2009年4月25日土曜日

グラン・トリノ


「グラン・トリノ」はイーストウッド演じる老人が心を開いていく物語であるというのが一般にされている解釈だし、イーストウッド自身もそう語っている。

しかし、よくよくこの映画を観ていくと、じつは、深く交感される愛の問題が語られているのがわかる。
心が開かれていくのはクリント・イーストウッド演じる老人だけでなく隣に住むモン族の少年タオもまた同じように心開かれていくのだった。

人は心開かぬものだ。

もし、誰かがそんなことはない、わたしは心開く人間だと思っているとしたら、断言してもいい。

そいつは、バカだ。

人が生きていくとき、人は心閉じる方へ向かう。
人は心閉じなければ、自分の心が痛んでしまうからだ。

(もちろん、痛んでしまう心を持ち合わせていなければ話は別だし、いま見渡してみれば多くの人々は痛む心をすでに捨ててきてしまっている。
そうして、その代わりに安らぎを得た。
それはそれでいいだろう。
わたしに何の文句もない)

この映画のすぐれたところは、いまだに痛む心を抱えながら生きている老人と、今後痛む心を持ち続けなければならぬだろう運命を背負っている少年を出合わせたことだ。

老人はすでに生きていくことに興味を失いかけている。

これは特別なことではない。
人はそれほど生きることに執着はしないものなのだ。
執着する何かがあるとき、その何かと向き合っていたいがために人は生に執着する。

この映画の老人にとってその何かは「グラン・トリノ」という一台のクラシックカーであったが、それもどこまで本質的な執着であったかどうか。

で、ともかくある事件を通じて老人と少年は自分たちが隣同士であることを知り、少しずつ相手の中に自分を見出していく。

ある方向から見るとき、「愛」は相手の中に自分を見い出す行為だ。

老人と少年がそれを深めていくためにはいくつかの事件が必要だったのだが、そのシナリオ構成はとても上質なものだった。
その果てに老人は少年の中に自分を見、少年は老人の中に自分を見た。

二人は認め合い、愛したということだ。

奇跡的に、閉ざされていた二人の心が相手の中に自分を見出す。
それがこの映画の描いたものだ。
この部分のすばらしさが、この映画の眼目で、他の部分がこのテーマの足を引っ張らないという決め細やかさにこの映画のストーリー展開のすばらしさがある。

概ね愛を描こうとするときに行われる設定をこの映画は取らなかった。

二組の息子夫婦がいながら孤独でしかない老人と(まあ、親子なんぞはそんなところで、それ以上であればそれはとても幸せなことか、ともに鈍いかのどちらかだ)民族の問題でアメリカに逃げてきたタオ族の少年との間の愛という設定をしたところにこの映画の傑出した美点がある。

ことはいつも単純だ。

この映画は「愛」を描こうとしてそのもっともピュアな部分を描いて見せた。
人が人を愛するときにどうなるかを見せてくれた。

それは一般的には必要とされない「愛」だったろう。

傷ついてきた心と傷ついていく心を持つ特殊な二人の男の間の愛なのだから。

しかし、もともと「愛」とは傷の香りのするものだし、傷つくことを嫌う人間にとってはさほど必要のあるものではない。

というわけで、この「グラン・トリノ」という映画は「愛」を必要とする人間に対しては深い「愛」の映画であり、さほど「愛」を必要としない人にとっては出来のいい老人の物語なのだろう。

そのことは映画の最後、イーストウッドが孫のような少年に「MY FRIEND」と呼びかけるときに集約される。
その呼びかけは人間関係のひとつの極地だ。

それは、日本に帰国した後、ジョン万次郎が自分を育ててくれた船長に対して出した手紙の最初がそうであったようにだ。

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2009年4月24日金曜日

ジャニーズ早し

ジャニーズの顧問弁護士の発表によると、はや、あの一緒に飲んでいた男と女は消えていましたね。
店の人と飲んでいたこととなり、不自然でないように男も一緒にいず、草薙クンが一人店の人相手に飲んでいたことになっていました。

こういう気の回り方が芸能界を生き抜くミソなんですよ。

これで彼の復帰もうまくいくわけで、問題はハダカで何かしていたことではなく、そのとき女はどうしていたかだったのです。(芸能界的には)

それにしても今回の警察のやり方ひどかったね。
民主党の鳩山さんはお兄ちゃんだけあって、あの弟よりしっかりしたコメントを出していた。
まあ、こういう問題のコメントで政治家を論じること自体、わたしもろともこの日本の能天気さなのでしょうが。

ところで、さっきの消えた女の話。
アイリッシュの「幻の女」ならここからが一気に読ませていくのだけれど、今回はこれがエンディングだから、エンターテイメントとしても、この日本はかなりな低さだねえ。

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花を探して


このゴールデンウィークは弘前公園が人気らしいが(ま、マスコミが煽っているだけかもしれないが、結局は賑わいになるのだから、マスコミはともかくだ)いまあそこは満開のサクラらしい。

わたしは、雑草を見るのもとても好きで、別に花の好みは特にない。
サクラはサクラ、アジサイはアジサイ、ツバキはツバキ、雑草は雑草といったところでどうしてもあの花でなければというのは、毎年書く善福寺川沿いの白木蓮くらいのもだろう。

