2008年12月10日水曜日

安全地帯

人は安全地帯にいて始めて自由に振舞える。
幼児が母親の存在があるときに自由に振舞い、彼女が見えなくなると彼女を探し回ったり泣き出すのはそのためである。

何よりも人には、特に幼児には「安全地帯」が必要なのである。

バーチャルゲームに人が熱中するのは、そこには安全地帯が保障されているからでもある。(主人公が死んでも現実の自分は死なないからね)

安全地帯がなくなれば、ゲームを取り上げられればそれに侵食されていた(誰でも何かに浸食されているのだが=そこにいる間は安全が保障されている信じている何ものかを持っているのだが)人物は途方にくれる。
その後、暴力に走るか、鬱になるか、どうなるかはわからない。

これは特別なことではない。

たとえば羽生義治から将棋を取り上げたり、イチローから野球を取り上げたりしてみればいい。
反応はあまり変わらないだろう。
ただし、彼らには財産があるから多少事後の行動に差は出るだろうが…

だから、ゲーム依存者からゲームを取り上げられ、彼らが取る対応は特殊なものではない。
ひととはそうやって生きるものなのだ。
それが、麻薬か野球かの違いだけで、本質的にはあまり変わらない。

しかし、社会の反応は大いに違う。
それがこの社会システムを守るうえで重要かどうかの差があるからだ。

今回の解雇者たちは安全地帯から投げ出された人々だ。
この人々に対してどうするかは、一重に社会システムを守るうえでどう影響があるかの判断にかかっている。
何もしなくても社会システムが守れるならば、何もしないはずだ。

彼らが大きな騒動を起こし始めたならば、必ず動く。

大きく見れば、今回の大量解雇に対する政府の対応はそのような構図になっている。

繰り返すが、ひとには安全地帯が必要である。
それが何ものであってもいいから安全地帯が必要である。

ときとして人はそれを異性に求めることがあるが、その異性に安全地帯を求めたことに深い葛藤を持ったとき、安全地帯の必要性とその葛藤はどのように折り合いをつけるのだろうか。

「チョコレート」のラストシーンのハル・ベリーはそのように夜景を眺めていた。
そのラストシークエンスにほとんど会話を与えなかったことがこの映画のすばらしさだ。

ラベル: