2009年8月27日木曜日

許されざる者

つい先ごろ書いた「悪魔を憐れむ歌」についての感想はおかしかった。
あの映画はそのように作られそのように巧まれた映画として何も悪いことをしていなかったと見たほうがずっといい。

あの映画のわたしの評は、わたしの好みにずっとひきつけたもので、赤子のようにないものねだりの評だった。

みっともない。

ここにあの映画は立派に立っており、あの映画はあることを狙って作られたものだとということを言明したい。
その向かう場所が、わたしの望む場所と違っているだけで、そのことをあれこれ言うものではないことも自戒としてここに強調しておきたい。

さて、最初の写真だが、これはDVDのもので、映画ではこの女性は登場してはいない。(彼女は若くして逝っている)
映画を見たあとに残る彼女のイメージをそれほど壊していないことは幸せだが、このような作為は危険だろう。

さて「許されざる者」はクリント・イーストウッド監督の1992年作品だ。
最初のアカデミー作品賞作品であり、ドン・シーゲルセルジオ・レオーネに捧げられたものだ。

最後の西部劇と称され、激しくて静かな作品だ。
その激しさも静かさもいく通りもあり、映像がそれを豊かにしている。
そして、書き加えておかなければならないことは、ラストの音楽とナレーションだ。
音楽は、レニー・ニー・ハウスだが、さて、ナレーションは誰だろう。

ラストにあるこの静けさがこの映画における通奏低音ならば、この映画のもとにあるスタイルが自分に響いてくる様子がよくわかる。

映画においても演劇においても小説においても音楽においても…情報量の多さの中で分析し、腑分けし、わかったような顔をする傾向がこの世界にはあるが、そんな縄ではくくれないところに作品のよさが横たわることは間々あることだ。

それをそのまま身のうちに引き寄せ、それが何ものかわからないままつき合っていくというのが、もうひとつのあるべき姿で、これは大きく構えればコミュニケーションとディスコミュニケーションの話だ。

コミュニケーション依拠するかぎり対象は整理され続け自分の箱の中に納まるだろう。
その箱からはみ出たものはいらないものだが、それもこれも含めてディスコミュニケーションはある。
小利口な顔をして整理ばかりする人間たちがいくつもの悪さをすることはもはやご存知だろう。

わたしは、いくら歩みが遅くとも混沌としたディスコミュニケーションを身のうちにもちながら。わからぬものをわからぬものとしてわからぬままつきあい続けていきたい。

それもまたわたしだからだ。

そんな雰囲気がこの作品にはある。
それが、わたしがこの作品をいい作品だと思うゆえんである。

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まねきねこダック

アフラックの宣伝で、「まねきねこダック」というのをやっているが、歌もキャラクターも女の子も気に入っている。
ふと笑顔がこぼれる。
おもしろいものだ。
ときどき自分の好むものに出合うということは。

けれども同時に自分の好きなものは自分が好きなだけでほかの人とは何の関係もないものなあと思ったりもする。(だから、大きな声で言えないし、書けないものなあという話だ)

この認識は特殊かもしれない。
テレビで自分のことを、とうとうとしゃべるタレントがおり、それをおかしそうに聞く相手がいたりすると、こいつら何も考えていないんだと思うが、と同時にこういうふうに人としゃべりあえるというのが幸せというものの一部なんだろうとも思う。

他人が自分のことに興味を持っていることを無防備に信じられるということは幸せであり、不幸の始まりだ。

不幸の始まりというのは、自分の周りの人が興味をもたなくなることを致命的に思ってしまうからだ。
そんなことは、はじめから決まっていることで、他人が自分に興味を持つはずはないのだ。
もしも、自分に興味を持ったり、気にしていたりしてくれる人がいたりすれば、それはとても大事な人で、「家族」と思ってもいいくらいだ。

ここで「家族」がカッコつきになっているのは現実の家族がそのように機能していないことが間々あるからだ。
ひとがそのままの存在でありながら認められるという美しいあり方は、なかなか出会えない関係だ。
多くはその人に何かを期待する。
そして、その何かは多かれ少なかれ世の中が作り出した着物であることが多い。

わたしは、まねきねこダックの宣伝を好もしく思う。
わたしは、わたしをそのまま認めてくれる人をありがたく思う。
そんな人は、いまは、もうそんなにはいないが…

家族もまた崩壊している。
情報が開かれてしまった悲劇と呼んでもいいだろう。

世の中は自浄作用をなくしかけているのかもしれない。
おそらくそんな頃合だ。

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2009年8月25日火曜日

短編小説

「聖女の救済」の項で書き忘れていたことがあるので書き足しておきます。

短編小説のなかには一つだけのことを盛り込めと指摘したのは吉行だが、(もちろん多くの人が知っている心得だろうが)「聖女の救済」は長編であるにもかかわらず終始ひとつのことを主張していく。
そのひとつのことが、トリックへと主人公を向かわせている。

長編にもかかわらず、一つのことに絞って書き込んでいくのが、東野小説の特徴で、それがゆえにとても読みやすくなっている。
ページターナーの技であろう。

そして、ひとつのことに絞りながらそのひとつのことの周りに細部を書き込んでいく。
軽くなりすぎないためだ。

なかなかもって東野氏はたくらみの多い作家なのだ。
わたしは取り立てて彼のファンではないが、池波正太郎を思うがごとく彼の技法は十分に評価している。

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聖女の救済


昔、京都の料理人に教わったことだが、

京料理のお椀は、はじめの一口でうまいと思うような味付けはしない。
お椀をすべていただいた後に満足感がくるような味付けをしなければいけない。

それをこの本を読んでいて思い出した。
とっかかりが、あまりに稚拙な感じがしたからだ。

東野氏もまたページターナーなので緻密に書き込むことはないが、それにしても物足りない感じがした。
それが、読み終わった後にある種の満足感をもたらすのだからたいしたものである。

それは、この作品に秀逸なトリックが隠されていることに起因するのだろうが、それにしても見事な構成だろう。

それと草薙刑事に恐ろしいほど示唆的なことを言わせている。
これにもまいった。
学生のころの草薙のエピソードなのだが、まもなく死んでしまうであろう子猫を草薙が必死に介抱するという場面だ。
他の学生が、もうすぐ死んでしまうのになぜそんなにむきになったように世話をするのかとたずねる。
その答が、それだ。

「それがどうした」

この場面での「それ」は、猫がもうすぐ死んでしまうということだ。
ストーリーには直接的にはあまり響いてこないこのセリフには感心した。

「もし明日世界が終わっても、私は今日リンゴの木を植えるだろう」と神学者ルターは言ったが、それをさらに衝撃的にしたセリフだ。

われわれの心意気もそうなのかもしれない。
そうだからこそ何も報われなくても生きていけるのだろう。
無駄なことをやり続けるということの奥にはこの言葉がある。
無駄なことの先に何かが見える気もするだろうし、おそらく何かある。
それを夢見るように思いながら、人はそのように生きていく。

この本にいい時間を過ごさせてもらった。

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2009年8月24日月曜日

悪魔を憐れむ歌


B級ホラーにもデンゼル・ワシントンといったところか。
デンゼル・ワシントンの俳優としての優秀さは出ていたが、実際に悪霊が登場するストーリーは十分に噛み砕けてはいないし、これといった魅力もなかった。

多く見ていればこういう映画にもあたる。
最後にちょっとしたどんでん返しがあるのが、ちょっとした茶目っ気。

暇つぶしに見るのならお勧めするが、ひょっとして人生に暇つぶし以外のものがないのなら、デンゼルファンなら見てもいいかもしれないね。

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2009年8月23日日曜日

ポピュリズム

ポピュリズムは、もともとは人気主義と訳されており、わりといい意味で使用されていた。
それが、衆愚政治とされ、悪い意味と変わっていったのがこのコトバの歴史だ。
それを決定的にしたのが、小泉純一郎であろうか。

問題は、政治家の操作に操られる人間が多くなってきたということにあるが、その責任は一概に国民側にだけあるわけではない。

人々は忙しくなり(忙しくなったように思わされ)、ものを自分で考える癖はなくなってきたし、その代わりに考えのモデルはマスコミを通しいつも示し続けられている。
街頭インタビューがテレビのコメンテーターと一致するのはその端的な例だ。

ひとは、自分の頭で考えることを止めたとき、(止めさせられたときか?)感情で動くようになる。
要は、煽られるようになるのだ。
人の感情は思ったより簡単に煽られるし、煽る技術も進んでいる。
報道の過激さとそれに同調する人々の姿を観れば、感情がいかにコントロールされているかよくわかる。
すでにわれわれは、コントロールされざるを得ない状況に追い込まれているのだ。

感情が動けば、印象は決定される。
印象とは感情の産物だから、その感情がほかのものの意のままになるとき、その場所にはあなたの印象はない。

そして多くの印象が寄ってたかって作るのが一人の政治家のイメージであり、そのイメージを操作するのがポピュリズムということになった。
そのために、服装、ジェスチャー、コトバ使い、…あらゆるものの大衆に対する印象効果が研究された。

問題は、再びわが手にものを考える習慣を取り戻せるかどうかだが、そのためには、多くのメディアから離れる必要があるように思う。
あるいは、メディアを選ぶ必要があるように思う。

幸いに、われわれはインターネットを持っており、わずかながらの良識的なラジオ番組を持っている。
番組の主張云々ではなく、その中にものを考える姿勢が見えるものからその考えるという行為をもう一度たどりなおせるかもしれない。
もちろん細い道なのだが。

選挙の夏の最終コーナーが見えてきた。
この国はどこに行くのだろうか。

前々から言っているが、わたしは貧乏の共有という方向を見せてくれる政治を求めている。
それは、死の共有ということも含んでいるかもしれない。

ここ5年以内うに医者がいなくなるということはすでに一部の人から大きな声で教えられている。
特に救急と産婦人科、そして介護に対しての医者が。

人の生を闇雲に守るというだけの主張に何の保証も与えられない時代がもうそこまでやってきている。

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2009年8月22日土曜日

第50期王位戦7番勝負


第50期王位戦は、深浦康市王位と木村一基挑戦者の間で戦われているが、出だしは木村の三連勝で始まった。
それを昨日、第5局を125手で先手番深浦が制し対戦成績を2勝3敗とした。

ここで問題となるのは、昨年の羽生対渡辺の竜王戦。
この7番勝負で、はじめて3連敗後の4連勝が将棋界に産まれた。(囲碁界にはすでにある)

このことにより、3連敗4連勝に何の不思議もなくなった。
この気分が大きい。
はるか遠くの奇跡が日常に舞い降りてきたのだ。

深浦の最近は、絶好調に近い。
再びの奇跡も夢ではないだろう。(それを奇跡と呼んでいいのかどうかは問題だが)

