2010年6月30日水曜日

天やの天丼

天やの天丼500円なり。
たまりません。
これほどのものがありましょうや。

わたしの借金生活は有名で、(誰にですか?)贅沢の極みは天やにある。
小三治を見た帰りは、天やの天丼にサービス券でまいたけ天を乗せる。

ふむふむ。

ところで、諸君、これ以上の幸せがあろうか。

新宿末廣亭には約7時間いた。
腹もすいた。
腹もすいたが、小三治の「転宅」でそれどころではなくなってきた。
その感激を腹に新宿大ガードを越える頃には、腹や頭だけではない。
からだ全体が天やの天丼一色に染まっていた。

天丼を前にして、わたしは、一瞬幸せの中で気を失いそうになったのである。

ラベル:

小三治の芸

この項、さらりと触れるだけとさせてください。
勝手な言い草で申し訳ないのですが、今月はブログをどれくらい書けるかと書いてきましたが、さすがにどっぷりと疲れてきました。
今日は、今月の最後ですが、わたしが一月に書けるブログの量は、このくらいだということがわかりました。

量が質に転化する日はいつ来るのでしょうか。

心静かに待ちながら、文章に携わっていきたく思います。

小三治の芸に接するときに、それは最近の小三治だと思っていただいて結構なのですが、彼の話芸が話すところからそうでないところに移行してきていることを感じる。

つまり、ぺらぺらと言い立てたり、粋なセリフを語ったりではなく、異常なほど長い間を取ったり、表情だけで相手に応えてみたり、おおそらくCDなどからは決して伝わらない表現方法に小三治の表現の粋が凝縮し始めているのを感じるのです。

そう思うとき、しゃべりの部分以外にその噺の核を置く小三治のありようはわたしには傑出しているように感じられるのです。

確かに談志はうまい。(比較して申し訳ないですが…)

たまたま27日の昼席主任の入船亭扇遊は「羽団扇」を高座にかけたのだが、帰るさに聞いていた若き日の談志のCD 「羽団扇」にはとても敵うものではなかった。
かといって、扇遊がダメだったなんてとんでもない。
立派な芸を披露してくれたと思う。
(ひとつ耳障りなくすぐりを入れていたが、それはよしとしよう)
要は、談志の噺の作り、しゃべりの達者さが異色なのである。
小三治と比してもそのしゃべりの華麗さは決して劣るものではない。

けれども、先述のように小三治の芸の本質はしゃべらないことにある。
しゃべらないところに何を生み出すかが、当面の小三治の思いなのである。
そういう演者にしゃべりを真骨頂とする談志が敵うわけはない。

小三治が当代きっての噺家とわたしが押す所以である。

小三治は生に限る。
小三治のしゃべりだけ聞いていたのでは、小三治師匠の半分も堪能したことにはならない。
小三治師匠の旬はこれからだし、それほど長くはない。

悪いことは言わない。
無理にでも寄席に足を運び、小三治師匠に接することをお勧めする。

感じやすい人ならば、涙を流すに違いない。
小三治の芸は、今やその域である。

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2010年6月28日月曜日

寄席という文化

今の時代、聴き手に何かを要求することはない。
落語を初めて聞く客も楽しませなくてはならない。
そこまではいいし、初めての客に楽しいんでもらいたいは、小三治の最も望むところでもある。

けれども、落語という芸にはその先があって、聞き込むことにより楽しみが広がってしまうのである。
つまり、わたしは多くの落語を聞き込んでいるが、わたしが聞く小三治とあなたが聞く小三治は違ってしまうと言っているのだ。
それが、多くの作品における状況であり、落語もその状況を引きずる。

作品は、最終的にはその受容者が決める。

これが、原則であり、受容する者にあった作品しか作品は存在しないのである。
ダメな作品はあるが、同時にあなたがダメだからダメな作品に見えてしまうこともある、というわけだ。
困ったね…

さて、寄席はそのトータルでひとつの作品となっている。
端的に言えば、その日のトリのために寄席は構成されている。
それを踏まえて、前座が語り、色物が混じり、中入りがあり、ヒザ前があり、ヒザ隠しがあって、トリへとつながる。

小三治師匠の場合、何度か通ってみると彼がトリを取るときの寄席の構成が驚くほど酷似しいていることに気づく。
なぜか世津子さんはよく出るし、ヒザ隠しの色物には小円歌さんや和楽社中が多いこと。
そしてヒザ前を、必ずと言っていいほど入船亭船橋師匠がつとめること。

すべて大トリの小三治につなげる心憎い演出である。
その流れが生み出す世界の中で、小三治がどの程度の噺家かわかる仕掛けとなっている。

昨夜の小三治のネタは、「転宅」。
これを聞きながら、わたしは小三治の落語を改めて知った。

思いましたね、わたしは。
いやはや、小三治はいまだに進化し続けている。
その進化し続けている名人、小三治をわたしは聞いているのだ。

深謝。

小三治の落語の姿は次の項に譲ることにする。

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小三治という大人

わたしは、このブログを1000本以上書いているが、そんなものは柳家小三治のひとつの高座でふっとんでしまう。
表現としてそれだけの格の違いがある。

新宿末廣亭に小三治を聴く。

小三治の独演会のチケットはまずもって取れない。
したがって、小三治を聴くなら寄席に限られる。

たまたま席が隣になったお嬢さんは、小三治の大ファンで、チケットの手に入らなさをしきりに嘆いてみせたが、寄席で見ることにこそ小三治の味があるんですよ、と教えたかった。
けれども、おじさんにはその破廉恥さはなく、それは大変だね、と言葉を合わせた。
先日、彼女が行ったという三三の独演会の話に大きく頷いてみせたりした。

こんなお嬢さんが、ファンだなんてこの国も捨てたものではないかもしれない。

小三治は大人である。
この国で大人というと、まずいない。
あなたの会社のことを考えてみればいい。
まず大人はいない。
日々、あなたが会社で腹を立てることは子供である会社の連中、上司のせいか、はたまたあなたが子供であるから生じているはずだ。

こういう場合、大人はどうするのか、そう発問し、大人の解決策を見つければ多くの揉め事は解決されるはずだが、残念ながらそのヒントになる有能な大人が会社に存在することはまれであり、おそらくあなたの会社にはいない。

ここまで書いてしまえば、では、大人ってどういう人かという疑問がわくだろうが、それは会って確かめてみなければわからない。

と言うわけで、わたしは小三治を年に数回聴きにいく。
聴きに行くたびに、ああ、大人はいいなと涙する。

師匠、わたしも少しは大人になったでしょうか、てなもんである。

そういうわけで、小三治を聴くのは独演会よりも寄席のほうがいい話は、次回に譲ることにする。

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2010年6月27日日曜日

人間関係の河

出会って、つき合って、別れる。
出会って、つき合って、つき合い続ける

人間関係の川の流れはこのようなものだろうか。

わたしは、このなかの「つき合い続ける」に怠惰の臭いをかぐ。
本当にその関係を続けていいのかという切迫した思いを欠くつき合いに時として嫌悪感を抱く。
まあ、病気と言っていいと思う。
であるにしてからにして、わたしの人間関係の河は以下のようになる。

出会って、つき合って、別れる、またその人と出会って、つき合って、別れる、またまたその人と出会って、つき合って別れる、またまたまたその人と…

エンドレスである。
その流れの中「別れる」は決定的でなくなっていき、ただ「別れる」の持つ緊迫感だけが関係性の中に残る。
こういう関係をわたしは好むが、この関係性を結べた人間は少ない。
老若男女を分けずに数えれば、…おお、随分の数になるではないか。

わたしが自分を幸せものと思う所以である。

けれどもわたしの歳の数の半分以下と言うことは、3年に一人出会うかどうかということだ。
幸いなことに、今年も武蔵美に出会った。
出会いかけて崩壊した人間関係もあるが、あきらめずに待ち続けてみよう。

昨夜も一人と別れた。
これとはもう何回も別れているが、いつものように最後だと自分に言い聞かせている。
この関係性はどこへ行くのやら。

出会って瞬く間に消滅しかかっている関係性もある。
この関係性だけは、繋ぎとめたく思っている。
関係性への片思いだ。

狂乱の中にわたしがあるのはこの人間関係の河にいるからだろうと思う。
「つき合い続ける」を暗黙裡にそして無批判に認め合う関係性を望むのなら、わたしは除外しなければならない。
恥じらいもなく言ってしまえば、わたしの人を見る目は、

「いつでもキミに恋していたい」

だ。
恋することのできなくなった対象には過激に迫る。

考えてみれば、多くの人が去っていくはずである。
それでも、この流儀を押し通すのは、まだ見ぬキミに出会うためだ。
あそこにいるキミを傍に置きたいからだ。

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2010年6月26日土曜日

リングワ・フランカ

言語運用能力と知的能力はきわめて密接に結びついている。

何かを分析し、論理的に腑分けし、さらにそれらを再構築する作業を緻密に遂行するためには厳格に言語を運用する能力が問われる。
そのことを言っているのだ。
その人の言葉遣いで、どれくらい深く物事を考えているか、おおよそ判断できる所以である。

これとは、一線を画して「英語がしゃべれる」という現象があるということを知っていなければならない。

このブログで強調したいのは、単に「英語がしゃべれる能力」と知的能力を支える「言語運用能力」は、厳格に区別されなければならないということだ。

世に「英語をしゃべれる」人間は頭がいいという迷信がある。
おろかな発想だと思う。

英語をしゃべれる人間の中にも知的能力においてはさまざまな人がいる。
そういう当たり前の事実があるだけで、英語がしゃべれるだけで頭がよくなったりはしない。

念のため書いておくが、知的能力が優れている人間はなかなかいないもので、それは、「頭がいい」とも厳密には違うのだが、ここでは「頭がいい」(巷間流布するところの)を「知的能力がある」と無反省に読みかえている。
さらに、「知的能力」は、まさに能力のひとつで、それに対抗できる能力はさまざまにあることも指摘しておく。
たとえば、羽生の「将棋を指す能力」は、普通人のもつ「知的能力」をはるかに超える。
ここに「知的脳う力」というのは、何かを分析し、それを論理的に腑分けした後に、それらを再構築する能力である。

話がブログの話題を超えて複雑になってきているので、手短にまとめる。
ごめんチャイ。

知的能力の高い人間は英語運用能力が低いことが多い。
(考えていることが英語に変換しにくいからね)
に対して、総じて馬鹿は英語運用能力が高い。
(考えていることが単純でいともたやすく英語に変換できるからだ)