どの道花もまたわたしを通して映るのだから、よほどの思い入れがなければ、ああ、そういえばきれいだねといった程度のものになる。

そういうところがわたしの欠点かもしれない。
美しいものをそのものの美しさとして愛でることに疎いのだ。
もう少し、しっかりとした眼で美と相対したいものだ。

もっともそうなると、絵画も映画も詩も器も…それなりの鍛えが必要になる。

美はまた受信者を要求するのだ。
美は媚びないから。

だから媚びた美しさにはわりと楽に反応するが、そのあとすばやく醒める。

これも困ったことだ、実にもって、

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さらに草薙クンのこと


さすがにこれだけ騒がれるとジャニーズ事務所も報道を止められず、鳩山総務相あたりがばかげた発言をするものだからどうしようもなくなってしまった。

けれども地デジなど別にあんな事件でイメージの壊れるほどのものでもあるまいし…
何のための批判をしているかまるでわからない。
マスコミの持つモメンタムはかくも恐ろしきかな…である。

ところで、さすがじゃニーズ事務所と思われることは、草薙クンがあんなに大酒飲んで大騒ぎしていたにもかかわらず近くに置かれた衣服とカバンと携帯だ。
随分ちゃんとした形で置かれていたらしい。

となるとどんなバカでもその公園あたりまで一緒に歩いて帰った女性の事を思いつくはずだが、この報道は今のところ一切ない。
週刊誌あたりで取り上げるのだろうか。

ともかくはジャニーズ事務所がいまは抑えている。

彼の服やカバンや携帯は、はたして彼がそこに置いたものかその女性が置いたものか。
そしてその女性は彼の乱痴気騒ぎを一切知らずにそこから去ったのかどうか。

それが極めてみだらで正しい芸能関係の興味の焦点だろう。
にもかかわらず、なぜ彼女に関しての話が出ないのか。
もちろんネットを調べれば出てくるのだろうが。

もしかして彼女とその公園で何かをいたしたのかもしれないのではないか。
その結果、彼はああした行動を取ったのではなかったのか?

まあいい、どちらにしてもたいしたことはない話で、早く彼には復帰してもらいたいものだ。

心あるファンは、誰もあの行為に腹を立ててはいまい。(彼女の話題が出ないのならば)
しかしジャニーズともなれば、よくここ一線で食い止めるものだなあとしみじみ思う次第である。

それとこの袋叩きの様子が、哀しい自己批判なきマスコミに思いを走らせる。

昨夜、書き忘れていたので、ここに改めて書き留めることにします。

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2009年4月23日木曜日

さて北野の責任とは?

北野の問題発言はインターネットに載っている。(ウラは取っていないのでホントかどうかはしらない)

北野「派遣社員って今何人いるのかい?」
アナ「ちょっと分からないですね」
北野「結構いるんだろ?やっぱりね、今の与党はおかしいよ、絶対!
  首相が漢字すら読めない事態だもの」
北野「それにもう一つの与党は宗教で政治献金を収集して
 『大勝利、大勝利』って教祖様が世界行脚している写真を載せている
 でしょ?有名な新聞に・・・」
アナ「それはちょっと・・・」
北野「お金で幸せを掴もうなんてダメ、宗教がそれをしているんだもの
  笑っちゃうよ」
アナ「ここで宗教の話はしないほうがいいかと・・・」
北野「何がちょっとなの?」
北野「あと、蟹工船って読んだことあるでしょ?アナウンサーなら」
アナ「はい、学生時代に読みました 暗い話ですよね」

ここで突然CMが流れて、その後…

アナ「先程、不適切な発言がありましたことを心よりお詫び申し上げます」
北野「何?俺が不適切な発言をしたって言うの?俺が赤旗を読んでいる
からってその宣伝なんてしてねぇぞ!」
アナ「それじゃありません」
北野「そうかそうか」


以上の発言はタレントにとって致命傷だ。
政治的責任が生じる。(政治家的責任ではなくて)

要するにタレントは当たり障りないことを言っていればいいので、大きくそこから飛び出してはいけないのだ。
飛び出すと、その発言と同じように、北野誠というタレントも大気圏から飛び出してしまう。

こちらは戻るのは難しかろう。
大麻ならなんとかなるが。

草薙氏かはいかがか?

あの人は大きすぎる商品価値があったから、もどりにくそうだね。

タレントも政治家もいろいろな手を使いながら、それを処世というのだろうが、生き抜いているわけだ。
その生き方に賛同するかどうかは別にして。


たとえば、今井凌雪という師は、そのような世界から随分とはなれたところにいらっしゃる。


ここ何本かあまりに薄汚れたブログを書いてきたので、ふと今井先生が頭をよぎった。
そういう方のいらっしゃることも知っていてほしいと思う。

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さらに責任について

この間まで、世間をにぎわした小沢一郎の問題も問題の質がごちゃごちゃになっている。

道義的責任・政治家的責任・法的責任…

とあげてみようか。

そうしたときに小沢が問題にされたのは法的な責任だ。
だから検察の登場と相成った。

あとはぐちゃぐちゃ。

政治家としの責任だとか、道義的責任だとか。

そんなもんを問題にしてどうする。(したいならばしてもいいが…)

あの場合解決しなければならないのは法的な責任であり、それは同じように自民党のある政治家も持つ問題だった。
にもかかわらず小沢を狙い撃ちしたのは、法的責任をマスコミの誘導で政治家的責任、道義的責任にすり替えていこうとした稚拙な国策捜査であった。

昔の国策捜査はもう少しましではなかったか。

ま、というわけで小沢氏は、更に追い込まれ代表を辞めることとなるだろう。
その際に、何か奇策をうつのかどうか。

今のところ衆議院選挙の公示直後に岡田氏と代表を代わるなどという意見が主流だ。

しかしだ、くりかえすが、小沢一郎の問題は法的問題に始まったもので、これは法的に解決すべきものだ。
そうでなければいくらでも人は叩ける。

わたしがどこかの路地でおしっこをしていたとして軽犯罪法で捕まり、挙句の果ては人間として許されない男とされたようなものだ。

もっともわたしの場合、人間として許されない男というところは事実に違いないのだが。

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ハダカになって何が悪い!

「ハダカになって何が悪い!」

じつに正当な発言だとわたしは思う。
しかしながら、公然わいせつ罪が存在するものだから、いたしかたはあるまい。

まああんな深夜の公園のことでもあるし(自宅みたいなもんじゃねえか)、もう少し軽く扱ってやればいいとも思う。

で、問題はこれからで、草ナギには商品価値というものがあり、あの事件はその価値を著しく損なうものであったところにあの男の悲劇は生じる。
通常の問題としては語るに値はしない。

夜中の公園で体を洗う家なき男の行為に対し、世間はあれほどは目くじら立てない。

問題はこうなる。
法的にはほとんど問題にもならないし、道義的にもあまり問題にならぬものが、商品価値を損なったという点で大きく問題になっている。

商品価値としての彼にあまり興味のないわたしにとって、彼の起こした問題はさほどのものではない。

おそらく、あなたにとっても彼が商品価値を損なった点においてそれほど腹は立たず、むしろ愉快なくらいではないか。

だとしたら、「おバカさんが…」位の度量を示していただきたいものだ。
世間の人には。

あんなもんだぜ人間のすることなんざ。

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はたまた倒れてしまい…

世も末だと思い、世も末とは「わたしの世も末」だが、まあうすらさびしい思いで横臥していたのです。

それでも起き上がって、ブログを書く元気ぐらいはなければねえ。
反省しております。

そういえば、その空ろ空ろした時間の中で北野誠のニュースに遭遇し、草なぎ氏のニュースに遭遇したのだが、どちらも消えていく種類のものなのだと感じます。

ひとつは国家権力の暗黙の力で、ひとつはジャニーズの力で。
インターネットで多少はニュースの概容は聞こえてきますが、それだけのこと。

まことに風通しは悪く、その風通しの悪さが、ここまで時代を作ってきたのだと思うのです。

すべてのひとに情報を流せば世は混乱に次ぐ混乱…、それは関東大震災以後にしてもブラジルで起こった勝ち組負け組みの論争にしても同じで、更に書けば日本だってすでに情報を握り国民を十分に愚弄し始めていて、それはナチスのやったこととあまり大きな違いはない。
(もちろん情報操作においての話で、ホロコーストが起こったかどうかは別の話なのだが…)

ところで、この時期、気持ちが弱くなることが往々にありますが、みなさんは大丈夫ですか?

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2009年4月17日金曜日

久しぶりに試写会へ

さんざん肩で風切って都心を歩き回っていたらば、年齢とは怖いもので、そのまま自宅に帰るなり、寝込んで今日まで四苦八苦、ようやく本日「グラン・トリノ」を見に行ける状況。

バカのやることは誠に恐ろしい。

呑んでいる途中から体の偏重はわかっていたのですが、そこはそれ、酒のこと、さっぱ、わやですわ。
とにかく回復力がいかんともしがたい。

回復力がいまや激減しています。
このブログを読んでいただいている皆様、心してお笑いください。

はてさて、少し落ち着けば大量のブログを起こしていきますので、これに懲りずにぜひとも今後ともお付き合いくださいませ。

まずは、ご挨拶まで。

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2009年4月11日土曜日

酒疲れ

古女房に出会ったかのように久しぶりに酒疲れを感じている。
飲み疲れといったほうが正確なのだろうが、酒疲れのほうがいまの気分を表している。
その疲れのためにひととの約束を断ったが、明日はその代わりに新宿に出かけなければなるまい。

やれやれ

わたしの寝床の脇に「質問の本」グレゴリー・ストック著がどういうわけかあって、しばらく前から眺めているのだが、こういうときに眺めるほんではないのだろう。

何ともきびしい、息遣いが荒くなりそうだ。

この217の質問を並べただけの本は、いくつかの質問はやけに迫り来るものがあって、なかなかどうして大変なのだよ。

自分で選べるとしたら、どんな死に方をしたいですか?

生涯でもっとも感謝しているのはどんなことですか?

あなたは幸福な結婚生活を送っている。だが、心の底から燃えあがりのめり込める愛を確信できる、新たな出会いが訪れた。
あなたは夫(あるいは妻)と別れますか?
子供がいる場合はどうですか?