深浦は現在竜王戦挑戦者決定戦(3番勝負)を森内と戦っているが、すでに先勝している。

もしかすると、今期の竜王戦は将棋界の3連敗4連勝男同士の戦いになるかもしれない、いや、そんな気がしてならないのだ。

そういう勢いが深浦にある。
ここしばらくで、深浦はさらに強くなっている。

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剣岳 点の記


「剣岳 点の記」を読む。

研ぎ澄まされた山岳小説だった。

小説というかぎりは、そのどこかに作者の想像力が入り込んでくるのだが、その入り込んでくるはずの想像力にきわめて禁欲的な作品だ。

この種の作品は、読んだ瞬間に大きな感動は来ないが後から追いかけてじわじわとそのよさが迫ってくる。
それには、多少とも小説を読んでこなければならないのかもしれないが、なんにしろ見る側にも少しの努力を要求するものだ。
(もちりん、この場合の見るは、聞くにもそれ以外の受信にも変わる)

この頃のサービス精神の多い作品は楽に感動させてくれて、その感動が薄っぺらであることを忘れてしまうほどだ。
そういう作品があることは楽しいことだが、時にはこういうストイックな作品を読みたいものだ。

ご存知のようにこの作品は今年、映画化されているが、この作品を読んで映画を撮りたいと思った気持ちはなかなかに憶測しがたい。
映像的な描写が少ないわけではないのだが、それ以上に登場する人物の「心の記」という部分に強く惹かれるからだ。

もっとも、これはまったく個人的な鑑賞で、自分に映像的に作品が見えないことを哀しむほうがいいのかもしれない。

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何かをなそうとするとき

何かをなそうとするとき、それがいささかでも大向こう受けを狙うとき、行く道筋にたくらみをもつことは重要なことだろう。
この場合のたくらみとは、方針というほどの意味にとってもらって結構だ。

それは多くの偉大なスポーツ選手たちや芸能界で成功人たちの話に詳しい。
意識しなければ、そこにはたどり着けない場所がある。

その場所に到るためには、刷り込みは心の弱さを補強する一助として使用しないわけにはいかない手段となるだろう。

もちろん、だからといって、どのような生き方にも刷り込みが必要かといえば、そんな話にはならない。

ひっそりと暮らしたい人もいるのだ。

何でもかんでも有名になったほうがいいと思ってはならない。
金が入ってくればいいのだというのは、一部の考え方ですべての人の当てはまる志向性ではない。
行く道に従って方法も手段も変わってくる。

その道しだいで刷り込みの重要さも変わってくる。
そういう話をこの頃書き付けている。

将棋や落語のことをわたしが好んで書くのは、単なる刷り込みだけでは到達できないものがそこにあるからだ。
もちろんだからといって上等といっているのではない。(まあ、言ってもいいのだけれどね…)

わたしは、軽々しくスポーツや音楽に感動を求める今の風潮を揶揄しているだけなのかもしれない。
もともと感動は己が身の内にある。

それはボルトの走りの中にはない。
ボルトがボルトの走りの中に何もかを見出すようには、あなたはボルトの走りの中に何も見出すことはない。
もちろんあなたが、何かを密かに目指していて、そのことにボルトの走りをオーバーラップさせるのなら別の話になるのだろうが。

いやはや、正確に何かを書こうとすれば、書けば書くほど空ろで、怪しい話になってしまう。
ここまで書いて興がさめてくる。

己の未熟さも自戒して、本日はこのあたりで。

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2009年8月21日金曜日

矢沢永吉再び

再びというかずっとというか矢沢の人気はわたしの周りでは根強い。
わたしはといえば、好きも嫌いもない単なる傍観者だ。

その矢沢が還暦になってまたまたにぎやかだ。

矢沢が多くの人に夢を見させてくれたのは確かで、それをもっと正確に言えば夢の見方を教えてくれたのは確かだろうになる。
そして、これこそが刷り込みで真っ赤な偏見である。
もちろん昨日書いたようにあなたが偏見を持つことは少しも悪くはない。
ただ、それをわたしに押し付けられてもなあ。

矢沢ファンにとっては矢沢風生き方はちょっとした信仰で周りにいる人に押し付けてくることもままある。
それがうざいのはいうまでもない。

人はその偏見を自分で選ぶのであって、押し付けられるものではない。
そして出来れば自分で選び取った偏見が何者であるかは自覚していたいというのがわたしの主張だ。

矢沢の偏見は、「成りあがり」に詳しく、成り上がらざるを得ない人間、矢沢にとってそれしかないような細い道であったようにも思う。
それはそれでいいと思う。
けれどもそれは矢沢にとっていいのであって、右肩上がりの経済社会にとっていいのであって、いまの社会にあってその偏見が妥当かどうかは大いに疑問だし、いまだに矢沢矢沢といっている人間の単純さには辟易することもある。

矢沢のように生きてこなかった人間の中にも傑出した人間は多い。
しかし矢沢の偏見を持ったとき、そのような人間たちは見えてこない。
それは切ない話だろう。

それが偏見の持つ恐ろしさだ。

願わくば、自らが矢沢を選び取ったことを知って東京ドームに出かけてもらいたい。
矢沢クラブからもこんなメッセージが流されているではないか。

【夏フェスにご来場される方へYAZAWA CLUBよりお願い】
2009年7月15日

当日は他のアーティスト・ファンの方が多くいらっしゃいます。
過去、こういった場において、矢沢だけを過剰に応援したり、
他アーティストの演奏を妨害する迷惑行為により
「場をわきまえて欲しい」「恥ずかしい」
というお声を、他アーティストのファンのみならず
矢沢のファンの方からもいただくことが多くございました。