というわけで、社内では英語を公用化した「ユニクロ」「楽天」「日産」の知的能力はかなりこれから危なくなる。
英語をしゃべれるだけでビジネスの世界に船出はできない。
英語をしゃべれるというだけの船は「泥舟」である。
わかっておいでかな、柳井君。

ここでよくよく注意しなければならないのは、英語を話せるのは事務的意図を間違えずに伝達する英語が話せるに過ぎないとしておくことだ。

「リングワ・フランカ」にその種の感覚があるように思えるが、吟味が必要であるだろう。
ただし、事務的事項の伝達に限った言語能力を表す言葉が早急に必要なのは事実で、それを「リングワ・フランカ」で代用することは意味がある。

英語を話す能力をぼんやりと扱っているととんでもないことになる。

この社会に英語が話せるだけの馬鹿は五万といる。
これも念のため書いておくが(心配性になってしまった)、わたしの職場にも英語がしゃべれるだけの馬鹿がいるが、この人の場合は複雑だ。
わたしは、個人的には彼女を単なる馬鹿と考えてはいない。
彼女は優れて悲劇的な人だ。
その悲劇がどのような悲劇であるかを彼女自身が認識し、自分のある状態をはっきりと見つめ直したときに、彼女は大きく変わるはずだと思っている。
けれども、自分の悲劇を見つめるこの作業は大変に困難を極める。
傍についておいてあげたいと思う所以である。
彼女を眺めるとき、悲しみに襲われる所以である。

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2010年6月25日金曜日

「アクセス」からの飛翔

誉田哲也にとって「アクセス」は、ごく初期のもので二作目か三作目かである。
以後の作品に比べれば、幾つかの欠点は目立つが、まあいいだろう。
金を出して買うエンターテイメントのレベルだからあまり気にしないでいい。
最も気になるならば、以下のように答える。

では、「アクセス」は読まなくてもいいだろう。
そんな作品であるが、誉田氏はこれから飛翔するというメルクマールとして読んでおくのは、悪くない。

読まなくていいというのは、単体として見るときセンチメンタリズムに流れすぎているのと「マトリックス」の臭いが作品からしすぎるのが気になるからだ。

まあ、それもこれも読んでみなくてはわからない。
誉田氏を追いかけるなら、仕方ない。
読んでみるか、である。

そして、けどなあ…である。
困った作品である。

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京王線にて

昨日の朝、京王線を新宿へ向かう車内でいい女を見た。
小柄な身体を黒で包むシックなファッション。
知的な横顔。
のぞきこむ携帯画面。
明らかにわたし好みの落ち着いた芯の強そうな女。

次の瞬間、携帯から目を上げた彼女と目があった。
おお、いい女じゃないか…、と同時に戦慄が走った。この女は…

それから新宿駅までの道中の記憶が飛んでいる。
あの女のせいだ。

思い出していた。
オレは、あの女を知っている。

あれは25年前、初めて見たときもいい女だと思った。
ああやって鑑賞するのは何年ぶりだろう。
いまだにきれいなんだ、あいつは。
驚く。
いい女なんだなあ、あいつは今も。
手が届かない女だが…
それもこれもオレの責任なのだが。

とにかく、そうやって美しいままでいてくれ。
自信を持ったまま生きていってくれ。
道はそれぞれ違っているが、またいつか逢おうではないか。
妻という名の女よ。

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デンマーク戦

ワールドカップ、日本に勝機あり。
デンマークは高地トレーニングをしていないという極秘情報あり。
だとすれば、日本に勝利の可能性がわずかに生じる。

大切に試合することである。
絶対負けると言うわけではない。

しっかり応援してほしい。

わたしは眠ることにする。
今、試合は始まったばかりです。

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2010年6月24日木曜日

携帯が携帯でなくなるとき

携帯は電話するもの、メールするものだと思っていたが、どうやら違うらしい。
目覚ましに使っている人の割合を目にしたが、驚くべき数字だった。
携帯は目覚ましでもあったのだ。
おそらく他にもわたしの知らない機能で一般的になっているものもあるのではないだろうか。

そうするとだ、わたしはメール魔であるが、相手の睡眠時には目覚まし時計になっている携帯に向かってメールできないことになる。
メールは電話よりもはがきに近いものではなかったのか。

いやいやそうではない
メールは電話によほど近いものなのである。

早朝メールはやめたほうがいいのかもしれない。
けど、あんなものプロバイダに溜めておけるものだしな。

早朝メールは止められそうにない。
もちろん、やめてしまった人もいるが、それは早朝メールを止めたわけではない。
つき合いをやめたのだ。

わたしは、工夫しない人が嫌いだ。
何とでもなるだろう。
たかがメールのやり取りくらい。

何をたいそうに気色ばんでいるのだ、間抜けが。
そういう奴には早朝メールは行かなくなっている。

というわけで、たまにあなたには早朝メールが届くわけだが、携帯を目覚ましでお使いの方はすぐにでもお知らせください。
当たり前のことだが、その方には以後、早朝メールは送りません。

末永いお付き合いのほどをというわけだ。
わたしも礼儀はよく心得ています。

心無いものにあきれ返るだけのことです。

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野球賭博

相撲界にはいくつも問題がある。
今回は、暴力団との関係が焦点になっている。

もともと興行を打っていた相撲界。
関係があって、不思議はない。
それをこんなに騒いでどうするのだろう。
ヒステリックこの上ない。

この機会に暴力団のこの国における役割を考えてはどうだろう。
思ったより随分深くこの社会に組み込まれている事実に驚愕するだろう。
ダメだから隠すでは、何も変わらない。
大相撲を生贄にして知らん振りする態度をわたしは支持しない。

もともと相撲界などあの程度のものだ。
おかしいと思えば、法的にしっかり取り締まればいい。
その一方で、相撲は相撲で楽しめばいい。

それが、大人の発想と言うものではないか。
この発想のもと細かい部分をどうするか、それが今回話し合うべきところだ。

このガキ社会め!

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2010年6月23日水曜日

誉田哲也という作家


石田衣良「スローグッドバイ」を読んだ。
それと重ねるように誉田哲也の初期作品「アクセス」を読み始める。
石田衣良は丹念に男女の心の機微を描写する。
その定点観測力は信頼に足りる。
その定点観測のもとに広がる彼の小説世界は、自分の心の動きを追ってくれているかのような確かな足音がする。
最近、安心して読める現代作家だと断じて構うまい。
一方、誉田哲也は何者か。
彼は、彼の見知らぬ小説世界に読者を拉致する。
その世界がおどろおどろしい世界かと言えば、そういうことではない。
確かに「アクセス」は、おどろおどろしいいが、そのことは重要ではない。
あの爽やかな「武士道シックスティーン」でさえも拉致された気分は残る。
彼の小説が革命的なところは、見慣れた景色だと信じていたものをまったく違って見せてしまうところにある。
これは才能である。
しかも稀有な才能である。
石田衣良は立派な作家だが、彼が描く世界はあくまでも見知った世界だ。
見知った世界を腑分けして見せて、新たな視点を教えてくれるのだ。
誉田は有無を言わせず読者をストレンジャーにする。
このまま大過なく進めば、誉田哲也は間違いなく大きな作家になる。
皆さんも追いかけてもいいのではないかと自信をもってお勧めする。
そして、彼がダメになったときは皆さんが判断すればいい。
今のところ彼は、奇跡的に秀作を生み出し続けている。
彼の才能に乾杯!

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仙台行きの女性

ようやく仙台行きの女性の機嫌が今朝方直る。
往生しました。

人それぞれに機嫌の直る扉があり、この女性は雨の日に彼女のことを思い遣ると機嫌が直ることが多い。
人って、生き物だからね。

わたしに一人の別の女性がおり、こちらは赤ちゃんのようです。
ちょっとしたことで過剰に反応します。
これはこれで困ることがあるのです。

赤ちゃんだから可愛いかと言うと、そうとばかりは言っていられないのが難しいところで…
まあ、大変ですよ、何にしろ生き物を扱っているのですから。

それにしても、仙台行きの女性の機嫌が直ったことで随分ほっとしました。

どうでもいいことだね、あなたには。
ごめんなさい。
ペコリ

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2010年6月21日月曜日

火事騒ぎ

お湯を沸かしているのを忘れて、いったん会社へ向かう。
あっ、と思いついて急いで自宅に戻る。

台所に火のついたガス台とヤカン。
一杯一杯で生きていると思う。

間違いはどこに出るのか。

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ソフィアに通う娘

1年のアメリカ留学を終えて、今年から大学一年生の長女は、往年の美しさを取り戻しつつある。

娘がもっとも可愛くて、これは世界最強の可愛さだわいと思っていたのは、彼女が小学校5,6年生までであったから、彼女の可愛さからの遠ざかりは10年近くになるのだろう。
その彼女が、徐々に可愛さを取り戻しつつある。
ときどき見かける姿からでも父親だからわかる。

彼女の美は復活の兆しにある。
しかも口元にシニカルな影がある。

あれは、父親譲りだ。
厄介な性格を持ったはずだ。
つき合う男は苦労するぞ。
ま、そのほうがわたしとしては安心だが、最後にはいい男にたどりついてほしい。
いい女がいないように、いやもっとひどく、いい男はいない。
社会の提供するくだらぬ尺度を捨て、自分のメジャーを彼女が獲得することがあるのだろうか。

その頃までには、少しは彼女と話せる父親になっていたいものだ。
いやいや、父親としてでなくていい、彼女と話せるようになっていたいものだ。

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2010年6月20日日曜日

甘い生活

「甘い生活」は、このときに出合わなければならないものとしてわたしの前に現れた。
肝心なものの出現は、いつも忽然と生じる。

出合わなければならなかった本。
出合わなければならなかった絵画。
出合わなければならなかった風景。

思い返せば、みんなそうだ。

そして、出会わなければならなかったおまえ。

もし、その出会いが完遂することなく終わったならば、それはおまえがわたしにとって取るに足らない人間だったことを意味する。
しかし、嘆くことはない。
もし、本当におまえが必要な人ならば、時と場所を変えてもう一度出会うはずだから。
そのときは、お互いにゆめゆめ見逃すまいぞ。

「甘い生活」の乱雑な映像の放置は、物語の放棄であり、映画を作る意志そのものが映画を汚していくことに対する直感的理解である。
故に、この映画は安直な解釈を拒む仕掛けになっており、この映画を受け取るにはそのまま受け取る以外に方法はない。

この映画において必要なものは、しようとする意味化の軽薄さを理解することだ。
というわけで、これ以上「甘い生活」をこのブログでは述べない。
また、どこかで誰かのこの映画の解釈を読んでも鼻でせせら笑えばいい。

いいか、それがこの映画を受け取るということだ。

石原吉郎ならそう吐くかもしれない。

ところで、もうひとつ大切なことを語っておきたい。
(といっても、わたしにとって大切なことなのだが。)

この映画はわたしにとって素晴らしかった。
いくつもの身につまされることを教えてくれた。
何人かの大切な人に改めてこの映画の中で出会った。
そのなかには、わたしもいた。
わたしが、ある人に繰り返ししている行為がこの映画で再現された。

それらを含め、わたしにとってこの映画は大切な作品となった。

あらゆることは個別的に出会う。
そのことを改めて知った。

ラベル:

無防備な人

他者に対して完全に無防備になることは恐ろしいことだから、早々無防備なんぞになれない。
(いつ攻撃されるかわからないものね。)
けれども、わたしはなるべく無防備で相対そうではないかとする。

斬りたければ斬れという類の踏み込みである。
これは、恐ろしいらしい。
と同時にいったん経験すると病みつきになる。
これが、どうやら「本気の味」であるらしい。
また、わたしから遠ざかりたくなる動機らしい。

暗にわたしは相手に無防備を要求する。
仲間だから心配するなと丸腰で近づくらしい。
それで、大丈夫な人はどうやらそう多くはない。

めちゃくちゃなことをやっていると言っていいのではないか。

「あなたはめちゃくちゃだから」とあいつが言っていたのはこのことか。
今頃になって、はたと膝をたたいた。
で、どうするかと言えば、今までのままだ。
幾分違うとすれば、今までは当たり前と思っていた無防備につき合える人をひどく大事にし始めることだろうか。

思えば、わたしは丸腰でつき合える人を随分多く持っている。
わたしのこの世にある幸せである。
この場を借りて深謝する。

ラベル:

実体経済の復活

いま、わたしたちが必要なものとはなんだろうか。
食料と衣料か。
あ、医療もか。

みなさんが、ご自身で考えてみられるといい。

食料に「王将」があり、衣料に「ユニクロ」があり、医療に「介護産業」がある。
実体経済として残っているのは驚くほどわずかである。
あとは、パソコンの中でデータとして売買されている。
こちらのほうは、どう考えても必需品ではない。

さて、どう売るか?

これが、現在の経済問題の一面だ。
エコという付加価値をつければどうかな。
新しい市場を探そうではないか。
中国か、インドか、東南アジアか、アフリカか…
食糧危機を起こさせて食料を売ってやろうか。
そのためには農地を確保せねばな。
ウクライナの農地確保合戦はそのように起きた。

ま、行き詰っているわけだ。
わたしは、この国の生きる道は優れた「ホスピタリティ」の提供にあると思っているが、政治家は本気では考えてくれない。

あろうことか、いまだに実体経済の復活を画策している。
この国にあのレベルの実体経済の需要は再度登場しない。
それくらいの認識は持たなければならないだろう。
たとえ、一瞬持ち直したとしてもいずれは当たらなければならない高い壁、実体経済の崩壊である。

なんともお気楽なことを政治家先生がほざいているものだから、その任でもないのにここに記さざるを得なくなった。

朝から書くことじゃないぜ、ったく。 

ラベル:

2010年6月19日土曜日

知ってしまった困惑

知らないでいることは実に心地よい。

知らないということを荒っぽく言えば、他の可能性に目をつぶると言うことだ。
大きく言えば、日米安全保障条約に頼る以外にこの国の平和は維持できないと信じることが出来る。会社で言えば、自分たちのやってきたこと、やっていこうとしていることは正しいと妄想できる。
この女以外には自分にいないとたわけたことを思う。

これらすべてを知ることはくつがえしていく。
逆に知らないでいることは、他の選択肢を知らないでいるのだから悩むことはない。
しかも、自分の主張を恥知らずにも大声で叫ぶことも出来る。
だって、本当に正しいと思っているのだから。
なんとも迷惑な。

に対して、知ることはあらゆることを不安に落とし込む。
それを
「知ってしまった不安」
と呼ぶ。

雲峰先生、ちゃんと説明できずに悪かったね。

で、問題だ。
そういう不安を呼び込むことを知っていながら、何故に知ろうとするのか。

この答えは難しいが、結論だけは知っている。、
それは、

「知りたかったから」

なのです。

ふむふむ、業ですな、それは。

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女はわからない

昨夜、仙台に行く彼女とけんかする。
彼女の嫌いな店に行ったことが原因だ。
けれどもすでに書いたように東大門に住む娘はわたしがどうのこうの出来るような女性ではない。
また、出来るとしても「触れもせで」である。

どう考えても嫉妬の対象になるはずもない。
何を怒っているかさっぱりわからない。
謝るのも癪なので、そのまま別れた。

けど、なんだ。
仙台に行く前には仲直りをせねばならんのだろうな。

こういう種類の動物に興味を持ったのが間違いだった。
この手の動物はわけがわからない。

そのくせ心を読まなければ読まないで、すねるわけだからたちが悪い。
一番いいのは、触らぬことだ。

せいぜい気をつけなさるがいい、と爺が申しておりました。

ラベル:

久々にあの店

わたしが、とき折ある場所にに立ち寄るのは、ある美しい娘がいるからである。
この娘は、この町きっての美人だが、それを知る人は少ない。
ほぼゼロではないかとわたしは思っている。

理由は、驚くほど馬鹿らしい。
彼女の着ている制服による。
それに履物が雪駄のようなぞうりであることによる。
水仕事で少し荒れた手のひらと甲による。

で、それがどうした。
この娘の輝くような美しさはどうだ。

わたしの美しさはごく主観的なものだが、この娘に関しては違う。
ご覧になればいい。
まさしくこの町で一番。
離れて美しい女だ。

ただし、その精神内容は知らない。
それもいいのではなかろうか。
あの店のスタッフとの掛け合いを見ていると、そう思う。

この店のスタッフの仲はいい。
そういうこともこの店に来る理由のひとつだが、なにより彼女の美しさが際立っている。

彼女は韓国人だが、韓国人の美しさはこういうものなのだろうか。
生活の匂いがまとわりつくが、その相乗効果のように美しさが屹立する。

なぜに彼女の美しさに人は気づかないのだろう。
たぶん、着飾っていない一事によるのだろう。
そんなもんだ、人の美を見極める力なんぞは。

けれども考えてみるがいい。
彼女が着飾ればどうなると思う。

少なくともわたしは卒倒すると思う。

ラベル:

2010年6月18日金曜日

はなればなれに

ゴダールの作品である。
「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」をつなぐ作品と書けば、思い出す人もいるかもしれない。

あいも変わらずゴダールの観客への不親切ぶり。
気ままに、面白いと自分たちが思ったものを目前に並べて見せる。

それでいいのだと思う。

プロパガンダに過ぎないハリウッド映画は、
予定調和の日本映画は、
なるほど座り具合はとてもいいだろう。
けど、それが、どうしたと聞きたくなる。

ぼくたちの生きている現実は、きわめて座り心地が悪い。
予定調和などとんでもない。
いたるところで破綻している。
すべては思いつきで成り立っている。

この映画に唐突に入るナレーションは、われわれの人生に無理やり入れ込もうとする無様な人生解釈のようでもある。
で、楽しかったかと言われれば、楽しかったようだと答えるしかない。

「ようだ」?

なんだ、「ようだ」とは?

仕方がないんだ。
万年寝不足のわたしは、「はなればなれに」が上映されていた間中、そのほとんど眠りこけていたんだから。
だって、21時15分のレイトショーで見たんだし、この映画の見方としては半分寝ているくらいがちょうどいいではないか。
ジャン・リュック・ゴダールもそれで怒るほど間抜けでもあるまい。

ラベル:

大量メール投下

わたしのように無名で、相手にとってわけもなく大量のメールを送っていると、相手の反応によりはっきりと相手がどのようにわたしを大事にしているのかわかってしまう。
わたしのことなどゴウとも思っていない連中は実によそよそしい。
で、こっちもそのように相対し始める。

大事にしてくれない連中は、その程度の扱いでかまわない。
わたしだとて、誰も彼もを愛しながらは生きていけないのだ。

そのくせ、そういう連中はsocial statusにからきし弱い。
立派な生きかただこと。

わたしは、そういう浮世のしがらみを乗り越えてわたしのような無頼とつき合ってくれる人々を愛す。
そして、わたしとつき合ってくれるその人々をよく見てみれば、面白いことにかく言うわたしが、実にsocial statusに弱いのだ。
笑ってしまう。

列挙してみれば、
名編集者、名のある小説家、漫画家、流行のエコ暖房器具製造会社の社長、有名医院の事務局長、大学教授、…。
まあ、わたしもそうなってしかるべき学歴(social statusなんざその程度のものだ)だからこの結果なのかもしれないが、振り返れば肩身が狭い。

随分、手前勝手な生き方をしてきた。
迷惑をかけた人は数知れない。
家族は、唖然としている。

親しい人は口をそろえたように言う。

「しょうがないなあ」

そうでない人は、怯えて後ずさり始める。
このようにわたしはつき合う人を淘汰している。

その結果の武蔵美なのである。
感謝しています。
いつも言うように。

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2010年6月17日木曜日

続・わたしから逃げ出した人々

もちろん、わたしと長くつき合う必要はないから直前のブログは、めめしきものであるのは否定しようがない。
それをあえて掲載したのは、それを知ったうえでも人は自分を正当化して別れを演出するものだということを強く示したかったからである。

ある種の人間は自己否定的で自分が悪いとすぐに思いたがる。
その性癖は現状ではない次へのステップも産み出すが、同時に常に罪意識も産み出す。
わたしは、その罪意識を嫌ってあのブログを書いてしまった。
あなたも罪意識を持たなくていいと語ってみたかった。

人は、自分の嗜好に過ぎないことも、わたしが嫌っているのをなぜあなたはわからないのと大きく振りかざしてくる。

そして、いまわたしが気になるあなたは、「あ、そうなの。ゴメンネ」とすぐに謝りたくなる。
けど、謝んなくていいと思うよ、あなたは。
それは相手の嗜好にしか過ぎないもの。
落とし所なんて話し合えばいくらでもころがっているよ、きっと。

