かどうかはわからないけれど、新聞の紙数が少なくなっている。
広告代の集まりの悪さが、そこに出ているのだろう。
アメリカの新聞社ですでに起こったように、日本の雑誌社ですでに起こったように日本のマスメディアも2009年にはさらにつぶれていくのだろう。

一方テレビを見れば、ここではここで薄っぺらい番組がはびこっている。
広告費が減れば当然のことである。

にしてもこれらの情報に刷り込まれていくわれわれのあり様を考えるとぞっとしてしまうなあ。
メディアに毒されずにいるためには、違うものに出合うしかない。

本当の関係とは何ものかはわからないが、そのわからないものを探すことはとても大切なことだろう。

いい文章、いい映像、いい自然、いい音にであってほしい。
偽者は捨ててしまえばいい。

待っている人はいる。

去年今年 手折りし花の 香は何処

コトバの軽薄さを腹のそこまで知りながら、来年もコトバにつき合っていこうと思っています。

ラベル:

2008年12月30日火曜日

暮れも正月もあるものか


これは誰に対して書いているものではなく、とりわけひどい精神状態に落ち込んだ人間が、それを取り戻す期間にはそれがいつであるかなどまったく関係ないということを書いているだけの文章で、そういう状態は別にすぐれ特殊な状態ではなく、人は時節関係なくそういった状況に飛び込んでいくのだろうと書いている。

だからこそ、時節が重要であるので、ときにゴールデンウィークに助けられたり、夏休みに、自分の誕生日に助けられたりしている。
同じように年末年始に助けられたりもする。

しかしながら、そういう時節柄の行事を飛び越えるほどひどい状況に飛び込んだ場合はただ黙って耐えぬいていくしかない。
その耐え抜きがうまくいくか、その前に破滅が起こるかはわからぬが、時節柄関係ない深さで生じることで鑑みてみれば人のありようはかように弱く、そのときに適切な人がそばにいることは有効だが、そこにも距離感という問題はあり、ことは簡単ではない。

だからかような状態になった人間は、はたからは見捨てるに限るので、このように書いていること自体が、まだまだ耐え忍べるのだと思っていただくしかない。

ともあれ、
皆さんにはよいお年をと願う気持ちを送りたい。
そういう気持ちはまだ残っているが、わたしにとってはまあなかなかにきびしい年末年始だ。

ラベル:

2008年12月29日月曜日

酒は最強の抗鬱剤

タイトルのようなことはなんども書いてきたが、それはまたまごう事なき真実であるが、問題もある。

わたしがアルコールによりある種の躁状態を手に入れるとき、自己の管理下から自分が離れていく。
このことがその中で最も切ないことだろうか。

まあ、離れていくといういのが言い過ぎならば、自分自身がかなりのことができるようになると思ってしまうとしておこうか。(自分に対する軽い全能感である)
其の結果、不測の事態に入ることもある。
それを称して、「自己の管理下から自分が離れるという」

このアルコールの属性による所業、悪行は、アルコールから醒めることで自然のうち自分のなかに発見していき、次第次第に鬱に入っていく。
概ねは、アルコール飲酒以前の鬱よりもさらにひどい状態に入っていく。

その状態はかなりしんどい状態なので、またもやアルコールで解決しようとするが、こうなれば連続飲酒になり、通常のアルコール飲酒を超えて、好もしくないことはなはだしく、いろいろと問題は生じる。

銀座の往来にアルコール飲酒の結果倒れこむ田村隆一に「田村よ、人生痛苦多しといえども、朝酒はやめろよ」というコトバが投げかけられる。
あの言葉を投げかけた詩人は誰であったか。

アルコールを離れることはひとつの解決だが、離れることにより別の何ものかをなくすのも目に見えている。
それでも甘えているだけではいけない。

わたしもまたこれからしばらく酒と無縁の日々が始まる。

すでにわたしとともに飲もうという人はいないのだし、それは十分な可能事だ。
それは語る相手の不在を示しており、そのことがこのような文章を書く行為にもつながっている。

ああ、年の瀬だなあ。

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2008年12月27日土曜日

冬青空


「冬青空」という季語がある。
今日の空がまさにそういった空だ。
「数え日」にこういう空を見上げるのはいいものだ。

気分はいいが、連日の酒で体の調子はすこぶるよくない。
にもかかわらず、午後には浅草で、夜には中野と飲み会がある。

中野は欠席したほうがいいなと思っている。

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久々の居酒屋


水曜日の夜は、神保町「兵六」で過ごした。
東京の居酒屋の代表格であるこの店は、いつ行ってもそこに異空間を感じさせてくれる。
日常から離れてどこかへ連れて行ってくれるのだ。

ともに飲んだ人が書に詳しい人で、掛けられた額や品書きの字の話をしてくれた。
「偏見は楽しい、無知は楽しくない」は竹内好が日記に書き付けたコトバだが、なるほど無知な人間の目にはそこに掛かっている額や品書きが何も気づかずに通り過ぎていく。

そうやってただ通り過ぎることが悪いことでもあるまいが、何かが見える楽しさにはわずかに劣るかもしれない。
そんなふうに思った。

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2008年12月24日水曜日

国家社会

「国家社会」というコトバを耳にすることがあるが、「国家」と「社会」は並べられるものではない。
「国家」は「社会」を思いのままに牛耳ようとするし、気骨ある「社会」ならばその国家の仕打ちに反逆しようとする。

さて、我が日本だが、この国の「社会」は残念ながら気骨がなくなってしまっている。
明治以降の国家大事を第一とした政策の成し遂げた成果だ。

「社会」にはもちろんのこと人々がいて、そこにはそれぞれの生活があり、あるころまでには横と横とのつながりもあった。
それがわたしたちの根っこである。
その根っこを壊す大きな役割をしたのが、核家族制で、見事に家族を会社の労働力再生ユニットへと転換していった。
その過程で核家族同士は連帯の意識をもたなくなっていった。
そうして根っこがなくなったわけだ。

しめしめと思ったのは国家であり、社会に対してかなりの横暴がきくようになった。
同時に擬似社会に住むある人間たちは国家の価値観と自分の価値観を寄り添わせ、国家の中で生きやすくしようとした。
その中で、次第次第に社会は二極分解していく。

それは貧富という尺度で語ってもいいが、おおもとは国家の価値観にひれ伏したかどうかの差である。
あらかじめひれ伏したものは、暮らしやすくなるが、ひれ伏さない時代を送ったものが、暮らしにくい層から抜け出すのは至難だ。

この国には二つの人々が住んでいるというのはこのような現象をさしている。

そして、恐ろしいことに暮らしやすさの中にいるほうからは暮らしにくくなっていく人々の状態が見えない。
もちろん政治家がどちらの側にいるかはご想像通りのことだ。

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2008年12月23日火曜日

文字と余白

タイトルは、あるいは「文字と空間」とするべきか?
どちらにしても人の目は、文字に行くのだが、その本質が余白、空間にあるという驚愕すべき事実。

言葉ではなく、沈黙が優先されることもある。
国民の生活と声高に言いながら、政局を優先していることもある。

この国の政策が前に進まないのは、自民党は延命を第一に考え、民主党は政権交代を第一に考えているからだ。
その発想のもともとの底にあるのは、彼らにとって不況が他者の問題であり、彼らが不況の中にいないことだ。