こういった声を聞き、矢沢自身「なぜ?こうなってしまうの・・・」
という悔しい思いをしておりました。
今年こそ、矢沢永吉だけではなく参加アーティスト全員が
一丸となって楽しめる夏フェスになることを、心より祈ります。

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2009年8月20日木曜日

酒井法子粘る

わたしは、マスコミが嫌いで彼らに無性に反発したくなるが、これはもちろん偏見である。
ほぼあたっているが、すべてのマスコミ報道がそのように断じられるべきではないという意味で偏見と意識したほうがいい。

人は自分自身の目で何事も見、判断するのを良しとするが、このことをあまりに追求するのは徒労に終わる可能性があるので危ない。
それほど人はたやすく、誰かの何かの見方を刷り込まれてしまう。

この点から考えて、自分がどんな偏見を持っているのか意識するというあり方をわたしは支持する。

偏見はときに推進力になると言ったのは鶴見俊輔氏だが、その一面は見逃してはならない。
けれどもその推進力の方向が、思わぬ方向に行けば、それは大変に危険で、そのことは歴史が教えてくれたりもする。

だからここに強調するのは、自分がいかなる偏見を持っているのか意識するというポイントだ。
もし、この観点があれば、相手とお互いの持つ偏見の論評が出来る。
この会話はめったに出現しないが、出合えれば実に楽しいものだ。

そういえば、酒井法子報道がわりと長く続いているが、彼女はなかなかの女らしく官憲にたやすく落ちないらしい。
夫と比べればずいぶん根性の入っている女ということだ。
DNAといえばDNAだが、この言は多少差別的だな。

しかし、たいていのタレントはすぐさま落ちるものなのだが、警察権力になかなか屈服しようとしない酒井法子は、わたしが思っていたのとは正反対ではあるが、見事な様相を呈している。
マスコミがいまだに報道を続けるのは、この酒井法子の頑張りとその背景を報道できない苛立ちがあるのかもしれない。

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2009年8月19日水曜日

ジョーカーゲーム


作品は読者と作者の共同作業によって生まれる。
それがわたしの持論だが、この手の論で押せば作品は読者が変われば変わっていくことになる。
それは承知しているが、読者があるレベルまで行けば、意外にその差は小さなものだ。

わたしは市川雷蔵の中野学校シリーズが好きで、評判のこの「ジョーカーゲーム」にその影を強く見る。
この小説が中野学校シリーズに大きく影響されていることは事実だろうが、小説でなければ入り込めない世界によく入り込んだ作品としてエンターテイメントの面目躍如たるところがこの作品には大いにある。

言ってしまえば、大沢在昌のジョーカーシリーズのレベルには到達している。(もちろん方向の違う作品の比較はあまり意味が重くはないのだが)

この作品は、知的であり、人のあり方にある程度言及している点がある読者にとっては大沢作品よりも好ましいかもしれない。
それが、戦時下のあの時代に可能であったかどうかは、小説の勝手さのなせる業で、あまり信用は置けないが、マア、おもしろければいいのだ。

手にとって、一、二時間遊ぶには最適な本であろうし、うれしいことに一つの重要なことを繰り返し書いている。

それは、自分の目で見なければだめだというポイントで、このポイントから逸脱しないことでこの小説はその品格を保っている。
品格を保ちながら、現代批判にもなっており、その批判は見事成立している。

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2009年8月18日火曜日

パイを大きくしよう

税収増加には経済成長が必要だというが、それはまことにもってそうであるが、しかし、パイは無限に大きくなるのか?

この議論はマルチ商法に似ているが、なぜだれもパイは無限に大きくなることはないと言い出さないのか。
無限に会員が増えるわけではないと指摘するように。

久しぶりにGDPがプラスに転じたが、それはそれだけのこと。
特殊な条件下では今でも増えるというだけのことではないのかな。

問題の立て方の基本は、無限に経済成長が続かなければ、ものが次々に売れ続かなければ、どうすればいいのかという発想で、その一つの解決の糸口に貧乏の共有があるといっている。

貧乏の共有、このことをわたしたち日本もついこの間までやってきた。
もしかしたら、まだ日本のどこかにはそんな雰囲気が残っているかもしれない。

こじんまりした幸せに向かう姿勢をどこかの政治家にうたってもらいたい。
もともと幸せは小さなもので、大きな幸せなどどこにもないのだ。

それをもっともっとと幸せの大きさを要求した者たちがいる。
大きな幸せなどはない。
大きな幸せと錯覚させるものは、他者の不幸を呼び、手に入れた大きな幸せのごときものは人を醜くしていくように思う。

もともと幸せは小さなもので、そのためだけに大きなパイはいらない。
この方向転換をいかにするかが、今後の政治の課題であるのに、そのことをまじめに論ずることが皆無であるというのはいったいどうしたことか。

成長が悪いことはない。
成長することに無理があり、あえてそれを強行すれば、大きなひずみをもたらす。
そのとき、人は歩みをとどめるべきだろうという大まかな提案をしている。

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2009年8月17日月曜日

ソフィア


マイケル・クライトンっていう人はずいぶん背の高い人らしい。
206.6cmというから巨人の類だなとそんなことを映画を見ながら思っていた。

「ソフィア」というのはマイケル・クライトン原作・製作の海底でのお話だが、「わけのわからぬもの」に襲われるもので、その何かが最後までぼんやりとしている。

怖いものの要素は、やはりどうあってもこの何かわけのわからないもので、なんだかわかればある程度その恐怖は抑えられる。
ライオンという名前を知ればその恐ろしさも減少するといった話だが、この映画にはそのわけの判らぬものが登場する。