出来ないのは、相手の幼児性による。
そう考えてしまっていいと思うよ。

たいていのことに正統性はない。
正当性もね。
多くは、嗜好に過ぎない。
あるいは、慣習に過ぎない。

それには立ち向かっていいと思う。
あなたは少数派だろうけれどわたしはあなたを強く支持する。

わたしは、空気を読めないあなたが好きだ。

先のブログはそういった意味もこめて、激しく攻撃した。
メールの数が多いこと、朝早くメールすること。
それは、奇異な行動だと思う。
けれども、その奇異な行動をするわたしと付き合うのならその奇異な行動をたしなめたらいいのではないか。
そのたしなめの底に愛情を敷いたらいいのではないか。

そういった思い遣りをこの国は失してしまった。
空気が読めないなんて平気で言う。

言ってしまおうか。
空気など読めなくていい。
自分が自分として生きるとき、空気なんぞクソ食らえだ。
あなたはそのまま好きに生きていればいい。
あなたの自由気ままさに嫌気がさしたら、相手がそれはきついとそのたび言えばいいだけのことだ。
あなたもそのたび考えて、やり方を変えたりそのままでいたりすればいいだけのことだ。

もともと人と人が付き合うのはそういった煩雑さの上に成り立っていた。

「しょうがないねえ、あなたは」

わたしなんぞは、若いのから始終そんな小言をもらっている。
ただ、そう言う相手の顔には心の奥から漂ってくる笑顔が張り付いている。
その顔を見てわたしは言う。

「悪いねえ。駄々っ子で。」

年齢なんて関係ないんだ。
キミがわたしの傍で生きているのはごく自然なことなんだよ。
生きているのが奇跡なんてことはないさ。
今までキミが迷惑かけてもいいよと言ってくれる人に出会わなかったことが、哀しい奇跡だったんだよ。

人と人がつき合う。
必ず迷惑は生じる。
願わくば、その迷惑を受け入れる気概でつき合ってほしい。

この意味で、先のブログの過激さをわたしは今も主張する。
泣き寝入りしている、わたしの愛する人たちのために。

わたしは、そんなあなたが好きだよ。

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2010年6月16日水曜日

わたしから逃げ出した人々

わたしから逃げ出した人たちがいる。
一人は、わたしの朝が早すぎると言い、一人はわたしのメールが頻繁すぎると言った。
噴飯ものである。

わたしは、あなたたちのような人を多く知っている。
あなたたちはわたしの生の声を聞きたくないだけだ。
そうであればそう言えばいい。

わたしに向かって、こういうのだ。

「あなたは、鬱陶しい」

そうすれば、なるほどとわたしは思う。
ナニ、初めてのことではない。
そんなことは頻繁に起こる。
いざとなれば、相手の内部を遠慮会釈なく抉るわたしの決意と言葉の端々は、とてもいやなものに感じられるのだろう。
だとすれば、わたしにどこか遠くへ行けという主張はきわめて穏当な判断だと思う。

けれども自分を正当化してもらいたくはない。
わたしを必要とする人は、早起きにもかかわらず、メールの多さにもかかわらずつき合おうとしてくれる。
おそらく、わたしが誠実だからだと思う。
わたしにはそれしかない。

あなたたちがわたしから離れるのは自由だ。
それがあなたたちの人生だ。
けれどもそれを正当化しないでもらいたい。

あなたたちは、わたしを嫌いだから去るのだ。
あなたたちはわたしがあなたたちの人生にまで誠実であろうとすることが鬱陶しいのだ。
それは、あなたたちが自分の人生に向き合うことをやめているからだと思う。

あなたは、そうやってそこに死んだように生きていればいい。
それを「生き続ける」と人は呼ばない。
「生きた振りをしている死人」と呼ぶ。

願わくば、今後の生き方でわたしの今の認識を覆してほしい。
そのときは、あなたの生き方に拍手を送ろう。
わたしとわたしの仲間からの拍手だ。
逃げ去った人間の素晴らしさへの拍手だ。

われわれはそのくらいには優しい。
われわれは、われわれの正当性を君たちのように高らかに述べはしない。
その代わりこうつぶやく。

君たちが、心の底から嫌いだ。
吐き気がする。

過激だね、武蔵美のキミ。
だめだよって叱ってね。

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習慣である読書

人の多くの行為は、習慣によって成り立っている。
そう考えていいだろう。
だから、初期設定をしっかりしなければ、無様な生活に終始してしまうことになるのは不思議なことではない。

あんな生活をしてなどと顔をしかめて見せるのをわたしは好きではない。
人間観察に関して幼稚だからである。

人は簡単に習慣に毒される。

わたしが、このところ読書時間が極端に短いのも仕事をしているという愚にもつかない理由を正当と感じ、その理由に逃げ込んでしまっているからだ。
早晩大きなしっぺ返しがくる。

そのしっぺ返しとは、この生活が習慣化されて読書がわたしの人生からいともたやすく放擲されそうであることを言っている。

わたしの読書もまた習慣である。
逃さぬように大切に習慣を形成し続けなければ、読書を楽しむことはできない。
このところ、読書時間の少なさに危機感を覚えている。

それは教養主義の…とかいう議論はせずに、いまはただ読書がしたい自分の胸のうちにある欲求のひたむきさがどれくらいなのかを確かめる作業をしたく思う。

きわめて奇妙な結論なのだが、そのためには、まず読書をしなければならないのだ。
笑ってしまうな。
読書時間が少ないと感じることが、読書の習慣をわが身に引き戻すということ、つまり、読書の復権となっているのだ。
このロジックでは。

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朝の散歩

朝の散歩の際、ipodは使用しない。
ipodは、外界を強引に遮断し自己内に世界を形成してしまうのに効果的だが、その分生きている世界そのものとの交流を捨ててしまうところがある。
内なる閉じた系を保持するための器械なのだと思う。

ipodは、もちろん多くのときに助けになるだろうが、同様に自然の匂いや風や音も十分にわたしを励ましてくれる。
だから、散歩のときにipodは使用しない。

そのわたしが見るに、耳に人工的な音を送り込みながら歩いたり、ジョギングしたりする人の数は多い。
あれは、大なり小なり外界との遮断を意味するもので、わたしの歩く玉川上水べりで耳に人口の音を送り込む動作は少し違和感がある。

もっとも、そう感じるわたしと彼らの間に大きな溝があり、彼らはわたしの知らぬ恐ろしさからああやって逃げているのかもしれない。
ただ、あの行為を自然を味わう感性の欠如と意味づけないほうがいいような気もしている。

早朝、自然の音を聞きながら歩くというのは、気持ちのいいものなのだけれど…。

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2010年6月15日火曜日

書くことにアディクトされて

間違いなくわたしは書くことに中毒症状だ。
何か書いていないと落ち着かないことがある。

願わくば、それが垂れ流しでないことを願う。

そんなわたしのメールを受け止めてくれる何人かがいることに感謝します。
そうでない人はどこかへ去ってしまってほしい気分です。
そんなことは直接本人には言えませんが、安穏として生きたいのなら過激に生きる人間に近寄るのはやめたほうがいい。

ここでは、ままごと遊びは通用しない。
これでもイノチガケです。
なにしろ、今年の初めに自殺を試みた人間です。

無防備にちゃらちゃらつき合っていられるわけはない。
ときどき、能天気な反応に吐き気がすることもあります。

まあ、翻ってみればわたしにはすでに狂気が入り込んでいるのでしょう。

ところで、武蔵美のFさん。
わたしに、狂気が感じられますか。
その長い首の先に乗ったあなたのまぶしいお顔と冷徹な頭脳でお答えください。

いやはや、朝からひどいブログです。

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2010年6月13日日曜日

抱擁のかけら

金曜の夜から、あいつに引っ張りまわされておっさんはへとへとになってしまっていたけど、それでも「抱擁のかけら」を見に出かけた。
なんてったって、わたしは下高井戸シネマ会員だし、ペネロペのディープファンだから。
で、この映画のペネロペは最高にきれかった。

ペドロ・アルモドバル監督とペネロペ・クルスか。
とにかく、この映画のペネロペは美しく愛を語っている。

実は、この映画を見てわたしが今何を求めているかもわかってしまったのだ。

見てよかったよ。
頑張って下高井戸まで歩いて。

このラヴシーン、最高だった。
ああ、人間って優れて獣だったのね、てなもんです。
この映画のペネロペ、いいよな。
嘆息って言うの、こういうの。
なんかを嘆いちゃうんだよね。

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医師ゼンメルワイスの悲劇

この本を読むとは思わなかったぜ。
第一、この本の存在自体知らなかったわけだから。
写真は医師ゼンメルワイスです。
この人、知っておいたほうがいい人です。

この本は、例の武蔵美から教えられた。
この本の作者が武蔵美のおじいちゃんなんだって。
読んでみてわかったよ、武蔵美の品というか首の長い理由(うん? 関係ないか)。

この講談社の著者紹介を読むとおじいちゃん、ずいぶん立派な方なんだよ。
三重県出身でさ。(オレ、出身地だけ同じでやんの、ガクッ)

なんか、武蔵美に随分えらっそうなこと言ってたな。
あいつ、ニコニコ聞いていたけど、何思っていたかわからないぞ。
今日だって今から銀座に服買いに行くってメール入っていたけど、オレなんか下北沢の古着屋連れてったもんな。
あいつ、「ちょっと」とか言って、首をかしげて笑ってたけど、何考えてたかわかんないぞ。

いやんなって来たな、オレ。
もう、武蔵美と会うの、イヤだ。

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金曜の夜の電話

金曜の夜に電話がかかってきて、翻弄されてしまった。

相手は、まあプロだから仕方ないし、金を借りていることもあって、会うだけ会うかとでかけたが、朝までつき合わされた。
結構きつかった。
酒を飲まなかったのが救いだったが、土曜日は使い物にならず、寝ながら本を読んでいた。
休養したわけだから、それでいいのだが。

昔、なまじ親しくしていたものだから、何かと言うと相談されるが、仙台に行くからといって相談されてもな。
オレにわかるわけないじゃん。

仕方なく朝までお守りをしたというわけです。
まあ、楽しくもあったわけです、少しくらいは。
疲れたけど。

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口蹄疫

また伝染が広がっているようで、大変なことです。

あの口蹄疫について、人間に感染するという情報が出ていないので気になっています。
報道では、口蹄疫はひとにはうつらないとなっていますが、うそです。
人に感染するのですが、発症しないのです。