他者の痛みを実感として身のうちにもつ人は達人の領域の人くらいなもので、政治家のような生臭い仕事をしている中にそういう人は多くいるはずもない。
特に世襲議員の多い昨今、彼らが政治になにを見ているかわかったものではない。

不況は我が手で乗り越えていくしかない。
それが、当事者の問題意識だ。
政治家の中にはたして当事者はいるのか。

われわれは傍観者が手を差し伸べてくれるのを待っているだけでよいのだろうか。
そして、その手は差し伸べられるのだろうか。

都会から田舎に向かう人口移動を促進させること。
この発想を検討してくれる人はいないか。

生きていける食料と雨風をしのげる住みか、そして少しの楽しみがあれば人は豊かに生きていける。
都市を発展させることはその中には入っていない。

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いやなクリスマスの季節

村祭りというコトバなら響きはいいが、クリスマスは踊れ、はしゃげといわれているようで、あまり気分がよくない。

もともと、はしゃぐのが苦手な人間なのだ。
にもかかわらず、明日は人と会う予定があるので都心に向かわなければならない。
クリスマスの音楽が控えめならいいと思うが、そういうわけにもいかないのだろう。

会う人は書をしている人だが、先日、その人と話をしていて、「ああいうへたくそな字をなぜ書いているのかねえ」というような失礼な質問をすると、「空間を書いているのです」というような返事が返ってきた。

そう思って、もう一度彼の作品を並べてみると違って見えてくるのである。
空間を中心にその字を見ていくと、なんとも彼の作品は心持がいい。
目から少しうろこが落ちた。

なるほど「空間を書く」とはいいえて妙である。

字が美しいのではない。
その字によって演出された空間が美しいのだ。
その人の教えによって、一生気づかなかったはずのものが目の前に立ち現れてきた。

仕合せな気づきだった。

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2008年12月22日月曜日

ショートケーキの日


22日は毎月「ショートケーキの日」だそうで、そういえばとカレンダーを見てみれば、確かに22日の上にはイチゴ(15日)が載っております。
誰が考えたのか、ちとしゃれてはいますが…

昨夜のM-1、しゃべくりだけではとてもだめだということになってしまった現代を見せつけられた思いです。
となると、寄席の落語なんかにたどり着くお客さんなぞは早々出るはずもありませんね。

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2008年12月21日日曜日

M-1

「M-1」といえば、年末恒例の若手漫才コンクール。
それが今夜行われる。

個人的見解だが、寄席にその端を発する漫才にしても落語にしてもその芸を磨くと同時に、寄席でその客を育ててきた。
テレビ時代の現在、客を育てる場所はすでになく、寄席に行ったところで、そのなかのほんの一部に耳の肥えた、目の肥えた客がいるに過ぎない。
後はど素人が席に腰を下ろす。

芸人もひどいが、客はさらにひどい。
そのひどい客に合わせて芸は作らねばならない。

その際たるものが、テレビ芸といわれる素人相手の素人芸で、またそういった素人芸でなければテレビの世界からは駆逐されていく。
芸を楽しむには実に不幸な時代である。

その中にあって、たった4分間ではあるが、「M-1」はいいところをいっている。
いわば、テレビ芸の中で本格を目指せばどこへ行くかが、彼らの課題だ。
もちろんこんな課題を持たなくともテレビでは生きていける。
しかし、お笑いが好きな連中の中には、やはりそれでもという人間がいて、それが「M-1」にときどき登場する。

わたしの今回の予想は、「キングコング」か「ナイツ」の優勝。
個人的には「ナイツ」にとってもらいたい。
なぜなら彼らが浅草の寄席から出てきた寄席芸の本格派だからだ。
あまりテレビには似合わないのだ。

一方のキングコングは現代大阪を代表する漫才をする。
テレビが何かを知っていて、画面の中でも大きく活躍する。

順調に行けば、どちらかがチャンピョン。
そうでなければ、それはそれでおもしろいのだが。

テレビが残したごく些細な見るにたる文化として「M-1」なぞを今夜ご覧になってはいかがだろう。
もし、余裕があればだが。

何しろ裏では、トヨタカップの決勝をやっている。 

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100年に一度の不況

「100年に一度の不況」という。
それはどうやら本当らしい。

しかし、議論のポイントはかなりずれているように見える。
ポイントはこの不況を脱したときにどのような社会になって復活するかなのだが、そのあたりのことはぼんやりとしか議論に上がってこないし、何やらまた少し前と同じような経済的な繁栄を望んでいるようにも聞こえる話が大まかな様相だ。

しかし、この何十年間この社会がやってきたことは、田舎の人材を都会に引き寄せ、サービス業、車、電化製品を代表とする生産業の発展に努めてきたというのが、基本路線だ。
今やっているのは、そうやって呼び寄せた田舎の人々(なかにはすでに都会人のようになってしまった人もいるだろうが)、外国人の首を切り、どこかに行ってくれという政策だ。

その先は? といえばいずれ景気が戻り元のようになるという場当たり的な見通しだ。

しかし、おそらく今求められているのは産業構造をも大きく変えていこうとする変革だ。
それには、国家的な取り組みが必要だろう。

もはや、いらないものは買わない社会になろうとしている。
そして、この社会が生み出す多くの製品は日常どうしても必要なものではない。(そのためにコマーシャルがこのように各メディアにわたって発達した。刺激しなければ売れないものばかりだからね。あんなでかい液晶テレビなどよほどの間抜けでなければほしいなどと思うものか。最も趣味人ならば違うし。趣味というものは日常の必要性から離れているから、この議論には含まれない)


われわれ人間が生きていくためにはわずかな食料と狭い寝る場所と自分の手元に残る小さな楽しみで十分なはずだ。
今の時代もう一度この考えに戻ることは、宗教でも介在しなければ難しいかもしれないが、この不況克服にはそういう要素が、深くかかわっているということだ。
産業構造の変革を考えずして、金持ちが貧乏人になることを考えずして、この事態を乗り越えていくことには無理がありすぎるように思う。

そのとき、もっとも大きな手かせ足かせになるのは、抱えすぎたこの人口だろう。

ざっと見ておけば、

享保期(1716~1735年)の全国人口は3100万人。
130年後の弘化期(1844~1848年)も3200万人で、江戸後期の人口は停滞していた。
この背景として、耕地面積も1721年296万ha、1843年306万haと停滞していたことなどが考えられる。

しかし、幕末から明治にかけて、新田開発により耕地面積が拡大し(明治5年(1872年)に359万ha)、また嘉永6年(1854年)の日米和親条約の締結により貿易が活発になる。
さらに明治2~6年(1869~1873年)の間には四民平等が実現し、移動や職業の自由などの経済活動の自由が認められた。
これらを背景に人口は増加に転じ、日清戦争前の明治24年(1891年)には4千万人を突破して4025万人となり、その後、資本主義・工業の進展とともに人口増加のテンポも上昇し、昭和5年(1930年)には江戸後期の2倍の6445万人となった。

その後の流れは、基本的には資本主義、工業の発展と歩調を共にする。

現在、日本の人口は1億3000万人と概算されている。
東京都にはその一割が住む。
食料自給率は40%そこそこ。
穀物に至っては目も当てられない。

「100年に一度の不況」
今後の国のあり様、産業構造のあり方も視野に入れないで目先で動くだけで何とかなると思ったら大間違いだ。

こんな馬鹿らしい政策の下で、どうあっても、死ぬのだとすれば、日本の皆さんもひと暴れしてみたらどうだろう。
散々になった都市部を見て、政府も少しは考えるのではないか?