登場するが、「わけのわからぬもの」だからその描き方は難しい。
その難しさのため「わけのわからぬもの」の描写がうまくいったかどうかは、いろいろと批判できるところだが、とにかく随所に怖さが見え隠れするのは「わけのわからぬもの」のせいだ。

サミュエル・L・ジャクソンの表情なんか時に迫りくる恐ろしさがある。

こういう映画を見ても、なるほどひとは「わけのわからぬもの」に怖がり惹かれていくのだということがよくわかる。

そういえば、恋愛も相手の内容が徐々にわかりだすと消えていく部分があるものな。

「わけのわからぬもの」の扱いは作品においても現実においても注意すべき大きなポイントだ、まったく。

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2009年8月16日日曜日

海老沢泰久

海老沢泰久氏が、13日に亡くなっていたのですね。
このひとには、
その著書からものの見方を教えてもらった。

「監督」
「みんなジャイアンツを愛していた 」
「美味礼賛」

どれもしっかりと着地した作品だった。
あまりいい読者ではなかったが、信用の置ける書き手だとは思っていた。
こういう人は早死にするのかな。

知らなかったものだから、驚いた。
まだ、60前だ。

オレの人生なら、少し分けてあげられたのに。

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夏風邪続く

夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり   三橋鷹女

食欲もなく横になってばかりいるが、夏の暑さに眠ることはままならない。
さいわい熱は出ていないようだが、のどがやられてしまってイヤな痰が出てくる。
さっき食べた素麺で小一時間は体力が持ちそうなので、薬と甘くて冷たいデザートでも買って来ようかと思う。

かかりつけの医者の夏休みも今週には終わることだし。

力なくつけるラジオやテレビは相も変らぬことをやっている。

救いは高校野球か。
スポーツは違う世界に連れて行ってくれて助かる。
そのとき、どうか邪魔になるような解説は止めてもらいたい。

しかし、はじめてひいた夏風邪はなかなかわたしを手放してくれない。
こうなると、夏風邪もまんざら悪いものでもなく、邪険にしてはならないと思えてくるから不思議だ。

もっともこんな考えが浮かぶのは、頭が溶け出してきているせいかもしれない。

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2009年8月15日土曜日

夏風邪

夏風邪でまいっている。

夏風邪の原因の大きなものの一つは、ウイルスが侵入する主な部位である、のどや鼻の粘膜がエアコンや扇風機などで乾燥してしまうところにあるのは知っていたのだが、寝苦しすぎた数日前のある夜、扇風機を消さずに寝てしまって、このていたらく。

それと、今回、初めての夏風邪でわかったことに、夏風邪はその症状が意外に軽く感じられるもので、油断してしまう。
それが、いまのわたしの状態で、すぐに治ったかと思い、またぶり返している。

まったくもって…、マヌケな話だ。

夏ばてと夏風邪の差もわからなくなるなんて。

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2009年8月14日金曜日

ポルターガイスト


1982年製作スピルバーグの「ポルターガイスト」を見る。
ホラー映画の金字塔と呼ばれることもある作品である。

見てみれば何のことはないホラーではなかった。
この作品は人の生と死の関係を一つの物語の中に切れ目なく見せようとした試みであった。
したがって、きわめて解説的であり、「なにやらわからぬもの」というホラーを形成する最も大きな要素の一つが決定的に排除されていた。

いい作品には違いないが、それは死者もまた生きるものの傍らにいるということを教えてくれた点にあって、怖さをそこに演出したわけではなかった。
もちろん見方を変えれば怖さはそこにあるのだが、それは作品は売れなければならないとするスピルバーグの商売人たるところであって、この映画の本質とはおそらく違うだろう。

もちろん、その怖さを楽しむだけでもいいのだが…

だって、解釈なんて好きにすればいいだけのことで、他人の解釈に動かされることは毫も必要ないのだからさ。

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枝雀百景

桂枝雀ほど落語のことを考え続けた人は少ない。
それは弟子が師匠枝雀を語るときに驚かされることでも得心がいく。
たとえば…

師匠と落語の稽古をしていてひと段落ついた。
そしたら、師匠が言うんです。
「なんや、退屈やな、落語の稽古でもしよか」

あるいは、笑いに関する分析もまた深く病的だ。
それは「緊張と緩和の法則」と呼ばれるもので、枝雀のちくま文庫のどれかに出てくる。
その延長線上の「サゲ」の四つの分類も美しい。

これらの分類の美しさは、枝雀の最期をほうふつさせるようだ。

また、雀松が語る最晩年に枝雀から直接聞いたという「らくだ」の構想は、鬼気迫るものがある。
そこまで噺をこねくり回し、稽古をしたくって、高座にあげるのが枝雀であった。
そこには、新しい解釈や構想が渦巻いていたという。

三十代の枝雀、四十代の枝雀、五十代の枝雀の差がわたしにはもう一つわかっていない。
それは、彼をしっかりと追いかけてこなかったからだ。
同じように見えて、かなりの変容だったのだろう。

かように敬服するに足る人物は変化し続ける。
そして変化し続けるということは、常に精神に負担を与え続けることで、その人物のどこかにいびつさが出てしまう。
そのとき、そのいびつさを云々するのではなく、その産み出したものを見ていこうとするのがわたしの姿勢だ。

最近、ときに登場する山崎方代にしてからが、そのいびつさを云々しても少しも愉快な人ではない。
しかし、その歌をたどるとき、なるほど端倪すべからざるものがある。
人の魅力と作品は裏腹なときがある。