同じではないですよ。
うつるんだから、人間を媒介して口蹄疫は広がるんですよ。

人が媒介になるということは前提にしているんだろうか気になります。
予防が、ぜんぜん変わってしまいますからね。

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2010年6月11日金曜日

AKB48総選挙

この企画には英知が裏にある。
まず「ポニーテールとシュシュ」の売り上げを伸ばすごく現実的な効果。
けれども、この仕掛けの奥は深い。

何をファンは求めているかがここに分析しつくされている。
そのなかには、わたしが恋愛を分析しているうちにたまたまめぐり合った秘密裡の事実もあり、それがすでに利用されている。

いまは長く書けないが、ヒントだけ述べれば、ファンの求めるものは空間である。
恋愛を生じさせるものも空間である。
その空間をAKB48総選挙は見事に作り上げた。
そして、その空間を作り上げていく途中にいくつもの金儲けを達した。

音楽業界の連中でこのことをわかっているのはどれくらいいるのか。
この本質的な内容をわかっているのはまずいない。

わたしはそう思う。
この業界に人材はいない。

その中にあって、秋本康は傑出しているのである。

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たるとこ先生

たるとこ先生とはどういう人かと問われれば、上の写真のような人なのだが、この人の朝食勉強会にお邪魔した。

たるとこ伸二さんのお話を伺いながら、この商売は男を売る商売なんだと実感する。
たるとこさんは実に男っぷりがよろしい。
この精神性ならば、さらに大きく育っていくことだろう。
この世界に限らず、要はそういうことかもしれない。

つまらぬ奴がいて、たまたまそいつが小さな権力を握っていて、その周りを痴呆のような女たちが囲む。
どの組織にもありがちな風景だ。
そこでは、男っぷりなど問題にはされない。

男っぷりは、感じるのに難しい感覚的なものだから受け手に力が要る。
女子どもには難しい。
それで、たるとこ先生も苦労される。
女子どもはぎゃあぎゃあ騒いでいるだけで、何も見ていない。
近くでやられると、笑い出したくもなる。
女子どもと言ったって、結構な大人がそれをやる。

それが、この国の真の姿だ。
この国に大人はいない。(と言ってしまっていいだろう)

そういう中で、久しぶりに大人を見た。

たるとこ先生、いい男っぷりでした。
充実の大人でした。

力になりたいと、ふと思いました。
(政治信条を吟味することなしにです。)

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それはそれでいいのだが…

何を隠そう、わたしは攻撃的で相手をぶち壊しにかかることがある。
それを知って、幾人かの女たちは心底わたしを嫌っている。

「あの人に近づいたら壊されてしまうから」

事実何人かは壊してしまった。
いまは、丸くなったから壊すことはあまりしないが、それでも壊しにかかることはある。
女性はそのにおいを嗅ぎ取り、職場でも毛嫌いされる。
致し方ないことだ。

まあ、いまや爺になったわたしはその全貌を出さぬよう努力しているわけだ。
全貌を出すのは、ほんの少数に対してだけで、その人たちには感謝のしようがない。

けど、なんでだろうね。
人を壊して面白くもないのにこう激してしまうのは。
ある人は酒のせいだと言うが、これはからっきし間違っている。

わたしが相手をぶち壊しにかかるときは、すでに身体の中がプチプチと切れ始めているのがわかる。
いやな気分だ。
酒は関係ない。
そういうときは我慢して自分を押し隠す。
そういうわたしの姿をわたし自身だと思う人もいるが、幸せものである。
人はそう単純ではない。

わたしはなんにしろ女性が苦手だ。
勘の鋭い女性は、わたしの正体を見抜き、すごい目で睨んできたりする。
まさにそれが正解だ。
わたしはどこかに化け物を飼っている。

まあ、それはそれでいいのだが…、日常生活で困ることは多々である。

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新宿思いで横丁


新宿思いで横丁にはずいぶん通ったことがある。
「すし辰」「埼玉屋」「ささもと」「若月」「カブト」「朝勃」「岐阜屋」…
いまでも、上記の店なら顔がきく。
自慢にもならないが、気散じにはなる、と書けば怒り出す店主の顔が浮かぶ。
昨夜はちょいとうまい「もつやき」を食いに「ささもと」に寄る。
ここの「もつやき」は有名だ。
「もつやき」と言っても、まず煮ることから始まる。
店頭近くにドンと構える大鍋にもつを刺した串が沈むとそこからどうするかの話になる。
いやいや、もっと正確に言えば、大鍋につける前に刺身で食べる串もある。
「生でくれ」
と声をかければ、皿に乗せて出てくる。
客はたいていそれをねぎしょうゆで食す。
また、大鍋に沈んだ串はそのまま煮ただけで食べてしまうものもあるが、多くはある程度煮たら(串によって時間が違うのだが)焼きに回る。
そして食す。(もちろん、焼きだけのものもある。牛刺しになりそうな牛肉などは軽く炙って提供される。美味なり。)
昨夜の出色は「ミョウガのベーコン巻き」。
こいつはうまかった。
興に乗って食ったが、もともと肉である。
かなりの脂が今も体に入ったと感じる。
これは身体に悪いワイ。
今朝は歩くことにしている。
この日、ここの親父と面白い話をした。
焼き場の火をこのごろはとても強くしないとダメだというのだ。
備長炭をいじりながら(彼は目立てみたいなものだと言っていた。いい表現だ。)、若いときは注意がまわりに行き届いたが、いまは散漫になる。その散漫になった注意を火の強さでもう一度喚起するのだと言っていた。
「ささもと」の親父はなかなかの表現者だ。
黙って聞いていると、いくつものことを教えてくれる。
特徴は、すべてもつ焼きの話を中心にしているということだ。
羽生の話が将棋を中心にするようなものだろう。
この日もついつい食いすぎて、串は10本を超えた。
どうもいけない。
身体に悪いものはうまくて困るのだ。

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2010年6月10日木曜日

恋愛論の中核をなすもの

わたしの恋愛論の中核のひとつは洗脳の解き方である。

誰かを好きになるのは、間違いなく洗脳である。
だから、永遠に続く好きはないし、簡単に好きが解けることもない。
特に、実際に相手と付き合っていなければ洗脳を解くのは難しい。

洗脳は相手に対する幻滅が必要だから、つき合っていなくては解けることはない。
また、解けるためには、長くつき合い、徹底的に幻滅する必要がある。
幻滅は、心底感じなければ意味がないのだ。
(このあたりテクニカルです)
ふらふらした恋愛では、しっかりした幻滅は訪れない。
幻滅もふらふらしているからね。

あほな女をだましやすい所以だ。

目の前のコップは割ればその存在がなくなるが、恋愛はそうではない。
恋愛における洗脳を解く道はひとつしかない。
叩き壊すことのできない恋愛では、その恋愛自身を他の恋愛で劣化させるしかないのである。
平たく言えば、別の誰かを好きになりなさいだ。
そうすれば、洗脳は必ず解ける。
ただし、その好きは、本当に好きでなくてはならない。

この本当に好きが難しいい。
このあたりのことはわたしの恋愛論に詳しい。

さて、本当に誰か他の人を好きになれば、いままで好きだった人が、何この男ということになる。
あるいは、何この女ということになる。
そして、世の中のたいていの男女は、「何! この男」であり、「何! この女」なのである。

いい人と恋愛してほしい。

わたしはといえば、それほど恋愛はしない。
恋愛はしないが、今日画期的な人とのつき合いが始まった。
詳しくは語れないが、ちょっと有名な男である。
そして何よりかっこいい。
いやあ、俺が見た中で一番かっこいいかもしれない。

そんでもって、うれしい。
かなり、うれしい。

この幸せ、突如訪れた。
神はわたしを見捨てなかったと思う。

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2010年6月9日水曜日

ipodの素晴らしさ

贅沢は「敵だ」を「素敵だ」に書き換えたセンス、気軽に捨ててはならない。

ipodは、まったく持って素敵だ。
今日の帰りはエンヤを聴いてきた。
帰り道が変わった。
朝はモーツァルトの弦楽四重奏。
わたしの生活がすっかり変わった。

昨日の朝は、ブランデンブルク協奏曲。
帰りは六代目円生の「五人廻し」。
もうこれだけで十分だと思ってしまうわたし。

でもまあ、これだけ本も読んでいないわけだし、まったくなっていないんだろうな今のわたしは。

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可能性を愛していたのかな

一昨日、娘の姿を見てどきりとした。
長い間なかった感覚です。

わたしの娘は、幼いころ飛び切りキュートだった。
神様の粋な贈り物としてキャピキャピとそこらじゅう跳ね回っていた。
その姿が消えて長い。

どうしてその姿が消えてしまったかの論考はわたしの手にあるが、それをここでは発表しない。
哀しい論考過ぎるので、イヤだ。

さて、あれから10年。
娘に何があったかはわからないが、娘は美しくなり始めている。
おそらく、何も変わっておらず、ただあらゆることを乗り越えて娘の美しさの鎌首がもたげ始めたのだろう。
娘の顔には、不敵な笑みが張り付いていた。

まるで、黒田三郎の「賭け」のようにだ。

そのとき不意にわたしを襲った感情は清冽だった。
わたしは目の前の娘を愛せなかったかもしれないが、娘の可能性を愛し続けてはいたのかもしれない。
こんなにも,
娘の美しさの萌芽に出会って、どきどきする。

同じようなことが、別のケースにも当てはめられる。
わたしの愛はどんなに幻滅する姿にも敗れ去りはしないのだ。
なぜならわたしはキミの可能性を信じているからだ。
いまのキミがどんなに巧言令色でもわたしは微動だにもしない。
そんなものはどうでもいいのだ。
わたしはキミの可能性を信じているからだ。
その堕落しきった姿を超えていつの日かキミがまた、わが娘と同じように鮮烈に現れることを期待する。

もし、永遠にその鮮烈な出会いをわたしが持つことがなくても、そのことは心配するな。
目の前の風見鶏のごとき薄汚れたキミの姿を超えて、わたしはキミの可能性を愛し続ける。
それが、わたしの愛だ。

