2010年6月9日水曜日

可能性を愛していたのかな

一昨日、娘の姿を見てどきりとした。
長い間なかった感覚です。

わたしの娘は、幼いころ飛び切りキュートだった。
神様の粋な贈り物としてキャピキャピとそこらじゅう跳ね回っていた。
その姿が消えて長い。

どうしてその姿が消えてしまったかの論考はわたしの手にあるが、それをここでは発表しない。
哀しい論考過ぎるので、イヤだ。

さて、あれから10年。
娘に何があったかはわからないが、娘は美しくなり始めている。
おそらく、何も変わっておらず、ただあらゆることを乗り越えて娘の美しさの鎌首がもたげ始めたのだろう。
娘の顔には、不敵な笑みが張り付いていた。

まるで、黒田三郎の「賭け」のようにだ。

そのとき不意にわたしを襲った感情は清冽だった。
わたしは目の前の娘を愛せなかったかもしれないが、娘の可能性を愛し続けてはいたのかもしれない。
こんなにも,
娘の美しさの萌芽に出会って、どきどきする。

同じようなことが、別のケースにも当てはめられる。
わたしの愛はどんなに幻滅する姿にも敗れ去りはしないのだ。
なぜならわたしはキミの可能性を信じているからだ。
いまのキミがどんなに巧言令色でもわたしは微動だにもしない。
そんなものはどうでもいいのだ。
わたしはキミの可能性を信じているからだ。
その堕落しきった姿を超えていつの日かキミがまた、わが娘と同じように鮮烈に現れることを期待する。

もし、永遠にその鮮烈な出会いをわたしが持つことがなくても、そのことは心配するな。
目の前の風見鶏のごとき薄汚れたキミの姿を超えて、わたしはキミの可能性を愛し続ける。
それが、わたしの愛だ。

キミはいつだってわたしの元に戻ってきていいのだ。
わたしはわたしの愛の矜持に賭けてそう宣言する。

わたしの愛は十分に強靭で美しい。
わたしもまたわたしの愛に包まれていたいと思う。

また、戻ってこいと真剣に思えるようになったわたし。

わたしの長女は彼女の美しさに導かれて新しい船出を果たす。

幸せが絶え間なく、これほどまでにと驚くほど彼女に降り注ぎ続けることを願う。

ああ、もちろんキミにもだ、心配するな。

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