それとも軍隊を導入して鎮圧に向かうのだろうか?
ああ、嘆息するばかりなのか。

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2008年12月20日土曜日

キンミヤ焼酎


ある人にキンミヤ焼酎のことを尋ねられた。

キンミヤはわたしの実家(今はもう誰も住んでいないのだが)の隣町、三重県四日市市楠町の宮崎本店の造っている焼酎だ。
宮崎本店は「宮の雪」という日本酒で、三重では有名な酒蔵であり、なかなかの実力会社である。
わたし個人としては、焼酎に限ればこの酒蔵の「白髭」というごぼう焼酎を実家に帰るたびに好んで飲んでいる。
ごぼうの香りがなんともふくよかで心地よい。

ご承知のように焼酎は甲類と乙類に分けられる。
甲類は糖蜜などを原料にした発酵液から蒸留して得られる高純度エチルアルコールに加水したものである。
ホワイトリカーや韓国焼酎「JINRO」などが有名だが、もうひとつあげておかなければならないのが通称「キンミヤ」、正確には「亀甲宮焼酎」である。

この「キンミヤ」はそのまま飲んでおいしいものではなく、多くは体に悪そうな梅エキスと呼ばれる黄色い梅味の液を混ぜたり(これを飲む人はかなりの酒飲みと思っていい)、チュウハイやホッピーを作る際のアルコールとして利用される。

このチュウハイ、ホッピーに使う焼酎は癖のないほうがよく、したがって乙類より甲類を使うほうがいいとわたしは思っている。
さらに甲類の価格の安さを考えれば、ますますこの考えは捨てがたい。

乙類は甲類と比べて作り方がやや複雑になっており、
まず麹をつくり、その麹をばタンクや甕(かめ)で発酵させることで、もろみを作る。
これを一次発酵と呼び、この一次発酵させたもろみの中へ原材料を投入させ、二次発酵をうながす。
このとき投入した原材料が焼酎の主要原材料として表記されることになるわけで、先ほどの「白髭」はこのときにごぼうを投入したわけだ。

ほかにも米、麦、芋、そば、茶、ごま…と乙類の種類は豊富で変化に富む。
さて、乙類の最後の仕上げは、アルコールを生成した発酵液を蒸留することであり、当たり前のことだが蒸留酒であるのは甲類と変わりない。
しかし、風味というものが乙類にはあるのでホッピーやチュウハイには向かない。
そんなことをすると風味が飛んでしまうのだ。

このところ「キンミヤ」の消費量が増えているのは、その安さとチュウハイ、ホッピーという飲み方の定着によるものだろう。
まあそこそこうまいし、何より安くてしっかりと酔える。

不況下の居酒屋の酒としては今後君臨していくのかもしれない。

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マニー・パッキャオ


【12月7日 AFP】(記事更新、写真追加)ボクシングウエルター級12回戦。元6階級王者のオスカー・デラホーヤ(Oscar De La Hoya、米国)は、マニー・パッキャオ(Manny Pacquiao、フィリピン)対戦。デラホーヤは8ラウンドTKOでパッキャオに敗れた。

 現WBC世界ライト級(リミット61.24キログラム)王者のパッキャオは、階級を2階級上げて契約体重がウエルター級(リミット66.68キログラム)の対戦に挑み、圧倒的なパフォーマンスを見せ体格差の不利を覆した。

 デラホーヤはパッキャオのスピード、パワー、精度に対応することができず、9ラウンドに臨むことを拒否した。(c)AFP

知らないというのは恐ろしいもので、おそらく東洋の輩出した最もすばらしいプロボクサー、マニー・パッキャオのことを知らなかった。
フライ・スーパーバンタム・スーパーフェザー・ライト級の4階級制覇を行っている。

デラホーヤはご存知のように6階級王者となっているが、パッキャオの4階級はえらく飛び飛びでとっており、こまごまと取れば、さらに多くの階級に君臨したことになるが、彼はそれをしなかった。
そういう細かいことに興味がないのだろう。

フィリピンでは彼の試合の放映されるときには犯罪は起こらないし、ミンダナオの政府軍対ゲリラの戦争も一時休戦になるという。

これほどの選手を知らずに過ぎ去っていこうとしていたところが、情報の流れから離れた場所にいるということで、ちなみにこの情報は、格闘技に関して圧倒的な情報量を誇る知人から受け取った。

「YOU TUBE」で彼の試合を見てみようかと思っている。http://jp.youtube.com/watch?v=YzflcZQOrqI

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2008年12月19日金曜日

それはひとつの奇跡であった


渡辺が将棋界初の3連敗後の4連勝で竜王位を防衛した。
相手が羽生であるだけにこれは奇跡に近い。
最近のブログでも書いていたが、これで将棋界の地図にいささかの変動があるかもしれない。
「いささか」としたのは、わたしが羽生の精神力を恐ろしいほど見せつけられてきたためだ。

しかし、まあ、時代は変わるが、それを押しとどめようとする人もいる。
こういう場面に出くわせたことを幸せと思う。

将棋を知っていたことを幸せと思う。

渡辺明に遠くからではあるが、静かなエールを送りたい。

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2008年12月18日木曜日

ブルジュ・ドバイ


ブルジュ・ドバイはメトロポリス「ドバイ」の象徴である。

知っての通り、ブルジュ・ドバイはアラブ首長国連邦最大都市ドバイに建設中の超高層ビルである。
地上162階建、尖塔高818m、軒高643.3mとなる予定であり、2009年竣工予定となっている。

すでに2007年7月21日には台北101を抜いて世界一の高さの超高層ビルとなっており、さらに2008年9月28日には高さ713.7mまで到達し、人類史上最も高い建造物となっている。

それが今、音を立てて崩れようとしている。
もちろん比喩であるが、ブルジュ・ドバイはまさに「バベルの塔」の様相を呈している。(いや「バブルの塔」か)

オイルマネーに物を言わせ、圧倒的な資金力で砂漠の中に忽然とメトロポリスを現出させようとしたドバイの構想に世界中のマネーが押し寄せた。
そして、いつのころからか、現実のドバイは仮想空間ドバイへと変貌していった。

とはいうものの全世界のクレーン車の三分の一を集めたといわれる壮大な都市計画は実際に行われていたわけであり、誰がそれを仮想空間だと思うものか。
確かに質感を持った建物がそこにはあったのだ。

しかし、それを見た人間の頭の中には別の姿が見えていた。
買われた高層マンションの部屋たちは投機対象としてであり、住居としては認識されていなかった。
彼ら投機者はそれを転売することのみで購入し、高騰したそれを転売し続けた。
そこにドバイの繁栄がある。

それが夢と消えた。

現在、世界を巻き込みながら暴風雨と化している仮想経済の崩壊はここドバイにも吹き込み、投機対象、つまりは仮想世界のおもちゃのマンションが実体へと変わりながら、下落を続けている。

ドバイでのビルディング、マンションの下落は恐ろしいスピードで進んでいる。
そのスピードには追いつけないものの、やはり投機者たちも恐ろしいスピードで引き上げている。