キミはいつだってわたしの元に戻ってきていいのだ。
わたしはわたしの愛の矜持に賭けてそう宣言する。

わたしの愛は十分に強靭で美しい。
わたしもまたわたしの愛に包まれていたいと思う。

また、戻ってこいと真剣に思えるようになったわたし。

わたしの長女は彼女の美しさに導かれて新しい船出を果たす。

幸せが絶え間なく、これほどまでにと驚くほど彼女に降り注ぎ続けることを願う。

ああ、もちろんキミにもだ、心配するな。

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埼玉屋なり

久しぶりに思い出横丁の「埼玉屋」をのぞく。
酒も飲まずに、店長の野谷さんと可愛くて恐ろしいYちゃんと三人でよしなし事を話す。

その際、飲んでもいないのにYちゃんと今度いっしょに飲む約束をする。
彼女の心の奥に何が住んでいるか、わたしは知っている。
それが、わたしは十分怖い。

それでも彼女と飲むのか。

彼女は、まだ女優を目指していると言って泣くのだろうか。
わたしは、なんと言えばいいのだろうか。

やはり、飲みたくはないな。

ほんとのことを言えば、この娘は、苦手だ。
苦手であるのだが、美しい娘だ。
そこが悩ましい。

あ~あ。

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2010年6月8日火曜日

丑三つ時に考えること

昨日の早朝散歩が響いたのだろう。
身体のなかの疲労と呼応して、いつの間にか眠りこけてしまった。
さっき起きたときには、一瞬、わたしがどこで眠ったのか、どういうふうに眠ってしまったのかわからなかった。

最近は、身体のなかに眠気を飼っているようで、不意に眠りについてしまうことがある。
眠りに対する意識が少しずつ変わっていくのを感じる。

不意に歌舞伎町を舞台にしたあの小説の構想が首をもたげた。
何人かに約束したあの小説を書き始めなければと思う。
確かに大変だが、仕事仕事に明け暮れていては駄目だ。
初台では、小説のことも気にし始めなければ…

昨日は名編集者、西岡さんから今月中に会うお約束をいただいた。
わたしは常日頃、若者だけをいつも評価しているようにここに書いているのだが、実のところは、限りなく信頼を置く何人かのメンターのごとき先輩たちに助けられることが多い。

本質的なことを書けば、彼ら先輩の存在が確かだから、若者、特に女性にうつつを抜かすことがあっても大丈夫なのであって、そのことを抜かしてあなたが若い人にうつつを抜かしているとしたら、それはそれで大変なことになってしまうかもしれない。

ふと考えただけで、小説家の塩見さん、編集者の西岡さん、渡部さん、米田さん、哲学者の鶴見さん、経済学者の塩沢さん、…あげ立ててみれば綺羅星のごとく先輩たちが怖い目を光らせている。

わたしをとんでもない遊び人のように感じておられる方が、このブログを読むなかには多いのだろうが、いやいや、わたしには前述の頭の上がらぬ人々がいて、遊び人から程遠い人間なのです。

その一方で、わたしの若い娘好きには、母親が20年前に亡くなってしまったことが大きく影を落としているかもしれないと思ったりもする。
それが、若い娘に目が行く遠因になっているのかもしれない。
(若ければ、誰でもいいわけではないですよ。
 若くて美しくて知的な人です。
 えらくレベルが高いではないかとお思いかもしれないが、それがそうではない。
 若くて美しくて知的な人というのは、とてもふらふらしていて仲良しになってくれるものなのです。
 それが、若くて美しくてアホであったりすると、とたんにわたしには歯が立たなくなる。
 若くて美しくてアホな女は冷酷だからねえ…)

わたしは、マザコンであり、若い娘コンなのである。

母親の記憶の焦点は、真夏の名古屋動物園。
水玉のパラソルに明るい日傘を差し、幼いぼくの手をとって砂利道で笑っている。
いまでも、わたしの胸の奥にはあの母親の笑顔がいつまでも彼女の上にあることを願っている感情が鬱勃としてある。
それが悪さをして、わたしは不意に情緒が不安定になってしまうことがある。
そんなとき、目の前の若くて美しくて知的な娘に母親の影を重ねてしまったりする。

「キミは何も知らないねえ」

と語るとき、はっきりと若くて美しい母親の影が目前の娘の顔にある。
美しかった母親に合わせて、そのとき娘はとても美しいことが常だ。

あらあら、小説のことやら母親のことやら考えているうちに変なところにたどり着いた。

あと一言だけ費やせば、その若くて美しくて知的な女性はわたしの目前ではあの若い母親であり、交感の伴わない長女であり、そして見知らぬ娘そのものなのである。
ちょっとした分析だけでも娘は三つの顔を持ってしまう。

わたしが変態であるゆえんである。
トホホ…
思ってみれば、丑三つ時ではないか。

ラベル:

2010年6月7日月曜日

ipod


いやはやすさまじい道具だ。
その中に聴きたい音楽が豪快に入っていく。
わたしの聞きたいのは、クラシックだ。
したがって、わたしのipodにはクラシックがひしめいている。
それと落語。(音楽か!? 音楽だろう)
このところの朝は、わたしの好きなヴァイオリン協奏曲がいつもわたしの耳元に流れている。
贅沢な朝の時間だ。
確かな感触がある。
そりゃあ、たいていの音よりシベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調がいいに決まっている。
しかも今入っているのは、パールマンだ。
完璧だろう。
怖いのは、ダヴィッド・オイストラフだが、それも隠れているCDが出てくれば、すぐにわたしのipodに入ることになる。
確かに幸せにはなったが、なんだか違うという気もする。
けれども今日は幸せのままでいい。
理屈は、また明日以降だ。
いまは、眠すぎる。
このままここで眠りたいぐらいだ。

ラベル:

おはようございます

このブログで朝の挨拶をする気になったのは、右腰の筋肉痛が取れて、朝の散歩に出かけられるうれしさからだ。
キミは、今も走っているのかな。

朝の空気のなか、肉体を動かしながら山の空気を吸い込むことは素敵なことだ。
山の気もキミの身体の深奥に入ってくるはずだ。
その気を大事にすることが、朝のキミに課せられた課題です。
その気を都会の空気の中で汚してはならない。
それが、自分への礼儀だと思います。

まだ見ぬ若き友人よ。
きょうも幸せに。

わたしの朝の散歩は、遠く長い。
誰か一人にでも素敵な挨拶ができれば幸せだ。

そのひとは、たいていは初老の婦人だ。
男はダメなことがほとんど。

彼らは社会に十分に汚されている。

わたしはどうか?

朝から考えることじゃないな。
武蔵美のFに叱られてしまうではないか。

さわやかに、さわやかに。

これがわたしの今日一日の課題です。

ラベル:

2010年6月6日日曜日

休日は若者と

わたしの場合は、基本的に若者であれば手当たりしだいだ。
もちろん、見ただけで、こいつは…というのはごめんこうむるが…

本日も「ヤマダ電機」の美貴ちゃんと「AOKI」の愛ちゃんと「東京電力」の名前を交換しなかった30歳の若者と交感した。
若者と話すのは楽しい。
次の約束をするとぞくぞくする。
上記の愛ちゃんは21歳で都庁の彼氏と結婚間近だから、二人で話し合ってつき合うのは止めにしたが、22歳の美貴ちゃんとはこちらから連絡するところまでいっている。
美貴ちゃんは新入社員で不安がいっぱいなのだ。
東京電力の若者は、こちらも結婚間近で何かあれば連絡してくることになっている。

まあ、ここまで行けば病気と同じだが、わたしは若いというだけでほっとけない。
しかも、若者と話している限り、圧倒的にいい奴に会える打率が高い。

おじんやおばんは、はっきり言って糞です。
最低と何回言っても足りることはない。
自分をすでに決定しており、決定したその姿から変えようとはしない。
あまりの知能の低さに目がくらんでしまう。

そのくせ、こちらに対しての批判は一人前にするが、批判になっていないほど程度は低い。
生きる価値はないと言ってもいいだろう。

若者は何も出来上がってないだけ、自分を変える恐ろしさを知らない。
この若者もあの醜悪なおじんやおばんになっていくかと思えば、ついつい声をかけてしまう。
何とか愉快に生きてくれと願う。

うん、やはり変態だ。
それもかなり深みにはまった。

それでも、愛(マナ)の幸せと美貴の幸せを願う。
キミたちは幸せになる権利がある。

そうだ、なにより十分に若いではないか。
誇りを持ちたまえ、その若さに。
若さだけで十分誇れることを知悉しなさい。

あとは、慎重に幸せを手繰り寄せればいいだけだ。
詰まらん奴らのいうことは聞いてはいけないよ。
耳が腐るぞ。

元気でいてください。
一瞬の今日の出会いに。

ラベル:

のんびりしようと思っていたのだが…

初台からお呼びがかかった。
いまから出かけなければならない。
それから新宿へというコースだろう。
休日は休日で大変だ。
部屋を使っている手前、勝手は言えない。
サービスできるときにサービスしなければ。

ところで、さっきのブログの自己変革だが、わたしも自己変革の人である。
わたしの場合は、人間関係を変えることで自己変革をなしている。

つまり、古いままの人間関係は捨て、新しき人と関係を結ぶ。

もし、あなたが自己変革を夢見るのなら、この方法はお勧めする。
いつまでも旧態依然とした人間関係を守ってはならない。
変わらぬ奴といつまでもつき合うのは無駄だ。
そういう奴は、変わろうとするあなたに否定的になる。

わたしはそういう立場のあなたにささやく。
いいですか、あんな奴らに批判されてもうろたえてはいけませんよ。
あの人たちは自分のいまの存在を否定できないから変わろうとするあなたの変化がまぶしいのですよ。
下らん連中です。
無理してつき合うことはありません。
わたしとつき合えばいい。

変わろうとするあなたのまぶしさが、わたしの宝です。
ではでは。

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自己変革

自己変革を夢見ている少女を知っている。
自己変革を夢見てはいるが、やっていることは正反対なことばかりだ。
幼いから仕方がないと思っているが、幼いのは精神年齢のことだけで実年齢を考えれば暗澹とする。
大丈夫かい、ねえ、と聞いてはみるが、答えはいたって明るい。
要するに、明るくて可愛いバカなのである。