当たり前のことだが、それを知らなすぎる。

酒井法子を詳しくは知らないが、見方を少し変えれば、あの娘もまた苦労してきたけなげな娘だと思うよ。
いまは、マスコミの格好のおもちゃだけどさ。

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2009年8月13日木曜日

目撃


小説にしろ、詩歌にしろ、映画にしろ、落語にしろ、そのものを深く知るためにある一人の人の作品を追うというやり方がある。
この方法は、かなり有効だとわたしは思っている。

というわけで、わたしは映画においてはクリント・イーストウッドを追いかけている。
そうすると、彼の作品同士のつながりや彼の目線が浮き彫りになったりする。

そのたびに映画を見る目が深まる。

この「目撃」という作品は1997年作品だが、この映画の最後に向かうにしたがって「ミリオンダラーベイビー」への萌芽が見えてくる。

これもまた映画を見る醍醐味で、そのためだけのためにこの映画を見たような気もする。

いや、もうひとつあった、少なくとも。
この映画もまたイーストウッドの愛情表現が深く漂っていた。
それは直接的でありながら深く密やかに潜行する。
そのような作品はいくつもあるが、その集大成は「グラン・トリノ」だろう。

以前も書いたが、いくらでも解釈できるあの作品はイーストウッドの愛に対する集大成でもある。
そのために登場人物は愛されるに足る少年でなければなかったし、もう片方は愛する動機を十分にもつ傷ついた老人でなければなかった。

このような見方は、良くも悪くも彼の作品を追い続ける中でしか生まれない見方だろう。

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周平独言


「周平独言」は藤沢周平の読者なら傍らに置いていい作品ではないだろうか。
数少ない彼のエッセイが集められた本だ。

この本を読む中に彼の作品の出自を見ることも出来る。
さらに深みを見ることも出来る。

それは彼が特殊な人間であったことを教える。
特殊とはその感受性で能力の特殊さではない。
もちろん感受性と能力はごく近しいものだが感受性を作品にするには、はなはだ遠い道のりがいる。

最近、ある年若き人に改めてこの本を教えてもらった。
そして、あまりはっきりと記憶に残っていなかったその中の掌編「村に来た人たち」を指摘された。

今改めて読んでみると、自分の罪深さ、それはあの時なぜあのような行為にいたってしまったかという自分の残酷さや未熟さや、今ここにある自分の元になったいくつかの出来事を映し出している。
それは、あえて忘れ去ろうとしてきたことのようでもある。

重層的に膨らみ、果ては自分の懊悩が勝手に動き出すようなこの掌編の深みはその若き人ならではの出会いであったろう。
そして、わたしにも少しわかるものであった。

思えば、藤沢氏の作品はこのようなことを教えてくれる作品であったと「村に来た人たち」は思い出させてくれた。
世に見巧者はいて、見巧者を必要とする作品はある。

若き人に、また、作品と自分との関係の糸口を教えられた。

ありがたかった。

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ひるまま

「ひるまま」は桂枝雀の出囃子である。

桂枝雀はもう十年近く前に自殺してしまっている。
いわば、死に引き寄せられた人生だった。
それが、精神的な病の末であったとしても。

それが、「ひるまま」を聞きながら聞く枝雀の噺や、弟子や仲間たちの話を映像で見ると、まことにもって愛されているのである。

死に引き寄せられていることと、その中で生きていることの密接さは、そのために生を十分に生きられないということではないということを教わる。
むしろ死から遠ざかるように生の中に没入する姿もあったのだろう。

枝雀のことを語る弟子たちの言葉に生きていたときの濃厚な付き合いが見え隠れする。
最後はあのような死に方を選んだ枝雀ではあったが、だからといって生を全うしなかったなどという浅薄な批評はあたりはしない。

長生きだけが生の全うではないということを改めて教えられる。
枝雀の生き方のなかに死が埋もれていたとしてもそれは味になりやさしさになり、生を色付けしてくれていて逆に生を華やいだものにしてくれていたようにも思える。

小三治の生前に一度枝雀と話したかったというコメントを思い出す。

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2009年8月12日水曜日

真・雀鬼3 / 東西麻雀決戦


桜井章一(写真)をモデルにした「雀鬼シリーズ」「新・雀鬼シリーズ」は、よく見る。
作品どうのこうのより肌があっているのだろう。

そのシリーズのうち「真・雀鬼3 / 東西麻雀決戦」は、わたしのもっとも好きなものの一つだ。
そこには、そのまんま東が出ており、格別な味を出している。
この味は、いまの東国原にはない。

だからといって、比較してどうのこうのするものではないが、大麻と覚せい剤の違い、覚せい剤が戦時中、国家が進めたことなど一切を抜きにして、語る偽りの健全さとわずかに抵触していることを思う。

法に触れたからといって、まずいとはわたしは個人的には思わない。
巨悪は別のところに存在し、安穏として生きている。

酒井何某を痛めつけてどれほどの楽しさがあるのだろうか。
マスコミはいつもウハウハやっているが、押尾学の問題のほうが、薬品を越えている分だけ罪は深いのではないかとおもうが、その衝撃度でいまは霞んでいる。

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かぶと


池袋「かぶと」のご主人は、昔、新宿思い出通りの「かぶと」で修行をし、独立した方だ。
口は存分に悪いが、味は申し分なく、いいものを出す。

小三治の職人としてのよさを聞いた帰るさ、ふとあの職人に会ってみようと「かぶと」の岩井さんのところへ足を運んだ。
相変わらずの職人ぶりで、うなぎの臓物を一通り焼いてもらった。
その際に紛れ込ませたのが、天然もので、この店では時おり天然ものを出してくる。