どれもこれも疲れた気分で応じる質問ではない。
今のわたしは安閑とした眠りのほうが何層倍も魅力的だ。

それにしてもわたしが不可避的にさらされている質問とはなんだろうか。
このことだけは、考えてみたい。
考えてみたい気分のときに。

ちなみにこの本は森瑤子さんが翻訳している。
道理でね……なんてね。

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2009年4月9日木曜日

時計仕掛けのオレンジ


昨夜は久しぶりに新宿に出かけ痛飲する。
酒を飲めば後はぐずぐず。

どうしようもないですなあ。

最初に寄った店は思い出横丁。
そこで串を焼く店長としばし映画の話をするが、まことによく見た映画を覚えている。
こちらは何も思い出せない。
思い出横丁で思い出せない切なさよ。

そういえば、ついさきごろ「時計仕掛けのオレンジ」を再度見る機会があったが、ところどころ記憶に残るシーンはあるものの多くは記憶のかなたに飛んでいた。
記憶に残ったシーンの衝撃度がそうさせたのか、老いがそうさせているのか。

どちらにしてもこの状態を楽しむしかあるまい。

ひとはいまの状態を嘆くことで、さらにその嘆きが自分の足を引っ張るものだ。

嘆きの三重奏といったところか。(「三」というのは具体的に何かと問うなかれ、はまりのいいコトバを使ったに過ぎない。心地よく響きませんでしたか?)

今後どの映画を見ようとも、たとえそれが一度見た映画であっても十分楽しめるという切符をわたしはいま手に入れたところだ。

そう思えば、昨夜の酒も悪くはなかったか。

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2009年4月8日水曜日

こんな夢を見た

姜尚中の身内の葬儀に出るために東京駅で彼と待ち合わせるがわたしは遅れ、乗るはずの列車はすでに行ってしまっており、姜さんもいない。

わたしはまいってしまったが、調べてみると後続の新幹線で名古屋あたりで追いつけそうだ。
よし、とばかりに新幹線で急ぐ。

次のシーンはようやく追いついた姜尚中と列車内で話している。
すると旧知の小椋純一が登場する。

わたしの紹介の後、姜さんと小椋は自分たちの掘り当てた温泉の話を始める。
姜さんは鞍馬で掘り当てたといい、小椋は貴船で掘り当てたという。
(どちらも温泉の出るはずのない場所だ)
二人は自慢するでもなく具体的に温泉をどのように掘り当てるかの話に興じている。

私は少し離れたところでその話を聞いているのだが、その話とは関係なく姜尚中の長男が水死したこと、その後、妻が精神的におかしくなったこと、今ではその状態から回復したが、代わりに(といってはなんだけれど)長女がときどきそのときの妻と同じ状態になってしまうことを知っていく。(どうやら長男の水死と長女とはなんらかの関係があるらしい)
そんなことたちをわたしは姜尚中と何の話もしていないのに知っていく。

姜さんにはもう一人下の娘がいてこの子は心身ともいたって健康らしい。
姜さんの長女は今は調子が悪く、そのためこうして自分ひとりで葬儀に赴くのだという。

シーンは田舎の電車の中に移る。
わたしは二人とは離れたところにいる。
わたしのリュックのなかには7,8本の缶ビールとカンチュウハイが入っており、それを呑んでいるのだが、なかの一本がリュックの中でプルトップの部分がおかしくなり、流れ出したりして大変だ。
わたしの横には女子高生が二人いて姜尚中のうわさをしている。
ここで友川かずきの「夢のラップもう一度」がBGMとして流れ出す、かなり強烈に。

場面は再び変わりひなびた見知らぬ村にわたしはいる。
わたしは庭先に流れる小川の前の炊事場におり、いくつかの水道の蛇口が並んでいた。
その蛇口の二つには古い雑誌がひもでかけられていた。
ひとつは週刊プレイボーイで表紙は薄れ、なぜか表紙の文字にはそれでも読めるようにとボールペンで縁取りがしてある。

その週刊プレイボーイは岸本加代子の写真が表紙を飾っていた。
もうひとつは週刊ポストでこちらの表紙は文字に縁取りされていたという以上のことは見えなかった。

その雑誌の表紙を眺めていると炊事場の前の道、つまりは小川伝いの道を葬式の行列が通る。
わたしはその行列についていきかけるが、待てよと思いもう一度炊事場に戻る。
すると炊事場の反対側に大きな家があり、その二階から小椋がわたしに手を振っている。

窓は開けられていない。
閉められた窓の向こうから小椋が手を振っている。

わたしはその旅館の玄関から入り二階に上がろうとするのだが、その上がり方がわからない。

そこでわたしは目覚めた。

姜尚中と小椋とわたしが、誰の葬儀に赴こうとしていたのかは最後までわからなかった。

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好悪も気分も

昨日は「好悪の感情の押しつけ」についてをやや声高に書いてしまいお恥ずかしい限りです。
お許しください。

さて、この際だから更につけ足しておきますが、わたしが責めたのは「押しつけ」であって「好悪の感情」ではありません。
「好悪の感情」はあなた自身から発するものです、他の誰からの発信でもありません。
その感情、その感情を抱いたときの雰囲気は、とても大事にしてほしく思っております。

わたしの問題としているのは、「好悪の感情」はあなたにとってとても大事なものだけれど、

「第三者に何らかの強制ができるほどの根拠にはならない」

と意識しておきたい、ただそれだけのことです。
自戒を込めて書けば、ついつい忘れがちになることだから。

ついでに言えば、気分というものも大切なものです。
これに関しては鶴見俊輔氏の「アンソロジカル・カルチュア」という貴重な講演録があって、そこでは「銭湯デモクラシー」という方向が示されている。

銭湯の中での会話として「ああ、寒いな」とか「そう思っているんだ」、「こういう気分だな」という会話から始まり、そこから何かを積み上げていくことが日本人のスタイルとして重要ではないかと提起されている。