本人には聞く耳がないので直接話してもしかたないが、大事なことなので惜しいと思い、ここに記すことにした。

自己変革をしようと思っても何から変えていいかはわからない。
たぶん、自分の精神を変えなければならない。
そんなふうに思ったりするのだろう。

けれどもそれでは難しすぎる。
そういうところから変えようと思ってはならない。
まず形を変えるのだ。
形を変えれば、必ず内部も変わる。

それが多くの人が知らない秘密だ。

だからキミの場合は、髪形を変えなさい。
その髪型ではだめだ。
それからファッションを工夫しなさい。
そうすればかなり変わる。

さらに欲を言えば、昼休みの過ごし方を変えなさい。

生活も変えなさい。
週のうち半分は都心で過ごしなさい。
安いマンションを借りてしまえばいい。

外経絡を変えてしまえば、必ず内経絡も変わる。
東洋医学を学べば、キミにだって簡単にわかることだ。

それに何よりキミは飛びぬけての美人だ。
美人が美人であるように気高く振舞えばいい。
キミが美人であることを強調すれば、その美しさがキミを変えてくれる。
キミの美がキミを導いてくれる。
美人の特権だね。

しかる後にキミはキミの美しさを放棄すればいい。
ここまでできれば上等だが、一人では難しい。
で、わたしが必要というわけだ。

キミはわたしがボランティアか何かと思うかもしれないが、そうでもない。
わたしにも大きなメリットがある。

妙な話だからにわかに信じられないだろうが、キミの顔には傷がある。
その傷は上戸と同じ場所の同じ傷だ。
わたしはそれがいとおしいい。
なるべくその傷の近くにいたい。

そして、一度だけその傷に直に触りたい。
それがキミを美人に仕立て上げ、キミに自己変革を起こさせたときにわたしが得る報酬だ。
限りなく価値があり、限りなく変態だ。

けれども、そんなところに傷を持つ美人にはめったに出会えない。
わたしがキミに執着するゆえんだ。
そうでなければ、百年も前にキミを捨てていた。

妙な話だが、人が人を好きでいるのはそんな理由で十分なのだ。
あまり面倒な由は要らない。

つまり、好きだから好きなのである。

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AKB48 前田敦子


AKB48には仕事上の興味しかないが、この子の名前だけはよ~く知っている。

何しろ、わたしが小さいころよ~くお世話になった鳥取県米子市に住む前田のおばさんと同姓同名だからだ。しかし、前田のおばさんがこんな人気者になっているとは。確かもうお歳は80歳になると思うのだが…

おばさん、お元気でしたか?

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下北沢のパン屋

映画の後、いっしょに下北沢に向かう。
二人で古着屋をのぞく。
Fの好みはうるさい。
わたしのみ購入。


その後、素敵なパン屋を発見。
Fと同じ嗜好に笑いあう。


そのパン屋にて。

二人でいくつかのパンを買っているときにおじさん乱入。
有無を言わさず二人の隣に陣取り、みそパンなるものをトレイに乗せ始める。
その勢いすさまじし。

1個、2個、…、瞬く間に5個。
勢いは止まらず10個、15個と数える。
さらにトレイから落ちそうになるも止まらず。
20個、30個…そんなものだろうか。

問答無用のプロパガンダ。


躊躇なくわれわれもみそパンをトレイに乗せる。

「いやああの勢いでみそパンを買われたらねえ…」
二人で笑う。


「あのように好きだって何度も言われたいねえ」
二人で笑う。


「あれが一番だね。みそパンがうまいってこんなにはっきりとわかってしまったものねえ」
二人で笑う。


アンゼリカという手作りパンの店なり。
下北沢へ行ったときにはぜひ入ってみるといい。

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突然炎のごとく


すばらしき映画なり。
劇映画では、久々の感動。
トリュフォー先生に敬意を表する。
トリュフォー先生はとても嫌がるだろう。
そんなことならワイン一本でもいっしょに飲まないか?
そうおっしゃると思う。

この映画のスピードに喜ぶ。
説明のなさに喜ぶ。
恋愛の捉え方の一致に喜ぶ。
失礼ながら、わたしもこの映画のカトリーヌのように恋愛を思う。

ジャンヌ・モローの魅力に喜ぶ。
もし、ジャンヌ・モローの横に飛び切りの美人をおけば、飛び切りの美人はその美しさの分だけジャンヌ・モローに劣る。
ジャンヌ・モローは美しさがあるとき欠点になることを教えてくれた。

さて、この映画ではセリフがとても特殊な効果を出していたが、説明するとこの映画の世界が壊れるのでここでは深くしない。
ただ、この映画ではセリフもまた映像のように扱われているとだけしておく。

最後にいっしょに見てくれた武蔵美のFに感謝する。 

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40000件

いま、40000件のヒットを得たところです。
こんな勝手なブログをのべ40000人の人が見てくださった。
うれしさの極地です。

生きていけます。

ありがとうございました。

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昨夜、名古屋に電話する

昨夜、書の雲峰先生に電話する。
例によって例のごとく思う存分に話す。
幸せなり。

わたしに過ぎた幸せあり。
書の雲峰先生と武蔵美のF。

ともに思いのたけ(こういうときに使わないかな)をあらんかぎり語れる。
これがなければ、わたしは生きていかれないだろうと思う。

他の人にこんなふうに何もかも語っていたら、相手がつぶれてしまうだろう。
お二人はよく耐えて忍んでくださっている。
改めて、感謝を述べておきたい。

もうひとり当てがあるのだけれどもそれを期待するのはむずかしいかもしれない。
だから、勝手にそうなれればいいと思っている。
要するに妄想だ。

すべて語り、すべて聞くはわたしの理想なれど、遠く遥かにある。

ぼちぼち進んでいきます。

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2010年6月5日土曜日

すっかり頼ってしまって

驚くほど多くの人の世話になって生きているわたしのことがこのブログには書かれているけれど、そうでなければ生きていられない男の記録として読んでおいてほしい。

世話してもらえるのはわたしの幸せだが、おそらくそのときそのとき目の前にいる人を飛びっきり愛しているからだと思う。
わたしの目の前にいる限りはこの世界で最も愛されている女だと思っていい、そう語りかけることさえある。(男にだって、そう語りかけてもいいんだけど、怖がって逃げ出したりするといけないからね)

残念ながらわたしの愛の保証はわたしの傍からいなくなれば途切れてしまうのだ。
ごめんなさい。

さて、このところ初台に仕事ごと転がり込んでいるわたしは、自宅の部屋を省みるとがほとんどなかった。
いま久しぶりに見ていると、ひどいとは言わないまでも心地よく仕事ができる状態ではない。
(仕事場として必要ないからね)

今日明日の「フランス映画を見にいこう」のイベントは変えるわけにはいかないが、後は部屋の整理をがんばってやろうと思う。
間にケーキを買って、初台にも挨拶に行かねばなるまい。
たたき出されたら大事だ。

とにかく、いま、自分の部屋を整理しようという心の余裕があることに感謝しよう。

夜が明けてしまった。

今日は、ご機嫌をとらないといけない人が二人いる。
大変だ。

映画館で眠ると思うが、つねられそうだな。

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おじいちゃんが書いた本

ぼくのつき合う若者の一人におじいちゃんが本を書く人だった青年がいる。

その青年からおじいちゃんの話を聞くのが好きです。
子どものころの青年の印象の中では穏やかなおじいちゃんが、おじいちゃんの本の中では熱き男になる話を聞くのが好きだ。

青年がそんなおじいちゃんと話がしてみたかったと話すときに、ぼくは陰で涙することがある。
ぼくだって生きていていいのだと涙することがある。

そのとき、ぼくは愛してやまない息子や娘を思っている。
焦ることはないと言い聞かし続けている。
たった一冊の満足のいく本だけを残していけばいいんだと天を仰ぐ。

あらゆるぼくの悪行を超えて、ぼくの真心が彼らに届く夢を空に見ている。

ぼくが、ときとして異常なくらいに若い娘や青年を愛するのは、こんなにも近くにいて出会うことのできない娘と息子への触れられないくらいの熱さからなる愛情のせいだと思う。

そうでなければあんなに上戸が好きなわけはないし、こんなにキミがいとしいわけはない。

たとえば、一人の若い娘を思い、深夜涙する光景は犯罪でさえもある。
けれども、ぼくにはそうしなければならないはっきりした事情があって、こうまでキミを放っておけずにいるのだ。

変態のい一種だと、何度も自嘲する。

そういうことは心の奥に隠して、今日も今日とて若い娘と古いフランス映画を見に出かける。
本当はキミと見たかったのだと激しい心の震えが訪れず、デートする娘に幸せが降り注ぐことを願っている。

週末の早朝から感極まってしまったぼく。
笑い出してしまいそうだ。

ああ、そうだ。
このブログ、キミも読むんだね。

キミとぼくの隠しきれない公然の秘密、奇妙なおじさんとだけ思ってくれればいいな。

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2010年6月4日金曜日

わたしの腎臓

昨日からわたしの左の腎臓あたりが痛い。

長い間、酒で過度の働きを要求したせいだろう。
しばらく休ませてあげれば、楽になると思う。
鈍痛が続けば、虎ノ門病院か。

病院は、イヤだイヤだ。
だれかに付き添ってもらうつもりなり。

わがままを言って、甘えるつもりなり。

思うに人には迷惑をかけるのがよい。
それが、生きている醍醐味だと思うよ。

甘えられる人を作る努力をしましょうね。

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昨夜の飲み会

昨夜は塩見鮮一郎さん主催の飲み会に出席。

みんなが酒を飲む中で、グレープフルーツジュースとウーロン茶でお腹、パンパン。
こんな飲み方も様になってきた。

大晦日は許されるならば、キミと二人だけで飲もうと思っている。
そうなるためには、腎臓と副腎の異常が血液検査でクリアされなければならない。

この願い、神様は受け止めてくださるのだろうか。

ラベル:

そのように過ぎ去りしもの

「きみを愛している」とあなたは言った
「待って」とわたしは言った
「わたしを抱いて」とわたしは言おうとした
「もう用はない」とあなたは言った

週末はフランス映画を二本見る約束をした。
古いヌーベルバーグです。

冒頭は恋の哀しいやり取りです。
抱きしめておくときに抱きしめておかないと、するりと幸せは逃げ去る。
恋は当事者二人に笑いを残して、軽やかに過ぎ去っていく。

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2010年6月3日木曜日

孫先生

昨夜は新宿で孫先生とお会いして、つき合っている女性の長男の就職相談をした。

中国社会は何よりコネクションなのです。
強力なコネクションをお持ちの孫先生ならばと思ったのでしたが、まずは大学にいかせなさいということだった。

大学に行かせるのはいいが、学費の算段がな。
彼女も決して金があるわけでもないし。

また、今夜あたり彼女と相談です。

この夏を期しいている「恋愛論」を何とかものにしなければ…。
そういう気分です。

さすれば、わずかばかりの金が入ってくる。
女房にも顔が立ち、あの青年の将来も助けることができる。

生きるって、大変ね。
こんなとき、しみじみ思ったりする。

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2010年6月2日水曜日

小沢の大将

見事なもんだね、小沢一郎。
なるほど、ここで鳩山辞任か。

これからの筋書きも決めてあるんだろうけど、素人には見えないね。

けれど、考えているよ、必ず。
見ていると面白いよ。

これを政局という。

軽薄なマスコミでは追いきれまい。

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いまどきの若者

ここには千度書いているので熟知されているだろうが、わたしの周りには素敵な青年と素敵な娘さんがいる。
それは、わたしの宝ですし、そのことがわたしの人生を豊かにしてくれています。