砂漠の中に突如出現しようとしたあのメトロポリタンは文字通り「砂上の楼閣」となろうとしている。

実体世界が仮想世界に変節するとき人はその実態を見失う。
それがここしばらく世界で行われていたことで、その見失ってきた実態と仮想との差はかくまで大きい。
そのことを仮想世界が拭い去られた後に見える実体経済で改めてわれわれは認識する。

日本では馘首、馘首と自動車産業あたりが恐ろしい勢いで首切りに専念している。
仮想に踊らされた人々に売ってきた車がいつまでも今までのように売れるわけでもあるまいに、いつまでそんな会社を後生大事に守るつもりなのだろうか。
みんなで細々と食っていく発想はないのだろうか。

首を切られれば、野垂れ死にまであとわずかだ。
かく言うわたしも同じ境遇。

華々しく死にたいものだ。

それが出来ないのなら細々とどこかで静かに暮らしたいものだ。

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2008年12月17日水曜日

飛ぶ夢をしばらく見ない

わたしが山田太一の作品の中で最も愛する作品は「早春スケッチブック」だが、他の作品にも何度も泣かされている。
(「早春スケッチブック」は絶版になっていなければ新潮文庫でそのシナリオが買える。泣かされる人はひどく泣かされるだろう。もちろん感じない人は何も感じないが、それが人それぞれの反応であって、何も特筆することでもないのだろうが…)

おそらく見ている方向が山田氏とわたしは似ているのだろう。

さて「飛ぶ夢をしばらく見ない」は後に映画化されるが、もともとは小説である。
この小説はいささかSFがかっているが、そういう小説をこの人は書くことがある。(「異人たちとの夏」が有名か)
シナリオにはSFがかったものはないが、彼の思いの先にあるのはSFの要素が入っていようが入っていまいが大きくは違わない。
この作品でもまた人と人との間を書こうとしている。

この作品で人と人の間を結ぶものは「性」である。
その「性」が人と人をつなぐ様子を描くためにSF的要素を導入している。
そして、まさにそこに登場する男と女は「性」を通して人間と人間のある信頼関係を仮想する。

まあそのくらいの力が「性」にはあるということだ。

もちろんだからといって、だれかとセックスをすれば、だれでもその人と今まで見えていなかった深いある関係が開けてくるかといえば、そうとは限らない。

人のやることにはあたりはずれがある。

数式で表される空間をわたしたちは歩いていない。
不確定なものあるいはその存在が保証されぬものを求めるようにわたしたちはあやふやなもののうちを歩いている。

もちろん男と女もそうで、どちら側から見ていようと見ているのは「自分の心に映ったその人」であって現実の「その人自体」ではない。
「自分の心に映ったその人」は確かに自分の心のなかには存在するが、現実に「自分の心に映ったその人」が存在するかどうかは保証されてはいないし、おそらくはいまい。

では、現実に目の前に見えるその人は何者か?

その答にたどり着けるかもしれない隘路として「性」は存在する。
そのようにこの本は読める。(ま、わたしがそう読んだだけの話だが)

もちろん「性」を書いているのだから十分にいやらしいし、十分に淫らだ。
この本を読み解くためにはある程度の淫らさを自分の中に持ち、その淫らさである程度の異性とかかわった経験を持つ必要があるのかもしれない。

とにかく

「性」というものがそのような属性を持っていたとしても、いや持つからこそ人と人の間を考えるときの力となりうる。
それはわたしもふと思うことだ。

この小説で描かれる「性」はそのSF的要素できわめて象徴的な形をとる。
そのSF的要素がないこの世でこういった形の男女関係を自分たちで表出させるのは、非現実的なことかもしれない。
少なくとも持続性は期待できまい。

しかし「性」というものの持つ切羽詰った人と人のありようはなんとも切ない。
できるならば、あなたにそういう「性」を通して人と出会ってほしいと思う次第だ。

「飛ぶ夢をしばらく見ない」

シナリオライターの書いたこの本は、ごくごく読みやすく、なかなかに深い本であることをここに紹介しておきます。

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風邪は続く

一応、起き上がって作業は出来るが、外へ歩いて出かけも出来るが、ノドのタンがひどくははないが一日中続く。
特に朝起きた時点のそれは明らかな風邪の症状のそれだ。(汚い話でごめんなさい)

治ったとは思っているが、深く我が体内に潜んでいるに違いない。
明日は人と呑む約束をしているだけにまた症状がひどくなるのを考えながら酒を抑えることにするかとも思うが、わたしの意志にそこまでは期待できないだろう。
かといって断るのは非礼が過ぎる。
痛し痒しである。

風邪が潜むのは何とかわかり、このように悩みもするが、おそらく我が体内には別のものも潜み、というかわたし自体が、見えているわたしではなくわたしの中に潜む総体で動かされており、わたしの意識が決定していることなど少ないのではなかろうかとも思う。

なまじ見えているものだけを信用していると、どこか違うところに無理やり操縦していく車のようにギクシャクしながら進んでいくのかもしれない。

インフルエンザがそろそろ出始めている。
明日はそのこともあってかかりつけの医者に相談しに行こうかとも思っている。

それはそれとして、羽生対渡辺の竜王戦最終局が今日の午前九時から始まっている。

まわりの動きは少しは見えるように思うが、わたしの内部でなにが進行しているかはさっぱりとわからない。
そのように今までわたしが進んできたことが今頃になっておぼろげながらわかる。

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2008年12月16日火曜日

クリスマス…か

この季節になると数年前、新宿しょんべん横丁で飲んでいたときのことを思い出す。

その初老の男は酔っていた。
わたしの隣に座るとすぐに酒を注文して飲み始めるが、しきりにひとりごつ。

小さな声だが何度も何度もくりかえし手酌し、ぶつぶつ言っているものだからそのうち何を言っているのか理解できた。

その日はクリスマス間近、新宿の街はクリスマスソングの喧騒に覆われていた。

そのひとはこう言っていたのだ。

「クリスマス…、ろくなもんじゃねえ」

くりかえし、くりかえし。
わたしはそのときその人の人生を思いやってみたが、ありきたりの物語しか浮かびはしなかった。

そしてときは重なり今年、あの街の喧騒と出合うとき、わたしも同じような言葉をつぶやいてみたくなる。

「クリスマス…、ろくなもんじゃねえ」

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2008年12月15日月曜日

美食だけでなく食事そのものが

断食で長生き――。土の中に住む線虫は、断食を繰り返すと最大1・5倍寿命が延びることを、京都大生命科学研究科の西田栄介教授らが突き止めた。人間にそのまま当てはまる訳ではないが、断食を繰り返し、食べる時は好きなだけ食べた方が、食事の量を減らすよりも長生きできるかもしれない。英科学誌ネイチャー電子版に15日、発表した。

西田教授らは線虫に2日間、十分に餌を与えた後、2日間断食させる、というサイクルを繰り返し、餌をずっと与え続けた場合と比較した。その結果、平均24日だった寿命は36~40日と、50%以上延びた。

モデル動物の線虫の寿命には、人間にもあるレブという遺伝子が関係しており、この遺伝子の働きを止めると、断食を繰り返したり餌を制限したりしても、寿命は延びなくなった。(2008年12月15日 読売新聞)



