2009年4月6日月曜日

一人であること


あいまいな情報で申し訳ないのだが、アメリカに戦争から戻った兵士がどういう理由で人を殺したかという統計がある。

その第一位が、命令されたからとなっており、自然に想像できる自分を守るためにが一位ではなかった。
この「命令されたから」という回答の背後には集団の中の一人である自分という要因が隠されている。

前回を中心に紹介した子規や啄木は「一人であること」から始まっている。
集団か孤独かの事の是非はともかく、有りようの差はこの殺人の動機のなかにもある。

極限状態は他からの強制のなかで擬似的に生まれ、その擬似的な極限状態で人は人を殺す行為に及ぶ。
他は集団と読みかえてもよかろう。

いや、それ以外にも多くの殺人の動機はあるはずだ。

そのような反論はある。
反論はあるが、問題は集団の圧力が人を殺人に追いやり自殺に追いやるという事実だ。

そしてこの集団の圧力は物言わぬ力であることも可能だという点を見過ごしてはいけない。
(それは今では物言う物言わぬ力としてインターネットという新たな道具まで登場した)

さて、この物言わぬ力の恐ろしさは、たとえばマザー・テレサが自分たちの主要な敵が無関心な人々だと静かに語ったことでも知られているし、ある映画のなかでこの集団の圧力を溺れ死んでいく人の周りの静かな海面になぞらえたこともあった。

写真は2007年のイギリス映画「キングダム・ソルジャーズ」だ。

この映画のなかには集団の力が観るに耐えない虐待を犯させ、犯した自分の過ちに個人で立ち向かう青年が悲惨な運命に落ちていく姿を描いている。
この作品で抉り取られたものはこの日本でも日夜進行している。

記憶から去りつつある秋葉原の事件を思い出してほしい。

あの事件が彼一人の決然たる意志によって行われたものと考えるだろうか。
あれはある圧力が彼にのしかかり、彼の発火点に到った結果ではなかったか。

この場合、発火させた者にだけ焦点を当てても問題は何も見えてこない。
発火させないまでも追い込まれているあなたはそこらじゅうにいるのではないのだろうか。

そうだとすれば、そのように追い詰める見知らぬ圧力は誰が生み出しているのだろうか。
それが、もしこの社会全体を国全体を覆いつくそうとしているならば、抵抗するためにはまずその敵をはっきりさせねばなるまい。

しかし、しかしだ。
困ったことにこの相手は、はっきりと見えないのだ。
無関心という名の下に生じるこの手の圧力の主体者は、自分自身でさえ圧力の発信者と自覚していないからだ。

さて、どうする。

それが、この社会の抱えているひとつの大きな問題であり、そのことに楯突いた作品として「仰臥漫録」と「ローマ字日記」がある。(もちろん、そうも読めるという意味での話しなのだが…)

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