ここでは、「押しつけ」ではなく、「積み上げ」となっていることに注意したい。

と、まあ、こんなことをつけ加えておきたい気分です、いまのわたしは。

しかし、それにしてもいま述べている内容もこの段階のわたしの里程石に過ぎないので、いつ、ほかの転がり出てくる石に里程標は取って代わられるかわからない。

それでもいま考えられる限りは考えておこう(感じられるものは感じておこう)というのが、わたしです。

「積み上げ」もなかなか困難な道だと言うことですナ。

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2009年4月7日火曜日

ショーシャンクの空に


久しぶりにテレビを通じて「ショーシャンクの空に」を観る。
こういう映画だとなるほどと納得できる。
立派な映画だ。
ティム・ロビンスやモーガン・フリーマンの演技やセリフ、シナリオ構成、随所に見せる映像の美しさ、そして何より人間を考えさせてくれる。

活動写真もここまでくれば大いに威張っていい。
もちろんこの映画の製作者たちは威張りはしないだろうし、もっと律儀な人間が撮ったことは追体験すればよくわかる。

この作品は1994年の公開で、興行的には当時パッとしない映画だった。
この年には「スピード」「パルプ・フィクション」などの話題作があり、注目はそっちが奪っていった。
それでもアカデミー賞の7部門にノミネートされるまで健闘したが、そっちは「フォレスト・ガンプ」に大方もっていかれ、何とも寂しい結果となった。

「ショーシャンクの空に」が徐徐に話題にのぼるようになったのはその後のことである。
テレビドラマで言えば、さしずめ山田太一の「早春スケッチブック」といったところか。
しかし、オン・タイムでなくともここまでの評価を得たことをわたしはうれしく思う。

まんざらでもないな。

そういえば、この映画について書かなくてもいい思い出がひとつある。
あえて書く。

あるとき、同じくスティーヴン・キング原作の「グリーンマイル」の感想を聞かれたとき、「『ショーシャンクの空に』ほどではないかもしれない」、そうわたしは答えた。
それを聞いた男が言った。(あまり知らない男だった。確かわたしの友人が連れてきた男だったかと思う)

「ショーシャンク」をオレは認めないんだ。

もう忘れているだろう、あの男は、あのとき言ったこのコトバを。

しかし、わたしは覚えている。
二度と会うことはなかった男だったが、あの非礼を。

この問題は深い。
問題は「ショーシャンクの空に」を否定した点にはない。
自分の好みをわたしに押しつけたところにある。

押しつけた?

そう、押しつけたのだろう。
男はそのあとに「ショーシャンクの空に」をなぜ認めないかを語らなかった。
わたしもその程度の男と判断し、気分の悪さを抱えたまま後を追った質問を投げかけなかった。

男はその理由をわたしに語らなければならなかった。

なぜなら、ひとはひとに自分の好悪の感情を押しつけてはならないからだ。
わたしが好きであるか嫌いであるかはわたしの問題で、あなたに対する何の影響力もない。

何らかの影響力を欲するならば、それみには好悪を離れる推進力が必要だ。
自分の好き嫌いが他者に対していかほどの意味を持つというのか。
のぼせ上がるのもいい加減にしたまえ。

こんなこともあった。
ある酒場でボトルのワインを他の客に振舞っていたときに隣の友人が言った。

「あの女性にも振舞ったほうがいい」

なるほど振舞ったほうがいいかもしれない、そうわたしは思ったが、わたしはその女性を好んではいなかったし、こうも言いたかった。

「なるほどキミの言うとおりだ。だったらキミがワインのボトルを注文して彼女に振舞えばいい」

その友人とは今もつきあいがあるし、今もその友人はこの欠点を持っている。
つまり、自分の好悪の感情が他者に影響を与えうるものだという勘違いをしている。

自分の好悪の感情は他者に対してはなんらの影響も持たぬものだ。
だからこそ好悪の感情を他者に伝えるときには話に技巧を要する。
技巧をもって始めて相手へ好悪の感情は伝えられ、あるときはわずかな影響力を持つ。

要するにキミが、わたしが、何を好み何を嫌うかなど他人は何の興味も持たないのだ。
そういうことに他人が興味を必ず示すと思うのは幼い子どもぐらいなものだ。

もちろん、とても興味を示してくれる場合がないとは言えない。

あなたの何かに対する好き嫌いに身内のように寄り添ってくれるのは「水入らずの関係」のひとだけだ。
このひとはキミにとって特別なひとだ。
心して大事に扱ってほしい。

普通のひとはあなたが好きであろうが嫌いであろうが、そんなことはどうでもいいのだよ、困ったことではあるのだが。

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春の陽を浴びて



庭先の山椒の木は、まだ寒い時期にいらぬ剪定をしたものだからご覧のように今年は若芽を出すことがない。
無知は残酷なことをするものだと庭先に目が行くたびに山椒に謝る毎日だ。

許してくれるだろうか。
許してくれなくとも詫び続けることしかないだろう。
来年の若芽を願っております。

一方、神田川疎水べりのサクラは5日の日曜日を頂点にいまだ満開の状態でまばゆいばかりだ。
それでも川面を見ると早、散り始めて入る。

花吹雪 舞い散る中に 花一輪

本日は豊かな散策をしておりました。

痛く、草花や樹木に目が行く散歩でした。
こういう至福がわたしの中に訪れるということにうれしさを感じております。

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2009年4月6日月曜日

将棋界は大丈夫だろうか?