科学的にはどこまで信頼性があるかわからないが、直感的には食事の量はそれほど力がないと思っている。

にもかかわらずわたしがふくよかなのは、現代的な志向に毒されているからだと思う。
考えてみれば、それほど腹が減っていないのに食事をしたりもしていた。

西田教授のモルモットになったつもりで生きてみようかとも思う。

長生きしすぎるのはごめんこうむるが…

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人は人を憎む

人は人を憎むが、多くはその人自身ではなく、自分の作ったその人のイメージと現実のその人のギャップに腹をたて憎む。
要は、自分のイメージをその人の現実が崩したときに、その相手に怒りをもつのだ。(なんと理不尽な)

これがたいていの怒りの要素で、これ以外の怒りは本質的な怒りであり、ここでは取り扱わない。

わたしが取り扱うのは幼子の怒りであり、そしてこの世には多くの幼子がいるという話だ。
その形状がたとえ大人のようであっても、つまり青年であろうが熟女であろうが老婆であろうがである。

人はどこかで自分がその人に抱いたイメージは自分が勝手に描き出したもので、その人とは関係ないということを知らなければならない。
あるいは、他人が勝手に自分のイメージを抱くことを知らなければならない。

そうすることで多少わずらわしいことから逃れることは出来る。

誰かに何かいいことを(もちろん自分が相手にいいことだろうと思うにすぎないのだが)したときははっきりと自分の中に刻印するが、相手からの何がしかの贈り物はそれが精神的なものであれ、物質的なものであれ、その人にとっては砂に書いたラブレターに過ぎない。(もちろん上等な人は違うがね)

わたしにも最近そんなことがあって、いやというほどその人たちの幼さを知ったが、わかっていてもついついその形状に(幼子でないという形状)惑わされてしまう。

人は人を憎むが、多くはこのような理由からだからあなたが誰かに憎まれたとしても何も恐れることはない。
ただ刃傷沙汰だけを恐れていればいい。

むしろ自分がだめな人間であることを知っている人を愛することだ。
それは自分の本来の姿をわりに冷静に眺めながら、それでも愛してくれる人間を大事にすることを意味する。

人は人を憎むがそれは語ってきたように致し方ないもので、出来るなら幼子は幼子として扱い、必要以上に近づかないことが肝要だ。

そして幼子はあなたの周りに五万といる、哀しいことだが。
そして大事にすべきあなた自身を知ろうとしてくれる人は驚くほど稀少だ。

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シシャモ


われわれが普通食べているのは下の写真のシシャモであり、上のほうはあまり食べることはない。
理由は単純で、上のほうの価格が高いからである。
それは味というよりは漁獲量の問題だとわたしは思っている。

確かに上の本シシャモはうまいが、10匹で800円から、いいものは3000円あまりする。
そこまでのものではない。

下はカラフトシシャモ、カペリンだが、その安さは皆さんご承知のとおりだ。
しかし、カペリンをカペリンとして売っている店はない。
(あれは偽装ではないのかね)
まあ、わたしはあれはあれでいいと思う。
でないと回転すしなどは偽装のオンパレードだ。

さて、この本シシャモはもともとは結構取れたらしい。
聞けば200トン以上あったらしい。
それが、7トンくらいに減ったものだからあわてた。
1991年から4年間休漁している。
絶滅を恐れたのだろう。
それくらい北海道の人々は常食していた。

いまは、それでも70トンくらいにまで復活してきている。
さらに一種の能書き人の影響で多少高くとも食べるようになったが、それでも時々は食べてもいいのではないかくらいの話だ。

今でも北極海に分布するカペリンは日本人の食すシシャモの9割を占める。
カペリンは海で育ち川を遡上しないが、シシャモは川を遡上しそこで育つ。
別の生き物で味も違う。

ここまでが現状認識。
後はどうするかはあなたが決めればいい。

知っておくことはいいことだが、うまいものを食べているからといって、何かが変わるわけではない。
ただただ、趣味の問題だ。

趣味としては上等だとは思うが。

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2008年12月14日日曜日

情報

「情報」と、単にコトバとして発してみるが、こいつが今の世の中、大きく動いている。
インサイダーに代表されるように他の知らない情報を知っていることで、大きなアドバンテージをとり、その結果莫大な金をもうけることも出来る。

一方、もう少し細やかに書いて「情報収集能力」と「情報処理能力」とすれば、収集された情報のうち稀少で金になるものを選びとることが処理能力のうち最も経済的には基本的なものだろう。
もちろん、これは、それほど質の高い作業ではない。

収集した情報を取捨選択しながら再構成し新しい情報に変質させていく処理能力こそ個別的なものであり、個別的にユニークで敬愛すべきものである。

そしてさらに踏み込めば、この世には、ほぼそのままの情報と誰かが加工した情報がぐじゃぐじゃになって渦巻いている。
これらのすべてを処理できるならばすべての情報を持っているにこしたことはないが、処理能力を超えた情報は逆に自分の無能力さを知らしめる側に立ち、よい結果を生まないことも多い。

人は必要な情報をしっかりと握っておけばよいのだ。

そして、その必要なものかどうかは自分で決めるがいいと思う。

でないといやな思いにぶち当たることもままある。
いまや情報も金と同じようにアドバンテージを持っている人間にしか回らなくなりつつあるからである。
そういう風にしないのが、マスコミなのだが、さてどうだろうか。

情報の信用できる出所をマスコミやインターネットに託し、必要な情報を選び取り、考える。
それがいいのではないか、と思っている。

あるいは情報収集にまわす力をすべて放棄し、昼寝でもしているのがずっといいのではないかとも思う。

とにかく、この世は情報の渦。
自己の情報処理能力をよく吟味し、情報の渦に巻き込まれないようにしたいではないか。

それともオレが、半年で倍にしてあげるからといえば、1000万円ほど貸してくれるだろうか?

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立木義弘


「ハル・ベリー」の「チョコレート」のことを書いた数日後、立木さんが、ラジオ番組でこの映画のことを話していた。
話していたのは下世話な話だが、(実はそう単純ではないかもしれないが…)「最近、どの女優を下半身で感じましたか?」そのような質問に対する答えだった。

即座に立木さんは「ハル・べりー」と答えた。
そしてさらにあの「チョコレート」のソファーの下でするセックスは今までになかった演技だったし、感じさせるすごいもんだった、てなことをしゃべっていた。

これは実際にそうで、あのシーンには特別に感じさせるものがあった。
「チョコレート」にはもう一ヶ所性的に感じさせるシーンがあるが、それもこれもみんな家の前の小さな階段に座る最後のシーンにつながっていく。

にしても立木さんがハル・ベリーがエッチだといってくれたことはうれしかった。

わたしもまたハル・ベリーを男の目で見ていた。

そして、それは作品を見ることを少しも汚すものではないことを蛇足だが、あえて加えておこう。

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農業

少し前から書いていた農業への注目が政治の世界でも経済の世界でも本格化しつつあることはうれしいことだ。
それでも金儲けから離れない発想がついて回っているが、農業だけは、金儲けを後回しにしても早急にとっかからなければならない事項だし、「WTO」に関しても食料を自給できていない国家に対する特別条項を要求する必要性はあるだろう。

中国での米(こめ)開発が進んでいることやウクライナの大地の経済分割合戦を見ても、自国の食料自給率は、最低にして譲るべからざる部門で、この線だけは守らなければ、穀物を戦略物資として脅しをかけられたときにはひとたまりもなくこの国は倒れる。

