2009年4月7日火曜日

ショーシャンクの空に


久しぶりにテレビを通じて「ショーシャンクの空に」を観る。
こういう映画だとなるほどと納得できる。
立派な映画だ。
ティム・ロビンスやモーガン・フリーマンの演技やセリフ、シナリオ構成、随所に見せる映像の美しさ、そして何より人間を考えさせてくれる。

活動写真もここまでくれば大いに威張っていい。
もちろんこの映画の製作者たちは威張りはしないだろうし、もっと律儀な人間が撮ったことは追体験すればよくわかる。

この作品は1994年の公開で、興行的には当時パッとしない映画だった。
この年には「スピード」「パルプ・フィクション」などの話題作があり、注目はそっちが奪っていった。
それでもアカデミー賞の7部門にノミネートされるまで健闘したが、そっちは「フォレスト・ガンプ」に大方もっていかれ、何とも寂しい結果となった。

「ショーシャンクの空に」が徐徐に話題にのぼるようになったのはその後のことである。
テレビドラマで言えば、さしずめ山田太一の「早春スケッチブック」といったところか。
しかし、オン・タイムでなくともここまでの評価を得たことをわたしはうれしく思う。

まんざらでもないな。

そういえば、この映画について書かなくてもいい思い出がひとつある。
あえて書く。

あるとき、同じくスティーヴン・キング原作の「グリーンマイル」の感想を聞かれたとき、「『ショーシャンクの空に』ほどではないかもしれない」、そうわたしは答えた。
それを聞いた男が言った。(あまり知らない男だった。確かわたしの友人が連れてきた男だったかと思う)

「ショーシャンク」をオレは認めないんだ。

もう忘れているだろう、あの男は、あのとき言ったこのコトバを。

しかし、わたしは覚えている。
二度と会うことはなかった男だったが、あの非礼を。

この問題は深い。
問題は「ショーシャンクの空に」を否定した点にはない。
自分の好みをわたしに押しつけたところにある。

押しつけた?

そう、押しつけたのだろう。
男はそのあとに「ショーシャンクの空に」をなぜ認めないかを語らなかった。
わたしもその程度の男と判断し、気分の悪さを抱えたまま後を追った質問を投げかけなかった。

男はその理由をわたしに語らなければならなかった。

なぜなら、ひとはひとに自分の好悪の感情を押しつけてはならないからだ。
わたしが好きであるか嫌いであるかはわたしの問題で、あなたに対する何の影響力もない。

何らかの影響力を欲するならば、それみには好悪を離れる推進力が必要だ。
自分の好き嫌いが他者に対していかほどの意味を持つというのか。
のぼせ上がるのもいい加減にしたまえ。

こんなこともあった。
ある酒場でボトルのワインを他の客に振舞っていたときに隣の友人が言った。

「あの女性にも振舞ったほうがいい」

なるほど振舞ったほうがいいかもしれない、そうわたしは思ったが、わたしはその女性を好んではいなかったし、こうも言いたかった。

「なるほどキミの言うとおりだ。だったらキミがワインのボトルを注文して彼女に振舞えばいい」

その友人とは今もつきあいがあるし、今もその友人はこの欠点を持っている。
つまり、自分の好悪の感情が他者に影響を与えうるものだという勘違いをしている。

自分の好悪の感情は他者に対してはなんらの影響も持たぬものだ。
だからこそ好悪の感情を他者に伝えるときには話に技巧を要する。
技巧をもって始めて相手へ好悪の感情は伝えられ、あるときはわずかな影響力を持つ。

要するにキミが、わたしが、何を好み何を嫌うかなど他人は何の興味も持たないのだ。
そういうことに他人が興味を必ず示すと思うのは幼い子どもぐらいなものだ。

もちろん、とても興味を示してくれる場合がないとは言えない。

あなたの何かに対する好き嫌いに身内のように寄り添ってくれるのは「水入らずの関係」のひとだけだ。
このひとはキミにとって特別なひとだ。
心して大事に扱ってほしい。

普通のひとはあなたが好きであろうが嫌いであろうが、そんなことはどうでもいいのだよ、困ったことではあるのだが。

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