2009年4月25日土曜日

グラン・トリノ


「グラン・トリノ」はイーストウッド演じる老人が心を開いていく物語であるというのが一般にされている解釈だし、イーストウッド自身もそう語っている。

しかし、よくよくこの映画を観ていくと、じつは、深く交感される愛の問題が語られているのがわかる。
心が開かれていくのはクリント・イーストウッド演じる老人だけでなく隣に住むモン族の少年タオもまた同じように心開かれていくのだった。

人は心開かぬものだ。

もし、誰かがそんなことはない、わたしは心開く人間だと思っているとしたら、断言してもいい。

そいつは、バカだ。

人が生きていくとき、人は心閉じる方へ向かう。
人は心閉じなければ、自分の心が痛んでしまうからだ。

(もちろん、痛んでしまう心を持ち合わせていなければ話は別だし、いま見渡してみれば多くの人々は痛む心をすでに捨ててきてしまっている。
そうして、その代わりに安らぎを得た。
それはそれでいいだろう。
わたしに何の文句もない)

この映画のすぐれたところは、いまだに痛む心を抱えながら生きている老人と、今後痛む心を持ち続けなければならぬだろう運命を背負っている少年を出合わせたことだ。

老人はすでに生きていくことに興味を失いかけている。

これは特別なことではない。
人はそれほど生きることに執着はしないものなのだ。
執着する何かがあるとき、その何かと向き合っていたいがために人は生に執着する。

この映画の老人にとってその何かは「グラン・トリノ」という一台のクラシックカーであったが、それもどこまで本質的な執着であったかどうか。

で、ともかくある事件を通じて老人と少年は自分たちが隣同士であることを知り、少しずつ相手の中に自分を見出していく。

ある方向から見るとき、「愛」は相手の中に自分を見い出す行為だ。

老人と少年がそれを深めていくためにはいくつかの事件が必要だったのだが、そのシナリオ構成はとても上質なものだった。
その果てに老人は少年の中に自分を見、少年は老人の中に自分を見た。

二人は認め合い、愛したということだ。

奇跡的に、閉ざされていた二人の心が相手の中に自分を見出す。
それがこの映画の描いたものだ。
この部分のすばらしさが、この映画の眼目で、他の部分がこのテーマの足を引っ張らないという決め細やかさにこの映画のストーリー展開のすばらしさがある。

概ね愛を描こうとするときに行われる設定をこの映画は取らなかった。

二組の息子夫婦がいながら孤独でしかない老人と(まあ、親子なんぞはそんなところで、それ以上であればそれはとても幸せなことか、ともに鈍いかのどちらかだ)民族の問題でアメリカに逃げてきたタオ族の少年との間の愛という設定をしたところにこの映画の傑出した美点がある。

ことはいつも単純だ。

この映画は「愛」を描こうとしてそのもっともピュアな部分を描いて見せた。
人が人を愛するときにどうなるかを見せてくれた。

それは一般的には必要とされない「愛」だったろう。

傷ついてきた心と傷ついていく心を持つ特殊な二人の男の間の愛なのだから。

しかし、もともと「愛」とは傷の香りのするものだし、傷つくことを嫌う人間にとってはさほど必要のあるものではない。

というわけで、この「グラン・トリノ」という映画は「愛」を必要とする人間に対しては深い「愛」の映画であり、さほど「愛」を必要としない人にとっては出来のいい老人の物語なのだろう。

そのことは映画の最後、イーストウッドが孫のような少年に「MY FRIEND」と呼びかけるときに集約される。
その呼びかけは人間関係のひとつの極地だ。

それは、日本に帰国した後、ジョン万次郎が自分を育ててくれた船長に対して出した手紙の最初がそうであったようにだ。

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