穀物が実際の武器に見えないところがこの事実の恐ろしいまやかしで、スカッド何発分にあたるか知れたものではない。

この国の経済構造は変化しなければならない瀬戸際に来ているのであり、その大きな選択の一つに食料自給率を100%にもっていくことを基本条件にした経済構造がある。

大量消費を絶対的な条件として成立した国アメリカは戦争で大量消費がまかなえなくなりはじめると金融商品でまかなおうとした。
その金融商品が金融恐慌を受けたとき、実体経済も大きく崩れていき、今はなんとも仕様がない状態だ。

大量消費を前提にしない経済をかの国が、改めて建てられるかどうかは大きな問題だと考えられる。

とにかく,良くも悪くもビッグ3を援助しないことを決めたのは趨勢であり、必要最小限の車しかもはや売れはしない。
電化製品もそうだろうし、他の奢侈品もそうだろう。
それが不況下の常識だ(実体経済からはっきりと見える不況下の)。

問題はなにが基礎財であり、その基礎財を再生産していけるようにするには人口も含めどうするかの判断をなすべきときにきているということだ。

フリードリヒ・ハイエクからミルトン・フリードマンへと続く新自由主義の考えは、そこでは通用しない。
もし、通用させるならば、「弱者は死んでいけ」というスローガンになる。

もちろんこれも選択の一つだが、勝者たちは高らかにそう叫ぶのだろうか?

「お前たちは死んでいけ」と。

実は、わたしはそう叫ぶのかもしれないと思っている。
そのときわれわれに彼らに対応する手段はあるのか。

テロも加えて考えざるを得ないだろう、というのがわたしの私見だ。

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渡辺、羽生にまた返す

12月11,12日の第6局で渡辺明が羽生に1勝返し、3連敗後の3連勝とした。
囲碁界には3連敗後の4連勝があるが、将棋界にはない。

いよいよ将棋界初の3連敗後の4連勝逆転という奇跡が現実味を帯びてきた。
しかもこの6局には渡辺の新手が登場してわずか70手という短局で終わっている。
渡辺恐るべし。

第7局は天童市、17,18日に行われる。
最終局は再び振駒がされるが、このときの先手後手の差は大きい。

はたまた渡辺がさらに新手を用意しているかどうか。

羽生が敗れれば、これは大きな出来事だし羽生の汚点である。
渡辺にとっては悔しいだろうが痛みは少ない。

それでも必死になって、渡辺は価値をとりに行くだろう。

将棋指しに加減はない。

若者はさらに進んでいった。

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狼花


熱のせいでもあるまいが、カッパ・ノベルスの「狼花」(新宿鮫シリーズ)を買ってしまった。
単行本で出版されたものが、文庫本になるのは知っているが、カッパ・ノベルスで再出版するとは、光文社はこういうことをするのか。

ま、いたしかたなく病床で読んだのだが、やはり大沢のこの社会世界の構造を別様に見せてくれる力はたいしたものだ。
二度読んでみて改めて感じた。

しかし、残念ながら多くの要素を放り込みすぎたためキレに落ちるところがある。(わたしが書くのもなんだが)
犯人の仙田の公安の経験に関しては「警官の血」が明らかに優れているし、この小説であそこまで取り入れる必要はなかった。

短編に主題を二つ入れるなという定跡はよく知られたところだが、長編も主題の錯綜は大きなマイナスになる。
それはそれとして、よく調べられたいい作品である。
大沢氏のレベルはすでに他を超えている。

ついでに大沢の「Kの日々」という作品も読んだが、これはどこにでもある作品で、読むほどでもない。
ミステリー好きなら、ブーイングするかもしれない。
それでも最低線は超えているが、わたしもまた「読まなくてもよかった」と思った。

ま、全部が全部いいわけではないというわけだ。
当たり前の話だが。

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風邪

10日の日に風邪を押して呑んだものだから、散々苦しめられてしまった。
インフルエンザでなかったのが少しの救い。
ようやく起き上がれるようになった。

今年は新型インフルエンザで大変な病人と死人が出るということになっているが、実効的なワクチンはない。
今のワクチンは型に対応するワクチンではないとワクチンは効果がないが、今のところ新型ワクチンの型はわかっていない。

型がわかってからワクチンを打つというのが妙策だが、もしその前にインフルエンザにかかれば腹をくくって治療に専念するしかない。

経鼻ワクチンという画期的なワクチンも開発されているが、いまだ完成されてはいない。

この世界人口から考えると大量の死人を自然が求めているというのもまんざら嘘ではないかもしれない。

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2008年12月10日水曜日

安全地帯

人は安全地帯にいて始めて自由に振舞える。
幼児が母親の存在があるときに自由に振舞い、彼女が見えなくなると彼女を探し回ったり泣き出すのはそのためである。

何よりも人には、特に幼児には「安全地帯」が必要なのである。

バーチャルゲームに人が熱中するのは、そこには安全地帯が保障されているからでもある。(主人公が死んでも現実の自分は死なないからね)

安全地帯がなくなれば、ゲームを取り上げられればそれに侵食されていた(誰でも何かに浸食されているのだが=そこにいる間は安全が保障されている信じている何ものかを持っているのだが)人物は途方にくれる。
その後、暴力に走るか、鬱になるか、どうなるかはわからない。

これは特別なことではない。

たとえば羽生義治から将棋を取り上げたり、イチローから野球を取り上げたりしてみればいい。
反応はあまり変わらないだろう。
ただし、彼らには財産があるから多少事後の行動に差は出るだろうが…

だから、ゲーム依存者からゲームを取り上げられ、彼らが取る対応は特殊なものではない。
ひととはそうやって生きるものなのだ。
それが、麻薬か野球かの違いだけで、本質的にはあまり変わらない。

しかし、社会の反応は大いに違う。
それがこの社会システムを守るうえで重要かどうかの差があるからだ。

今回の解雇者たちは安全地帯から投げ出された人々だ。
この人々に対してどうするかは、一重に社会システムを守るうえでどう影響があるかの判断にかかっている。
何もしなくても社会システムが守れるならば、何もしないはずだ。

彼らが大きな騒動を起こし始めたならば、必ず動く。

大きく見れば、今回の大量解雇に対する政府の対応はそのような構図になっている。

繰り返すが、ひとには安全地帯が必要である。
それが何ものであってもいいから安全地帯が必要である。

ときとして人はそれを異性に求めることがあるが、その異性に安全地帯を求めたことに深い葛藤を持ったとき、安全地帯の必要性とその葛藤はどのように折り合いをつけるのだろうか。

「チョコレート」のラストシーンのハル・ベリーはそのように夜景を眺めていた。
そのラストシークエンスにほとんど会話を与えなかったことがこの映画のすばらしさだ。

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2008年12月9日火曜日

概念

「概念」のことをある青年に尋ねられてうまく答えられなかったのでここに少し書き加えておくことにする。

よく使われる例として「犬」という概念を挙げよう。

概念としての犬は、個々の犬ではなく犬の集合に対して頭の中に存在する。
実際には白い犬もあれば黒い犬もいるし、小さいのも大きいのもいる。
しかし、それらの相違点を無視して同一であるかのように「犬」という概念は抽象的に頭の中にある。

それは具体的には4本足であり、尻尾があり、哺乳類であるといったもので、これが概念としての犬に当てはまり、ひっくり返して言えば、現実にいる個々の犬はすべてこの概念に当てはまるというわけだ。

したがって、概念は頭の中にある普遍的なそのものである。

観念という言葉もあるが、素人考えで書けば、観念は具体的に見えるものでなくても頭の中にあるもののすべてをそう呼ぶ。
たとえば、愛とか友情とか差別とか…

そういう意味では、観念は概念を含めた頭の中の姿を大まかに言うときの表現だ。

「観念的に言えば」となると現実世界はともかく「頭の中では」となる。
もちろんこの「頭の中」があなたとわたしでは違うのでさらにややこしい話になっていくのだが…

素人のブログではこのあたりの理解でよいのではないかと、勝手にここらあたりでとめることにする。

少しはイメージしてくれたでしょうか?

