2008年12月24日水曜日

国家社会

「国家社会」というコトバを耳にすることがあるが、「国家」と「社会」は並べられるものではない。
「国家」は「社会」を思いのままに牛耳ようとするし、気骨ある「社会」ならばその国家の仕打ちに反逆しようとする。

さて、我が日本だが、この国の「社会」は残念ながら気骨がなくなってしまっている。
明治以降の国家大事を第一とした政策の成し遂げた成果だ。

「社会」にはもちろんのこと人々がいて、そこにはそれぞれの生活があり、あるころまでには横と横とのつながりもあった。
それがわたしたちの根っこである。
その根っこを壊す大きな役割をしたのが、核家族制で、見事に家族を会社の労働力再生ユニットへと転換していった。
その過程で核家族同士は連帯の意識をもたなくなっていった。
そうして根っこがなくなったわけだ。

しめしめと思ったのは国家であり、社会に対してかなりの横暴がきくようになった。
同時に擬似社会に住むある人間たちは国家の価値観と自分の価値観を寄り添わせ、国家の中で生きやすくしようとした。
その中で、次第次第に社会は二極分解していく。

それは貧富という尺度で語ってもいいが、おおもとは国家の価値観にひれ伏したかどうかの差である。
あらかじめひれ伏したものは、暮らしやすくなるが、ひれ伏さない時代を送ったものが、暮らしにくい層から抜け出すのは至難だ。

この国には二つの人々が住んでいるというのはこのような現象をさしている。

そして、恐ろしいことに暮らしやすさの中にいるほうからは暮らしにくくなっていく人々の状態が見えない。
もちろん政治家がどちらの側にいるかはご想像通りのことだ。

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