けれども、そのような若者に出会うのはとても難しいことです。

たまにこの若者はと思っても、どうしようもない干からびた精神を持つ娘さんだったり、妙な自己の矜持にこだわる青年だったりする。
それでは、使い物にならないし、わたしの周りの素敵な若者たちと出会わせるわけにはいかない。

そんなもんいらんわい、とおっしゃるだろうが、煎じ詰めれば人生は出会いの集積である。
大切にしてほしいと思う。

出会いを見過ごしてしまえば、一生出会えなくなってしまう人もいる。
それでは、まずい人もいる。

昨夜書いた「牛の鈴音」をいっしょに見た娘は、3年前の知人の花見の席で話しかけたのが最初だった。
そのときに、シャガールか何かの話をしながら、花見の席を離れて二人で散歩したのを覚えている。
いまでは、彼女と会えなければ、わたしの人生はなかったとさえ思っている。

もちろん、清いつき合いだし、わたしにエロいオヤジの発想はない。
そういう気分でいたら、はなから若者とは話せない。
心の底から真実を尽くす。
それだけである。

若者は、本気に弱い。
本気に好きになれば、相手が真摯に生きている限り反応してくれる。

器用に立ち回ろうとしたり、自分を磨こうと思っていない奴は反応しない。
そういう場合、わたしはそのまま野垂れ死んでしまえと思う。

もちろん、実際に野垂れ死ぬことはない。
けれども、たいていの場合は空虚な人生が待っているだけだ。
それでは、もったいないだろうとわたしは思う。

いつまでたっても、わたしと昨夜の娘のような逢瀬はない。

人生が一度しかないことを知っているのだろうか。
嘆息することもある。

ラベル:

マスコミはこういうことだけは早い


左の写真はニュースになったスマトラの少年のものではないが、こんな感じではある。
この前、本ブログで取り上げたスマトラの少年が、早くも日テレで取り上げられた。
とにかく衝撃的な動画である。
マスコミはこういうことだけには機敏に動く。
けれども、動画が衝撃的なだけで、ニュースとしての肉付けは難しい。
そういうわけで、取り上げただけの格好になっていたが、それでも視聴率が上がるだろうから強引に押し込んできた。
あざといね、マスコミは。
ちゃんと、発信される動画をチェックする人がいるのかな。
なんだかなあ…、のマスコミでした。

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小沢一郎の表情

今朝のワイドショーでは鳩山総理との話し合いの後、退席する小沢さんの表情を問題にしていたが、なんとも幼稚であった。
あの表情は二つの解釈をしなければいけない。

小沢一郎のことである。
自分がどのような表情をすればマスコミはどう捉えるか承知の上のことである。
だから、あの表情は、小沢さんが演技の上のものか、演技をしようにもできずついつい出てしまったものかを場合わけで考えなければならない。

ついつい出てしまったものならワイドショーの分析はほぼ当たっている。
もしそうでなかったら(この可能性はきわめて高い)、別の解釈を考えねばならない。

マスコミの諸君は、まったくわかっていないようだ。
それとも、わたしの分析では視聴率が取れないと考えたからだろうか。
そうだとしたら、マスコミもしたたかだ。

実のところは判断できないが、ちょっと見たところでは、幼稚な分析だった。
人は、わざと怒って見せたり、渋い顔を作って見せたりする。

あなたがしないからといって、誰もがしないとは限らないのである。
事実、わたしのような小者でも、腹も立っていないときに腹が立ったようにしてみせることもある。
有能な青年に本意ない迷惑をかけてしまうことがあるので、心苦しいのだが…。

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牛の鈴音

キミの希望でこの映画のことを書き綴ることにします。
ほんとうは、今度の土曜日、下北沢でのデートで話せばよいのですが、どうやらそういう映画ではないみたいなのでキミが言ったように、いっしょに見た映画を、帰った直後、こうやってブログに起こすのです。

キミには、この映画はどう見えましたか。
とてもつまらない映画ではなかったのかと心配して何度かキミの顔をうかがいましたが、ラストの場面で少し涙していたのを見て、何か感じたのだなと思い、ほほえましかったです。

ほほえましいなどと書けば、また大げさににらみつけますか。
わたしは、キミににらみつけられるたび、しっかり付き合うことのできなかった、今でも付き合えぬ長女を思い、ふと胸がきゅんとなります。
でもこのごろは、キミが娘みたいなもので、それはそれでいいと思っています。
もちろん、ときどきは恋人のようにキミを思いますし、愛人のようにも思います。
妻のようには思えません。
あなたは、軽やかだから。

あなたが、「牛の鈴音」のことをあれこれと考えなければいいのにと思っています。
あなたは、とても勘の鋭い子だから黙って映画の印象を胸の中にしまってくれたかもしれませんね。
それが、この映画の扱い方です。

わたしもそうしました。

この映画は一頭の牛の思い出の映像です。
思い出が、人の中にどのように残るのかと聞かれれば、この映画のように残るのです。

「亡くなっても、ぼくたちの心の中に生きているんだ」

なんて叫ぶ連中にどれくらいの切実感があるのでしょうか。

思い出は、物語としてではなく、物語とはかけ離れてこの映画のように心の中にあるのです。
だから、キミには考えないでいてくれとお願いするのです。

わたしの中のキミもこの映画のようにさまざまな姿を現します。
そうやって、わたしの意志とは関係なく、キミはわたしの中に住んでいるのです。

現実があって思い出があるなんてとんでもない。
まさに渾然一体。

おじいさんが、夢うつつの表情をしたのはとってつけたものではありません。
いまここにいないものとともに存在するとき、人は呆けたような顔をするものです。
誰かと一緒に生きているというのは、まさに現実とはかけ離れた世界にいることと同義です。

さて、思いつきを書いているだけでこの映画の感想は先に進みませんが、「牛の鈴音」は思い出の姿をそのまま表した映画で、この映画のようにあなたも思い出が持てるようになればいいなと思い、わたしは見終わりました。(急転直下だね。笑わないでよ。)

それで、こうやってブログを起こしながら思うのですが、考えるという作業を何かを見て身体に取り入れる途中過程に入れると見たものがそのまま自分の中に入ってきません。

絵を描くことが好きなキミが知りたがったわたしの屋久島での体験、風景がそのまま身体の中に入ってくる状態というのは、あの映画の牛の姿のようなものです。
あの牛の映像にはつまらぬ説明をつけていなかったでしょう。
説明が、牛の姿を捉えることを邪魔するからですよ。

キミが絵を描くとき、対象をそのまま見たほうがいいかもしれないね、と言ったのはその意味です。
絵を描かないわたしの発言をキミはとても気にして、それはどういうことなのか何度も聞いていましたが、あのときは、わたしもしっかりと把握していなかったから、それを伝えることができませんでした。

たぶん、キミは今夜、この映画でわかったのではないでしょうか。
この映画で、キミが涙したのは理屈の涙ではありません。
そのままの牛の思い出が、キミの絵の才能に触れたのだと思います。

こんなところで書くのもおかしいですが、ブログはわたしの私物でもありますから書いてしまいますが、キミがしばらくわたしに絵の話をしないことが気になっています。

キミは絵を描いていますか。
キミが彼氏の話をとつとつとするのはこのごろよくあるけれど、あまり絵の話はしませんね。

絵の話って、誰かの描いた絵じゃないよ、キミの描く絵の話だよ。
この前も何とかというヴァイオリニストのことをうれしそうに話していたけれど、キミが絵を描く話は聞きませんでした。
もっとも、キミのあの忙しさの中で絵なんて描けないのでしょうけど、それでも描いていたほうがいいと思うよ。
彼氏だけでは、あなたには足りないかもしれないし、それをいつまでもわたしが補うわけにもいかない。
絵がキミのそばに寄り添ってくれると思うよ。

とても素敵な映画を今夜キミと眺められたことを幸せに思います。
いまどき、恐ろしいくらい説明のなかった映画だったね。

韓国で大ヒットのドキュメンタリーだけど、日本ではどうかな。
この国は説明をいっぱいほしがるから。

この国は、幼稚な人が多すぎるよ。
いつものことなんだけど、見てると頭痛くなるよ。

キミがたまに会ってくれて、わたしはとても幸せです。

ありがとう。
おやすみなさい。

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2010年6月1日火曜日

順位戦始まる

わたしが順位戦と書けば将棋の「A級順位戦」である。

本日は「久保 対 藤井」。

この1年間、応援するのは、渡辺明。
この男と名人羽生の名人戦を眺めてみたい。
けれども、渡辺明という男。
竜王戦以外ではめっぽう弱い。

そこが、応援者の気持ちをくすぐる。

キミと同じだね。

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心が揺れるとき

生きていれば、心が揺れるときもある。
揺れるときには揺れたと思えばいい。
それが唯一の道だとわたしはしている。

わたしはしているとは、そうでない処理の仕方もあるということだ。
心の揺れる状態を悪い状態とすれば、揺れない状態にするための方策を練る。
でも、わたしは「心の揺れる」あなたを大切にしようという立場だ。

そういうロマンティストは続けて語る。
「心の揺れる」あなたをそのまま何も言わず受け入れる場所があるといいね。
受け入れる場所は、受け入れる場所である人というケースが多い。

あなたが、そういう場所を意識して持っていなければ、心が揺れるときには、よろしくない何ものかに迎合しいてしまいそうになる。
たとえば、組織だとかさ。

あなたがあなたであるためには工夫がいる。
別に、あなたが弱くて、すぐにふらふらして、強いものにはすぐになびいてしまいそうになってもいいんだよ。
そういうあなたをあほだなあと笑ってくれる人を持っていれば、すむことなんだと思うよ。
そういう人たちからなる場所を持っていればすむことなんだと思うよ。

あなたは、その場所に帰っていけばいい。

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