テレビのバラエティ番組の質の低下は目を覆うばかりだ。
その原因は予算の低下だ。
テレビ芸人は山ほどいる。
提供元がいくらいなくなっても、なんとでも番組は作ることができる。

それに視聴者がどこまでついていくかだ。
どこまでついていくのだろうね。

という具合にクルマ、大手家電をはじめ企業はこぞって広告費を恐ろしい勢いで減らし始めている。
それにしたがって多くの影響が出始めている。
そのひとつが、前述のテレビ番組の低俗化だ。(安く作らないといけないからね)

ところで、将棋界の主な収入は新聞上の将棋欄掲載だ。
もちろん新聞も広告費が激減している。
以前の広告主といまの広告主の差は掲載されている広告を注意してみればよくわかる。
各新聞が以前より安く違う業種に対し広告を載せてあげているわけだ。

そこで、将棋。
簡単にわかるように将棋欄が新聞からなくなったとしても、ほとんど問題はなかろう。(一部の熱烈な将棋ファン以外には)
だとすれば、新聞から将棋欄が消えるのもそう遠い話ではないのだろう。

将棋欄が新聞から消えれば、日本将棋連盟に入ってくる金が大幅に減少する。
大幅に減少すればその金で食っていた将棋連盟、連盟所属の棋士たちの取り分は減る。

はてさてどうしたものか。

ここで、新しい棋士の誕生に影響を与えるようなことだけはしないでほしい。
別の打開策を考えてほしい。

そもそもこういう難局面において妙手を編み出すのが将棋というゲームの醍醐味ではなかったのか。

ちなみに愛する我が息子は未来の棋士を目指し奨励会に属している。

いかに不可能に近い難事であろうとも、彼が棋士になることはいまでもわたしにとっての限りない僥倖である。

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一人であること


あいまいな情報で申し訳ないのだが、アメリカに戦争から戻った兵士がどういう理由で人を殺したかという統計がある。

その第一位が、命令されたからとなっており、自然に想像できる自分を守るためにが一位ではなかった。
この「命令されたから」という回答の背後には集団の中の一人である自分という要因が隠されている。

前回を中心に紹介した子規や啄木は「一人であること」から始まっている。
集団か孤独かの事の是非はともかく、有りようの差はこの殺人の動機のなかにもある。

極限状態は他からの強制のなかで擬似的に生まれ、その擬似的な極限状態で人は人を殺す行為に及ぶ。
他は集団と読みかえてもよかろう。

いや、それ以外にも多くの殺人の動機はあるはずだ。

そのような反論はある。
反論はあるが、問題は集団の圧力が人を殺人に追いやり自殺に追いやるという事実だ。

そしてこの集団の圧力は物言わぬ力であることも可能だという点を見過ごしてはいけない。
(それは今では物言う物言わぬ力としてインターネットという新たな道具まで登場した)

さて、この物言わぬ力の恐ろしさは、たとえばマザー・テレサが自分たちの主要な敵が無関心な人々だと静かに語ったことでも知られているし、ある映画のなかでこの集団の圧力を溺れ死んでいく人の周りの静かな海面になぞらえたこともあった。

写真は2007年のイギリス映画「キングダム・ソルジャーズ」だ。

この映画のなかには集団の力が観るに耐えない虐待を犯させ、犯した自分の過ちに個人で立ち向かう青年が悲惨な運命に落ちていく姿を描いている。
この作品で抉り取られたものはこの日本でも日夜進行している。

記憶から去りつつある秋葉原の事件を思い出してほしい。

あの事件が彼一人の決然たる意志によって行われたものと考えるだろうか。
あれはある圧力が彼にのしかかり、彼の発火点に到った結果ではなかったか。

この場合、発火させた者にだけ焦点を当てても問題は何も見えてこない。
発火させないまでも追い込まれているあなたはそこらじゅうにいるのではないのだろうか。

そうだとすれば、そのように追い詰める見知らぬ圧力は誰が生み出しているのだろうか。
それが、もしこの社会全体を国全体を覆いつくそうとしているならば、抵抗するためにはまずその敵をはっきりさせねばなるまい。

しかし、しかしだ。
困ったことにこの相手は、はっきりと見えないのだ。
無関心という名の下に生じるこの手の圧力の主体者は、自分自身でさえ圧力の発信者と自覚していないからだ。

さて、どうする。

それが、この社会の抱えているひとつの大きな問題であり、そのことに楯突いた作品として「仰臥漫録」と「ローマ字日記」がある。(もちろん、そうも読めるという意味での話しなのだが…)

ラベル:

2009年4月5日日曜日

ローマ字日記


阿部昭によれば、子規の「仰臥漫録」に並び立つような限りなく虚飾を去った作品は、「仰臥漫録」の十年後に子規よりも更に若くして死ぬ啄木の「ローマ字日記」を除いては知らないとなる。

「ローマ字日記」は啄木の命名ではない。
明治42年4月7日から同年6月16日までの彼の日記は黒クロース装ノート1冊に書かれた日記であって、それがローマ字で書かれたものだったためいつのころからか「ローマ字日記」と呼ばれるようになった。

当時、ローマ字は珍しかった。
したがってローマ字で書かれたこの日記はたやすく読まれる種類のものではなかった。

啄木はローマ字を、家族から逃げるため(彼らに読まれぬため)、日本文学から逃れるため(日本文学の伝統の抑圧から逃れるため)、社会から逃れるため(それは社会という大きな枠組みのなかで生きる己の貧困と結核という抑圧からだっただろうか)に、使用している。