Kくんへ。

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ハル・ベリー


映画のことを書いてきたので、もうひとつだけ重ねることにしよう

「チョコレート」

ハル・ベリーはこの作品でアフリカ系アメリカ女優として初めてアカデミー主演女優勝を取る。(こう書くところがわたしの差別感だし、こう紹介されるところがこの世の差別感だろう)

作品は見ればいいが、実に抑制の効いた辛い話だ。
「痛み」がある。
それははっきりとどのようなとは説明しきることはできないが。

ハル・ベリーはわたしの贔屓の女優だが、にもかかわらず「Xメン」と「Xメン2」の間にこの「チョコレート」は位置しており、この作品のことをわたしは長く知らなかった。

そういえば、ボンドガールになったときも映画は見たが、あまりはっきりと彼女だとは知っていなかった。
わたしは「Xメン」シリーズの超能力者としてほれていた。

この映画を改めて見て、いい女だと知った。

しかし、人生は辛いもので、わたしなどが泣き言をはくようなものではないのだともわからせてくれた。

調べてみればすぐにわかるが、私生活でもずいぶん辛い思いをしてきている女性だ。
少しでも彼女に幸せがあることを。

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パーフェクト・ワールド


映画の話題をもうひとつ。
「パーフェクト・ワールド」イーストウッド監督、ケビンコスナー主演
泣かせる映画である。

パーカーの「初秋」に主題が似ているところがあるが、こちらは映画だけに過剰である。

映画には小説にない要素が多く入っており、それは音楽であったり、SEであったり、映像であったりだが、そのため観客に過剰に飛び込んでくる。
さらに作り手もその過剰に麻痺してくるし、観客も麻痺してくる。
そのため過剰をよしとする風潮があり、この映画のラストもそういうきらいがある。
にしても佳品といっていい作品だ。

個人的には「初秋」が好きだが、媒体も違うし、わたしの過剰嫌いという趣味の問題なのでこれを読んでおられる方は気にせずともよいし、ぜひご覧になればいいと思う。

それよりも何よりもこの作品が観客に教えてくれる痛みに目を向けておきたい。
いい作品はどのような媒体であれこの「痛み」があるものだ。

観客は、読者はそれを受け取りその痛みと付き合うことで、何がしかのものを得ることがある。
それが作品に接する醍醐味だとわたしは思っている。

「痛み」とは何か、というのは難しい質問だが、たとえば安直な作りで言えば、愛するものが死んでしまうというラストにもっていく昨今流行の「死に落ち」といわれるものだ。
しかし、あの「痛み」は浅はかな「痛み」で観客に何も届けることは出来ず、ただ疑似体験のような一瞬の悲しみに浸らせてくれるだけだ。

ここではそうではない「痛み」があることと、あなたがそういう作品にであって衝撃を受けたときああこれがあの男が「痛み」と言っていたものかとわかっていただければ僥倖だ。

あなたがいい作品に出会うことを願っています。

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ダーティーハリー4


ソンドラ・ロックが出演していると改めて聞き、イーストウッド作品はたいてい見ているが、もう一度この作品を見ることにした。

「アウトロー」で荒くれ者に襲われたときに丸出しになったソンドラ・ロックのおしりがあまりに可愛いのでイーストウッドが(実はわたしが)感動してしまって、しばらく、といっても10年以上もだが、二人は同棲生活をする。
その内情は悲惨なものでいろいろなところで取りざたされている。

「ダーティーハリー4」は「アウトロー」から8年ほど経った作品で、ソンドラ・ロックの容姿も変わっていたが、イーストウッドを見る目にも演義以外の変化が見えた。

しかし、そういう場所に映画はなく、他の三作品の「ダーティーハリー」同様「ダーティーハリー4」は見る価値のある映画で、観客のどこかに傷をつけそうな映画であった。

二人のソンドラ・ロックを意識して見られたのが幸せだった。

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2008年12月8日月曜日

今後迎える不況

今後迎える不況に関しては、(環境問題がすでに登場しているように)今まで存在していたエンドユーザーが以前と同じように再び登場し、それが登場し続けるかどうかの疑問が潜んでいる。
今回の労働者のかく首の槍玉に上がっている自動車産業の大きな問題点はもはやそれほど車は売れないのではないかというところにある。

だからエコ自動車だ燃費のよさだといい始めているが、従来どおりの売り上げは果たして復活するのだろうかという問題がある。
それを加味してのかく首である。

もちろん、それは社会問題としては大きな問題で、政府が手を延ばすべき問題としては残る。

しかし、それとエンドユーザーが戻ってくるのか、それとも社会構造自体が変わっていかなければならない時代になってきているのかとは別問題だ。

そんなことは人口爆発ひとつとってみてもわかるだろう。

地球レベルではこの人口をどう扱っていいのかは、もはや手に負えない大問題となっている。
しかも南北問題としてとらえれば、環境問題も単一には進まないだろうし、排出権の売買は新たな今後の大きな商売にもなっていくのだろうし、我が日本はそこに大きな金を投資するかもしれない。(それがまったく時代に逆行する行為であるにもかかわらず)

とにかく大きく世界が動こうとするときに過去の技術が無効になることはありえる。
車に乗らないのに車は必要ない。(よって、車の部品も必要はない)

ま、ことは複雑で、国鉄が見捨てた貨物列車がまたいまや見直され始めている。

今後どうなるのかはわからないが、もとのような消費社会に戻らなければならないなどとは考えないほうがよいとわたしは思っている。
貧乏がいいとは思わないが、貧乏にも程度があり、それを貧乏と呼んでいいものかどうかはしばし躊躇することがある。

また、町工場の復活に不安を持つのは、すでに時代が動こうとしていて、その不安を解決するのは小手先の問題ではなくなっているのではないのかと思うからである。(小関さんを深く愛しながら…)

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新自由主義

新自由主義はそれが生み出す格差社会にはお構いなしだったが、そういう一面においてだけの主義であったらしい。
大手、つまり勝ち組が落ちていくのは止めなければならないらしい。


オバマ次期米大統領は7日、シカゴで記者会見し「雇用が記録的に減っている時に、自動車産業が崩壊するのは受け入れられない」と述べ、ビッグスリー(米自動車大手3社)への政府支援に理解を示した。一方で、3社は「もっとやるべきことがある」と指摘。追加リストラなどをためらうなら経営者の交代も選択肢になるとの考えを示した。

 オバマ氏は政府・議会で浮上している短期的な運転資金のつなぎ融資案について「議会は正しいことを実施しようとしている」と評価した。そのうえで「短期的支援が、労使、株主、債権者などすべての利害関係者がかかわる極めて厳しい(追加リストラなどの)選択につながる」よう求めた。

