2008年12月17日水曜日

飛ぶ夢をしばらく見ない

わたしが山田太一の作品の中で最も愛する作品は「早春スケッチブック」だが、他の作品にも何度も泣かされている。
(「早春スケッチブック」は絶版になっていなければ新潮文庫でそのシナリオが買える。泣かされる人はひどく泣かされるだろう。もちろん感じない人は何も感じないが、それが人それぞれの反応であって、何も特筆することでもないのだろうが…)

おそらく見ている方向が山田氏とわたしは似ているのだろう。

さて「飛ぶ夢をしばらく見ない」は後に映画化されるが、もともとは小説である。
この小説はいささかSFがかっているが、そういう小説をこの人は書くことがある。(「異人たちとの夏」が有名か)
シナリオにはSFがかったものはないが、彼の思いの先にあるのはSFの要素が入っていようが入っていまいが大きくは違わない。
この作品でもまた人と人との間を書こうとしている。

この作品で人と人の間を結ぶものは「性」である。
その「性」が人と人をつなぐ様子を描くためにSF的要素を導入している。
そして、まさにそこに登場する男と女は「性」を通して人間と人間のある信頼関係を仮想する。

まあそのくらいの力が「性」にはあるということだ。

もちろんだからといって、だれかとセックスをすれば、だれでもその人と今まで見えていなかった深いある関係が開けてくるかといえば、そうとは限らない。

人のやることにはあたりはずれがある。

数式で表される空間をわたしたちは歩いていない。
不確定なものあるいはその存在が保証されぬものを求めるようにわたしたちはあやふやなもののうちを歩いている。

もちろん男と女もそうで、どちら側から見ていようと見ているのは「自分の心に映ったその人」であって現実の「その人自体」ではない。
「自分の心に映ったその人」は確かに自分の心のなかには存在するが、現実に「自分の心に映ったその人」が存在するかどうかは保証されてはいないし、おそらくはいまい。

では、現実に目の前に見えるその人は何者か?

その答にたどり着けるかもしれない隘路として「性」は存在する。
そのようにこの本は読める。(ま、わたしがそう読んだだけの話だが)

もちろん「性」を書いているのだから十分にいやらしいし、十分に淫らだ。
この本を読み解くためにはある程度の淫らさを自分の中に持ち、その淫らさである程度の異性とかかわった経験を持つ必要があるのかもしれない。

とにかく

「性」というものがそのような属性を持っていたとしても、いや持つからこそ人と人の間を考えるときの力となりうる。
それはわたしもふと思うことだ。

この小説で描かれる「性」はそのSF的要素できわめて象徴的な形をとる。
そのSF的要素がないこの世でこういった形の男女関係を自分たちで表出させるのは、非現実的なことかもしれない。
少なくとも持続性は期待できまい。

しかし「性」というものの持つ切羽詰った人と人のありようはなんとも切ない。
できるならば、あなたにそういう「性」を通して人と出会ってほしいと思う次第だ。

「飛ぶ夢をしばらく見ない」

シナリオライターの書いたこの本は、ごくごく読みやすく、なかなかに深い本であることをここに紹介しておきます。

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