しかし、残念ながら以上のこのローマ字使用の理由はこぎれいにまとめすぎている。

じつのところ啄木のローマ字使用の理由はもう少し逼迫したところにある。
知りたければご自身で読むに限る。
岩波文庫はそのローマ字をひらがな漢字に直したものも付加されている。
(ここに詳しく説明するだけの余裕と十分な力がわたしにないことを詫びておきます)

さて、病状六尺の子規に比して啄木は狭いながらも「ホンゴウ区 モリカワ町 1番地」の3畳半の下宿屋に住む。
しかも彼は歩いて出かけることもできる。

にもかかわらずどこが「仰臥漫録」と並び立つのか。
それは、そこに記されているのが生きることのみに徹した記録だからだ。

先に阿部昭が「虚飾を去った作品」と述べたことを書いておいたが、それは生きているという事実以外に書くことを持たぬ者の文章と言い切るほうがいいかもしれない。

よって、その文章には余裕なく、ときとして訪れる余裕(あるいはそれは余白と呼んだほうがいいのだろう)を逃すこともなく、激情、平穏、自己に対する叱責、起こり来る欲望、そういったごちゃまぜを限りなく薄い薄い紙で掬い取っている。

それをもってひとつの日記として提出しているところにこの二つの日記の一致点はある。

生きるというのはこれほどまでに高く低くうごめく行為であるのだ。
その行為をここまで観ることもできるのだ。

そして両者ともに現代社会から見れば十二分に貧困で不幸な人間であり、それでいて「高潔」である。
その「高潔さ」は、意地汚さとも、他者への容赦ない罵詈雑言とも、自己への泣き崩れるような不信感とも、言葉にはしっかりと定着させられない猥雑なことたちともしっかりと結びついた「高潔」である。

あちこちに散見するただ単に高潔であることが、これほどまでにみすぼらしく見えてしまう「高潔」なる本をわたしは知らない。

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花見疲れ

花見がらみもあって、このところよく酒を口にしていたものだから、本日の塩見鮮一郎氏ら主催の立川昭和公園の花見は遠慮することにした。

少なくとも酒に関してはここまで遠ざかっているということだ。

その代わりといってはなんだが昨夜はいい夢を見た。
昔付き合っていたお気に入りの女性と男性が出てきて、わたしは彼女と一緒にその男性を訪ねるのであった。
その男性は昔ながらの姿かたちはしているのだが、なぜか夢の中では柳家小三治ということになっていて、満員の会場に二人で困惑していると小三治である彼の弟子に招かれて楽屋で聞けばいいということになった。

聞けばいいことにはなったのだが、師匠の演じている間中、彼女と何やかやとお話をしていたものだから何の演目をやったのかはわからず、終演後の割れんばかりの拍手を聞くばかり…。

さらに彼女とのやり取りも、彼女が途中忘れ物を取りに行ったり、今何をやっているかを話したりしていたのだが、こちらもトンと記憶にない。

ただ、別れ際、彼女に日本舞踊に挑戦することを約束させられてその師匠のお宅を訪ねる約束をした。

さて、その約束だが、どこで何時だったか…、その場所に行き着く道理もなく、また昔のように彼女を怒らせてしまうのだろうな、と思い悩むのであった。

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2009年4月4日土曜日

イチローも大変だなあ


米大リーグのマリナーズは3日、イチロー外野手を消化器系の出血性潰瘍のため、15日間の故障者リストに入れたことを明らかにした。
イチローが故障者リスト入りするのは初めて。
マリナーズは、出血は止まっているが念のために故障者リスト入りの措置をとったとしている。
イチローが出場可能となるのは15日となる。

イチローはマリナーズで通算打率3割3分1厘をマークし、8シーズンを通して年間少なくとも157試合に出場。
2005年と昨年は162試合に出場した。
8シーズン連続200安打以上は大リーグタイ記録。

今年の200安打は大変だ。

他人事ながら気になります。

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2009年4月3日金曜日

おくりびと


遅ればせながら「おくりびと」を映画の日に見る。

山崎努によって支えられた映画だった。
それをワキで余貴美子が支える。

このふたりに押し倒されないように本木クンはがんばった。
映画の造りとしてはチェロを小道具として位置させたところにセンスを感じた。
チェロを思いつくのは大変だったろう。

それに加えて納棺のシーンは極めて映像的で、よく演技されていた。

ただし、石文を入れるのはいいがあそこまで引っ張るかどうかは難しいだろう。
けれどもあれがなければ主人公にほとんどドラマがなさ過ぎる映画になってしまっただろうか。

わたしはそれでもよかったと思うのだが…

何はともあれ本木クンはよくがんばった。

加えておけば、本木雅弘クンはあの相撲の映画以来アメリカではその種の人たちからの人気が大変に高いそうです。
今回の映画でさらにその人気は高まるかもしれませんね。

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2009年4月2日木曜日

新宿にて



新宿で人と会う機会があり、しばらくご無沙汰していた御苑近くにある「赤ちょうちん」で酌み交わす。
この店は知る人ぞ知る牛もつの店で、生で心臓、すい臓、脾臓、ミノ、胎盤…などを食わせる。
うまいかまずいかはその人にゆだねられるが、かなりの一品であることは間違いない。
(写真は上が心臓、下が脾臓)

