2008年12月15日月曜日

人は人を憎む

人は人を憎むが、多くはその人自身ではなく、自分の作ったその人のイメージと現実のその人のギャップに腹をたて憎む。
要は、自分のイメージをその人の現実が崩したときに、その相手に怒りをもつのだ。(なんと理不尽な)

これがたいていの怒りの要素で、これ以外の怒りは本質的な怒りであり、ここでは取り扱わない。

わたしが取り扱うのは幼子の怒りであり、そしてこの世には多くの幼子がいるという話だ。
その形状がたとえ大人のようであっても、つまり青年であろうが熟女であろうが老婆であろうがである。

人はどこかで自分がその人に抱いたイメージは自分が勝手に描き出したもので、その人とは関係ないということを知らなければならない。
あるいは、他人が勝手に自分のイメージを抱くことを知らなければならない。

そうすることで多少わずらわしいことから逃れることは出来る。

誰かに何かいいことを(もちろん自分が相手にいいことだろうと思うにすぎないのだが)したときははっきりと自分の中に刻印するが、相手からの何がしかの贈り物はそれが精神的なものであれ、物質的なものであれ、その人にとっては砂に書いたラブレターに過ぎない。(もちろん上等な人は違うがね)

わたしにも最近そんなことがあって、いやというほどその人たちの幼さを知ったが、わかっていてもついついその形状に(幼子でないという形状)惑わされてしまう。

人は人を憎むが、多くはこのような理由からだからあなたが誰かに憎まれたとしても何も恐れることはない。
ただ刃傷沙汰だけを恐れていればいい。

むしろ自分がだめな人間であることを知っている人を愛することだ。
それは自分の本来の姿をわりに冷静に眺めながら、それでも愛してくれる人間を大事にすることを意味する。

人は人を憎むがそれは語ってきたように致し方ないもので、出来るなら幼子は幼子として扱い、必要以上に近づかないことが肝要だ。

そして幼子はあなたの周りに五万といる、哀しいことだが。
そして大事にすべきあなた自身を知ろうとしてくれる人は驚くほど稀少だ。

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