この天然ものがうまい。

それはそうだろう、ほとんどのうなぎは養殖で、しかも利益を出すために餌の値段を抑える。
この餌というものは大事で、こいつが悪いととんでもない代物になる。

それが、中国産や台湾産、そして日本の一部のものだ。

うなぎの安い高いはこの餌によるもので、有害かどうかもこの餌による。
有害でないものもいやな脂っこさを感じれば餌が悪いことになる。

いいうなぎの高さは基本的にこの餌のよさによるもので、その一方に別格の天然ものがある。

マア、その晩は岩井さんの悪態を聞きながら、その天然物の串を楽しんだ。
もっとも、わたしは飲めば少食になるので(飲まなくても最近は少食なのだが)、白焼きや蒲焼きを食べることなく早々と店を出ることになるのだが、いつになく贅沢な酒だった。

けれども、満足のいくものでもあった。

今度寄るときは、小三治の書いた文庫「ば・い・く」でももって行ってやろうかと思っている。
悪態はつくが、いい奴なのである。

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寄席というもの


寄席というものは、ホール落語と違い、その日全体で一つの世界を作る趣向がある。
だから、わたしが、子三治を聞きに行った8月7日にもそれ以外の見所があった。

まずは、膝がわり(トリの前に登場する色物の芸人さん)の奇術、世津子さんが小三治師匠の時間を作るためにあっという間の短時間で自分の芸を終わらせたのが、なんとも寄席風でありがたかった。(写真)

ほかに並べれば、前座の市也くんの頑張り。
喜多八師匠の小三治に似た味。
いつに変わらぬのいる・こいる師匠。
初めて聞いた有名な扇橋の寄席での歌。
紙きり正楽の名人芸。
金原亭伯楽の枯れ具合。

食いつきに登場した三三の成長。
三三はうまくいけば、大きくなるよ。
ピカ一の若手だろう。

とまあ、こんな具合。

寄席の後、わたしはその足で、「かぶと」に向かったのだが、その話はまた今度。

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2009年8月11日火曜日

フランス映画


フランス映画といっても「エンパイアオブザウルフ」というこの映画はアクションものだから、めったやたらにフランスの色が出ているわけではない。

ジャン・レノの主演作だが、ジョスラン・キヴランの主演といってみてもいいだろう。
この女優の使い方が、ハリウッド映画の枠を壊し、フランス映画たらんとしている。

トルコ移民の絡んだ話だ。

およそお話というのは型があって、それに当てはめて作るというのが常道なのだが、ハリウッドのパターンはやりすぎで、いささか食傷している。

そういう時はヨーロッパ映画や、アフリカ映画、インド映画、アジア映画に逃げ込むに限る。
そこにはまた別の箱が存在する。

箱をうまく使うのはお話作りの基本だが、その箱から逃げようとするのもお話作りの宿命のようなものだ。

この映画、楽しめる映画だと思う。

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八月の上席


池袋演芸場、八月の上席の主任は小三治と決まっている。
上席というのは、1日から10日までのことだが、この十日間を小三治は午後四時前からざっと40分か50分かけて高座を勤める。(大体そのうち三日ほどは休むのだが)

さて、その時期は小三治目当てに客が並ぶ並ぶ。
どこがそんなにいいだろうと思うのだが、その客のうちの一人がわたしなのだから文句を言う筋合いはない。
この小屋は普段は、12時くらいが開場になるが、この10日間だけは、10時前から人は並びだす。

池袋演芸場は極めて小さな小屋で席は92席、これに補助いすを足して120席とする。
後は立ち見だけれど、その立ち見もめったやたらに詰め込めはしないから、200人も入らないだろうか。
それでも場内は息苦しいほどだ。

今回の小三治は引き込みが悪くて客を十分につかみきれなかったが、噺というものは一端始めてしまったら、そのまま行くしかないもので、小三治もそのままいびつながら話しをしていき、見事客をつかみこんだ。

この人のマクラは長い。
そのマクラが見事に生きた。
演題は「馬の田楽」。

小三治は池袋で正月と8月の炎天下に口座を持つ。

また、正月にでも行ってみようかと思っている。
あの人は、いろんなことを教えてくれるんですよ。
いい加減に。

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2009年8月6日木曜日

やつらを高く吊せ


馳星周もまた、必ずといって読む人である。
「不夜城」があまりによかったから。

そのあとにも、ぽつぽつといい作品はあるが、打率はそれほど高くない。
何冊かはエロくて、グロいだけの作品だ。

エログロは、わたしの趣味ではないので楽しくはない。
そのわりに新堂冬樹も読んだりはする…

今回のこの馳の作品で驚いたのは、表紙に倉田精二が使われていたことだ。
こんなところで倉田さんの写真に会うとは。

倉田精二は山田太一の「早春スケッチブック」で教えてもらった。
直接ではなく、その主人公が倉田精二をモデルにしており、ドラマの中に彼の「フラッシュアップ」という写真集の作品がインサートされるのである。

ま、ともかく、今回の馳作品はそれで驚いたのだが、内容は、読まなくてもいいようなものだ。
スピード感は一流だけどね。
ページターナーというわけだ。

わたしは、このページターナーが好きで、じっくり読ませる作家は毛嫌いするところがある。
というか、この頃はそこまで我がほうの精神が安定していないのだろう。

というわけで、藤沢周平が好きなくせに池波さんの作品を手に取ったりする。

ページターナーは、意外と本読みにバカにされる傾向があるが、赤川次郎などはページターナーとしては最高級の人で、作家として端倪すべからざるものをもっている。

エンターテイメントは、このページターナー性を持ち合わせている必要があり、高村薫などが、エンターテイメントから外れていくのは、読者にページをめくらせる力が弱いからだ。