 ビッグスリーが2日に提出した再建計画について「以前より真剣なものになった」としつつも「10年前、20年前、30年前に実施すべきだったリストラの確約すらためらうなら、我々がお金を投じるのは無意味だ」と強調。短期的支援の実施は、追加リストラ策定が前提条件になるとの考えを示した。(ワシントン=大隅隆)


わたしはオバマ氏の判断に異を唱えるものではないが、新自由主義の本質は弱者虐待にあるのではないかと思っている。
オバマ氏の今後とオバマ氏に追随する日本に期待する。

寒い夜はますます度を増していくのだろう。

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時代小説

現代小説も似たようなところがあるが、時代小説はさらに「型」というものがあり、この「型」から抜け出すのがなかなか容易ではない。

そこで、それを逆手にとって、シリーズものとしていくやり方が登場する。
池波正太郎氏あたりはその名人だろう。
もはや「型」を破るどころか「型」に入っていく楽しみを読者に与えている。

しかしシリーズものにしたからといってかならずしも成功はしないのは、やはり最終的に作者技量がかかわってくるからだろう。

わたしの愛する藤沢周平にもシリーズものはあるが、それを延々と続けることはない。
だから、彼において「型」を破るというのはなかなか大きな問題だったらしい。

というわけで、あるところに藤沢氏は感慨深げに短編のねたというのは難しいもので、それを過去の何かから探し出してくるのはあまりうまくいかないと書いている。
それはすでにその過去の何ものかが相当の出来になっているからだという。
で、彼は現実にまわりにあることをヒントとしてそれを膨らますという。

膨らますわけだからそれがうまくいくともいかないともなんともいえない。

そういうところが短編にはあるというのだ。

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マスコミも次第次第に…

マスコミも単なる「おいしい、おいしい」番組の中に今まで見向きもされなかった型の悪い野菜や魚が意外とおいしいのだとやりだした。
遅ればせながら時代を反映している。

生きていかなければならないので食の問題は大きいのだ。

港湾の問題ももうすぐ大々的に取り上げるのではないだろうか。
横浜湾以外の港は底が浅く、大きな船が入れなくなっているのだ。
そこで、今はどうしているかといえば、上海港や釜山港で大きな船から小さな船へ積み替えて日本に入港している。
この費用がかなり大変なので、ここは腹を決めて各港湾の体勢を変える工事をしなければならないのではないだろうか。
そういう議論もしなければならないだろう。

それから、当然起こるであろう穀物不足の問題も。

いやはや思っているより十分に大変で、そういうなかで雇用問題も起こっている。

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疲れてもおらぬのに

ここ二、三日、恐ろしく眠ってしまった。
眠りだすきっかけはあったのだが、起きることが出来ない。
少し目が覚め、何かを食べるか呑むかして、そうしてまたうつらうつらする。
そうそう、眠るというよりはうつらうつらするのだ。

このごろの傾向としては、このような状況のままどこかに消え去りたいというところだ。
しかし、いつかは起きなければならないわけで、そうすれば、この国の悲惨な状況に巻き込まれることになる。

三万人からの解雇者が出るとかニュースで聞くが、解雇と同時に住処もなくなるというところがおそろしい。

二兆円もあれば、住処くらい作れるのではないのだろうか。(ばらまかずに)

多分、話し合いもしていないのだろうな。

ああ、世も終わりだなあ。

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2008年12月5日金曜日

渡辺明しのぐ

3連敗後、渡辺が2勝返した。

その2勝目は先ほどの出来事だった。

七回戦第6局は12月10,11日に新潟県南魚沼市で行われる。
この6局は羽生の先手。
ここで羽生が落とせば、将棋界初の3連敗後の4連勝となる(おそらくは…勢いからしての推測に過ぎないが)。

囲碁界では数回見られたこの3連敗後の4連勝は将棋界には過去一度もない。

もし、この快挙をなせば、間違いなく渡辺の時代に入る。
したがって羽生はなんとしても勝ちに来る。

先手羽生の戦法やいかに。

この6局目は歴史に残るかもしれない。

ここまでもってきた渡辺の勝負強さを賞賛したい。

そういえば、私淑する塩見先生の本日の表紙の写真が縁台将棋だったことをいま思い出した。
不思議な縁だと思う。

ああ、それにしてもこの若武者にはぜひとも名勝負を期待したい。

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鬱病も…

鬱病も酒を飲んでりゃなんでもないが、飲んでる酒がアルコール依存症を導く。
消えてなくなりたい夜もあるが、酒を飲んでいればそのうち消えてしまっている。

酒に酔っているうちに本当にいなくなってしまいたい。

いなくなっても誰にもわかるまいに…

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2008年12月4日木曜日

たとえば…自由水

自由水と結合水がある。
料理の話なのだが…

結合水は野菜などの栄養素と結びついているものだから、食物を腐らせる細菌と結合できない。
彼ら、細菌が欲するのは自由水だ。

というわけで、佃煮が長く腐らずに維持するためにはこの自由水を煮詰め、抜いていく技術による。
料理もまた化学に裏打ちされているわけだ。

ことこと煮るのもそのうちのひとつだし、半分ほど煮詰めて一日置くのもそのひとつだ。

まことにもって、理にかなっている。

理にかなっていないのは、わたしの生活だけということになる。

これから、クリスマス、年末、正月と生きているのが苦しくなるような行事が続く。

どうしたものかと今から考える辛い日々が続いております。

皆様にはお元気でいられることを。

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2008年12月3日水曜日

飲み屋の会話

新宿の飲み屋で一人で飲んでいると、浅草弾左衛門と車善七をごちゃ混ぜにして語っている御仁がいた。
ご存知のように浅草弾左衛門は穢多頭であり、車善七は非人頭である。

この穢多と非人も違う身分制度でこのあたりを語ることはなかなかにややこしい。
詳しくは塩見鮮一郎の本をひもとけばよかろう。

で、ここで語ろうとしているのは飲み屋の会話は往々にしてそのようなもので、十分に練られたものではない。
それは致し方ないことだとは思うが、ときどき「話さなくてもいいことを話しておるワイ」と嫌気がさす。
それがわたしの悪い癖だ。

語るということには十分な前準備が必要で、それをしていないのならば、お互いを確認しあう日常会話に徹していたほうがよいと思う。
しかし、そうはならずに話は進行していき、何の足しにもならないちょっとした聞きかじりの話が混じる。

まあ、致し方ないことなのだろうが、そうではない飲み屋でそうではない客としみじみ話をしながら呑みたいものだ。

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新宿でフラフラと

新宿でフラフラとしていたが、終電後のタクシーの並び方がすごい。
もはや、終電後に散財する間抜けな男たちは稀有な存在になっているようだ。

とある店で話していると客の激減に話は落ち着くし、格差社会だからそうでない人も多いのだろうが、とてつもない時代は着々と進行している。

このわたしでさえが、明日からどうやって生きていけばよいのかまるで見えない。
気力だけを萎えさせないようにしていなければならない。

犯罪も増えるし、いやなニュースが流れるようになるだろう。
人はそれでも生きていこうとするのだから、犯罪を生み出す状況を作れば、もちろんその方向に走る人間が出現するのは言うまでもない。

そろそろ最低線で生きていけるだけの施設を作るということも考えねばならないだろう。

今までと同じ社会を維持しようという発想はもう放り出したらどうだろう。

昔の生活を思い、つまらぬ贅沢は捨てたほうがいい。
いまだにテレビはグルメ番組を流しているが、あれは正気なのだろうかとときに思う。

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