2008年12月21日日曜日

100年に一度の不況

「100年に一度の不況」という。
それはどうやら本当らしい。

しかし、議論のポイントはかなりずれているように見える。
ポイントはこの不況を脱したときにどのような社会になって復活するかなのだが、そのあたりのことはぼんやりとしか議論に上がってこないし、何やらまた少し前と同じような経済的な繁栄を望んでいるようにも聞こえる話が大まかな様相だ。

しかし、この何十年間この社会がやってきたことは、田舎の人材を都会に引き寄せ、サービス業、車、電化製品を代表とする生産業の発展に努めてきたというのが、基本路線だ。
今やっているのは、そうやって呼び寄せた田舎の人々(なかにはすでに都会人のようになってしまった人もいるだろうが)、外国人の首を切り、どこかに行ってくれという政策だ。

その先は? といえばいずれ景気が戻り元のようになるという場当たり的な見通しだ。

しかし、おそらく今求められているのは産業構造をも大きく変えていこうとする変革だ。
それには、国家的な取り組みが必要だろう。

もはや、いらないものは買わない社会になろうとしている。
そして、この社会が生み出す多くの製品は日常どうしても必要なものではない。(そのためにコマーシャルがこのように各メディアにわたって発達した。刺激しなければ売れないものばかりだからね。あんなでかい液晶テレビなどよほどの間抜けでなければほしいなどと思うものか。最も趣味人ならば違うし。趣味というものは日常の必要性から離れているから、この議論には含まれない)


われわれ人間が生きていくためにはわずかな食料と狭い寝る場所と自分の手元に残る小さな楽しみで十分なはずだ。
今の時代もう一度この考えに戻ることは、宗教でも介在しなければ難しいかもしれないが、この不況克服にはそういう要素が、深くかかわっているということだ。
産業構造の変革を考えずして、金持ちが貧乏人になることを考えずして、この事態を乗り越えていくことには無理がありすぎるように思う。

そのとき、もっとも大きな手かせ足かせになるのは、抱えすぎたこの人口だろう。

ざっと見ておけば、

享保期(1716~1735年)の全国人口は3100万人。
130年後の弘化期(1844~1848年)も3200万人で、江戸後期の人口は停滞していた。
この背景として、耕地面積も1721年296万ha、1843年306万haと停滞していたことなどが考えられる。

しかし、幕末から明治にかけて、新田開発により耕地面積が拡大し(明治5年(1872年)に359万ha)、また嘉永6年(1854年)の日米和親条約の締結により貿易が活発になる。
さらに明治2~6年(1869~1873年)の間には四民平等が実現し、移動や職業の自由などの経済活動の自由が認められた。
これらを背景に人口は増加に転じ、日清戦争前の明治24年(1891年)には4千万人を突破して4025万人となり、その後、資本主義・工業の進展とともに人口増加のテンポも上昇し、昭和5年(1930年)には江戸後期の2倍の6445万人となった。

その後の流れは、基本的には資本主義、工業の発展と歩調を共にする。

現在、日本の人口は1億3000万人と概算されている。
東京都にはその一割が住む。
食料自給率は40%そこそこ。
穀物に至っては目も当てられない。

「100年に一度の不況」
今後の国のあり様、産業構造のあり方も視野に入れないで目先で動くだけで何とかなると思ったら大間違いだ。

こんな馬鹿らしい政策の下で、どうあっても、死ぬのだとすれば、日本の皆さんもひと暴れしてみたらどうだろう。
散々になった都市部を見て、政府も少しは考えるのではないか?

それとも軍隊を導入して鎮圧に向かうのだろうか?
ああ、嘆息するばかりなのか。

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