えらっそうなことばかり言っている小利口では売れんのだよ、エンターテイメントは。
もちろん、作品の価値と売れる売れないは別のところにあるので、いま述べてきたことは、こと娯楽的要素に限っての話なのだが。

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闇狩り師 黄石公の犬


「闇狩り師 黄石公の犬」を読む。
夢枕獏氏の本はたいてい読む。

楽だから。
つまり、薄っぺらいのである、内容が。

しかし、薄っぺらくはあっても勘所は押さえていて、そこは書き込んでくる。
今回は鮎釣りとか、田舎の囲炉裏の様子とか、そしてもちろん、呪、霊、妖などについての彼の見解を。

とくに、呪、霊、妖についての彼の見解は、なるほどこれなら売り物になるというもので、繰り返しカタチを変えて登場する。
「陰陽師」シリーズなどはその最たるものだ。

この闇狩り師のシリーズはその現代版とでも言おうか。
マア、売り物にはなっているが、飛びぬけたものではない。

それでもわたしは読むのだから、たいしたものなのかもしれない。

少なくとも売り物になる要素をその中に持っている。
この辺なのだよな、プロのこざ賢さは。

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2009年8月5日水曜日

八月一日の飲み会

この飲み会は塩見鮮一郎さんの主催だったが、この方がなかなかに飄々とよい眺めだった。

おそらく胸にわだかまりもあるのだろうが、つまらぬところで立ち止まらずに生きてきた風格を感じた。
わたしもあのようにと一瞬思ったが、なかなかそのようにもいくまいて…と思い直してひたすら酒を飲んだ。
飲んだ結果は、地獄絵図で精神がぼろぼろになる。

いつのころからだろうか、酔いがさめると、このように気持ちが砂糖細工のようにいともたやすく砕け散るようになったのは。
今回は、それを抑えるためにさらに深酒をしたので、いまだになにやらわからぬ焦燥感を引きずっている。

その結果、酒は恐ろしいとまで思うのだが、二週間もすればまた飲みたくもなる。

何とかして、酒なしの生活にたどり着かないときりがない。

山崎方代や尾崎放哉、山頭火はそういうところはなかったのだろうか。
畢竟、人間の弱さというところにたどり着くのか。

西洋医学の見解に頼るのもいやだしな。

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2009年8月3日月曜日

世も末だ

誰かよりも何かを知っていることが、その人の誇りになってしまったときには、それはおそらく終わりの印だろう。

これほどインターネットのはびこった時代に、何かを知ることはそれほど重要でもなかろう。
もし、それが、再編成、もっときつく言えば再構成された情報であれば話は違う。

プロ野球について詳しかろうが、映画について詳しかろうが、鉄道について詳しかろうが、それだけでは物足りないし、何の特徴も示さない。

それは、情報にあなたが入っていないからだ。
もともと情報は無機質なもので、そこにあなたが色をつける。
となれば、どんな、だだくさな色であっても話は違ってくる。

あれはああだ、これはこうだと聞いても退屈なかぎりだ。
それよりも、長島のだめさを語る人に会いたい。
黒澤と橋本忍の関係を語る人に会いたい。

残念ながらまた同じ結論に行き着く。

何を知っているのかではない。
何をどのように知っているのかだ。

そのことにより、先ほど書いた青年のような出会いが起こったり、起こらなかったりもする。
もちろん、それはあなた自身が決めることだが、何かに詳しいことは、とても恥ずかしいことだとわたしは思っている。

詳しさのほどにもよりますがね。

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飲み会で出会った青年

青年は、産まれてすでに25の年を重ねていたが、すでに結婚をし、その結婚も5ねん前の出来事だった。

青年の結婚のきっかけは15際のときに遡る。
その年に彼は、父の故郷である岡山に行く。
そしてカミさんになるべき女と出会う。

その出会いがいかなるものだったかは知らない。地方銀行に勤めるその女をとにかく少年は見初める。
この女と結婚しようと、瞬間に思う。
無知のなせる業だ。

なぜ少年がそのように思ったかは不可解だが、概ねわれわれの人生はそのように出来ている。
少年は、ぼくはまだ若いが、ぼくが20歳になったら結婚しようと約束する。
突拍子のない申し出は、そのときに成立してしまった。
場所と空気がそのような奇跡を起こしたのかもしれない。

彼女は23歳だった。
彼女が美しい人であったかどうかは知らないが、少年にとってかけがえのない美しさをもっていたに違いない。
ひとはそのように誤解の積み木細工の中で生きていく。

5年後彼らは結婚する。
その夜、わたしの前に座った青年は、それから5年たった青年だった。

そして、とんでもない幸せなことにいまや青年と化した少年は今でもその女を愛し続けている。
これは、行幸であるし、奇跡でもある。

この話を聞いたとき、一瞬、その場が輝いた。
そういう話がたまにある。
光源となるような話だ。

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8月1日の飲み会

久しぶりに人ごみに出る。
8月1日は東中野で塩見鮮一郎主催の飲み会だった。

人と話すというのもいいものであった。

二つほどその感想はあるが、それはまたの機会にさせてください。
とりあえず、飲み会出席はわたしにとっての事件でしたから。
ご報告まで。

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