新宿のごく寂しい通りにあるのだが、この日も店の中は盛況であった。
わたしも久しぶりに肉を食べたが、牛の内臓の持つ味の深みに触れてしまった。

まあ、早くいえばうまいということだが、こういうものを食ってうまいと思うとき、自分の罪深さに思い当たる。

しかし、うまいものはうまいのでどうしようもない。
どうしようもないが、罪深さも深く意識しておこう。

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2009年4月1日水曜日

希望は無銭飲食

政府は需要拡大でさまざまな政策を打ち出そうとしているが、うまくいくとは到底思えない。

人々に金がないのにどうして需要なぞ求められようか。
人々に明日への希望が消失しているのにどうして消費に金を回せようか。

2006年の日経流通新聞の調査によると、
20代の毎月の平均貯蓄額は、5万8000円、30代だと5万7900円に及ぶという。
しかもそれらの大半は目的なき貯蓄である。

もちろんこれは正社員の身分を持つ連中の貯蓄であるのだが、彼らにしてからが金を使う気などどこにもないのだ。
明日のない人間たちがただうろうろしながら明日のことを心配している。

もし、この日本に稀代の先導者が生まれれば、かつて満州になだれ込んだように、人々は満州へとなびくかもしれない。
新たな核なき戦争へとなびくかもしれない。
しかし、この無意味な仮定を放り出してしまったときわれわれは第一次産業に目を向けるしかないだろう。

この国の今の状況の打開は産業構造の転換を視野に入れなければ不可能に等しいだろう。
前述のようにもはやクルマや大型家電を買おうという人種は、特殊な阿呆どもだけだ。
ここで阿呆となじるのは、この国において自分だけしか生きていないという幻想を破ることをしない低能をなじったものだ。

さらにだれがマンションを買うものか、土地付き家屋を買うものか、それが金融商品であったときには(高く転売可能であったときには)購買者もいたであろう。

だが、いまやいつ住宅価格が上昇するというのだ。
わたしが、わずかにもつそれらの資産も下がりっぱなしではないか。
(もし、わたしが悪辣な所業として家族をすべて放り出した暁には、この屋を解放区として新たな家族の拠点としたく考えている。
もちろんその構成は妻と子どもと…といった従来型ではない。
が、この問題は後に送ることにしよう。このことを語れるべき力がわたしに訪れるそのときまでに)

だからこそ、若者を第一次産業に送りなさい。
農業、漁業、林業を注目する政策を立てなさい。
きびしい第一産業の仕事も若者ならばこなしてくれるだろう。
第一次産業がこの国の根幹だと見破りなさい。
若者を集約的に第一次産業の再生に向けなさい。
それを基にした産業構造の変革を考えてみなさい。

これが政治家に負かされた使命だろうとわたしは考えています。

さて、若者ではないあなたやわたしにそういう前向きな議論はない。
未来はないのだ。

だが、そういったお先真っ暗なわれわれに残された希望は何もないのかといえば、少なくともひとつだけはある。
それが、無銭飲食だ。


横浜市のレストランで3月、生ビールなど約4000円相当の無銭飲食をしたとして
詐欺罪に問われた無職工藤明被告(61)に、横浜地裁(鈴木秀行裁判官)は8日、
懲役1年8月(求刑懲役2年6月)の判決を言い渡した。
同被告は約40年間に無銭飲食で30回近く逮捕され、裁判は16回目。
これまでに実刑判決を14回、執行猶予付きの有罪判決を1回受けた。


無銭飲食をしては刑務所へ、刑務所を出ては無銭飲食を。
このくりかえしの中に希望を見出せる可能性がある。
しかし、前期の判例を見るがごとくこの実践には少々厄介がつきまとう。

が、なに、恐れることはない。
刑務所に入れてくれるまで、執行猶予が取り去られるまでしつこく繰り返してみればいいのだ。

そのためには服装は身奇麗にしておきたい。
そうしておいて、とある店に入る。
静かなディナーのその後には、静かにその店のオーナーにお願いするのだ。

「すまないが、電話をお貸し願えないだろうか」

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貧困の諸相

ある雑誌を開いてみると、

20代から50代の男性300人を対象にするアンケートにより節約技術が挙げられている。
回答上位からの節約術を見てみると、

「スーパーでは賞味期限切れ間近の値下げ品を買う」17%

「エアコンは極力使わない」13%

「外食はやめて弁当にした」10%

「新聞はとらない」10%

「リサイクルショップを活用する」10%など。

さらに「ユニクロのバーゲンを活用する」4%

「坊主にして美容院代を浮かす」2%

いま活気のある店は、ユニクロ、マクドナルド、「餃子の王将」、「超安売りスーパー」、「見切り品コーナー」、「格安理髪店」、ちょっと贅沢して「宅配ピザ」…

食わねばならぬから食は安さを売り物にした店に群がる。
着るものは、できれば買いたくない。
買うのならユニクロレベル。
住は、なるべく独立せずに親元に。

こんな具合になるのか。

そういえば恋愛がどうのこうのとさっきテレビから流れていたが、

「恋愛は明日への不安を持たぬものの産物」

明日への不安を持つものがどうして恋愛などできようか。

それともキミはわたしの明日への不安をその手で一緒に支えてくれるのか?

その相手にこの手の殺し文句が通用するのならば、それは恋愛したまえ。
あなたの人生で二度とは会えない稀有な人かもしれない。

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