丑三つ時に考えること
昨日の早朝散歩が響いたのだろう。
身体のなかの疲労と呼応して、いつの間にか眠りこけてしまった。
さっき起きたときには、一瞬、わたしがどこで眠ったのか、どういうふうに眠ってしまったのかわからなかった。
最近は、身体のなかに眠気を飼っているようで、不意に眠りについてしまうことがある。
眠りに対する意識が少しずつ変わっていくのを感じる。
不意に歌舞伎町を舞台にしたあの小説の構想が首をもたげた。
何人かに約束したあの小説を書き始めなければと思う。
確かに大変だが、仕事仕事に明け暮れていては駄目だ。
初台では、小説のことも気にし始めなければ…
昨日は名編集者、西岡さんから今月中に会うお約束をいただいた。
わたしは常日頃、若者だけをいつも評価しているようにここに書いているのだが、実のところは、限りなく信頼を置く何人かのメンターのごとき先輩たちに助けられることが多い。
本質的なことを書けば、彼ら先輩の存在が確かだから、若者、特に女性にうつつを抜かすことがあっても大丈夫なのであって、そのことを抜かしてあなたが若い人にうつつを抜かしているとしたら、それはそれで大変なことになってしまうかもしれない。
ふと考えただけで、小説家の塩見さん、編集者の西岡さん、渡部さん、米田さん、哲学者の鶴見さん、経済学者の塩沢さん、…あげ立ててみれば綺羅星のごとく先輩たちが怖い目を光らせている。
わたしをとんでもない遊び人のように感じておられる方が、このブログを読むなかには多いのだろうが、いやいや、わたしには前述の頭の上がらぬ人々がいて、遊び人から程遠い人間なのです。
その一方で、わたしの若い娘好きには、母親が20年前に亡くなってしまったことが大きく影を落としているかもしれないと思ったりもする。
それが、若い娘に目が行く遠因になっているのかもしれない。
(若ければ、誰でもいいわけではないですよ。
若くて美しくて知的な人です。
えらくレベルが高いではないかとお思いかもしれないが、それがそうではない。
若くて美しくて知的な人というのは、とてもふらふらしていて仲良しになってくれるものなのです。
それが、若くて美しくてアホであったりすると、とたんにわたしには歯が立たなくなる。
若くて美しくてアホな女は冷酷だからねえ…)
わたしは、マザコンであり、若い娘コンなのである。
母親の記憶の焦点は、真夏の名古屋動物園。
水玉のパラソルに明るい日傘を差し、幼いぼくの手をとって砂利道で笑っている。
いまでも、わたしの胸の奥にはあの母親の笑顔がいつまでも彼女の上にあることを願っている感情が鬱勃としてある。
それが悪さをして、わたしは不意に情緒が不安定になってしまうことがある。
そんなとき、目の前の若くて美しくて知的な娘に母親の影を重ねてしまったりする。
「キミは何も知らないねえ」
と語るとき、はっきりと若くて美しい母親の影が目前の娘の顔にある。
美しかった母親に合わせて、そのとき娘はとても美しいことが常だ。
あらあら、小説のことやら母親のことやら考えているうちに変なところにたどり着いた。
あと一言だけ費やせば、その若くて美しくて知的な女性はわたしの目前ではあの若い母親であり、交感の伴わない長女であり、そして見知らぬ娘そのものなのである。
ちょっとした分析だけでも娘は三つの顔を持ってしまう。
わたしが変態であるゆえんである。
トホホ…
思ってみれば、丑三つ時ではないか。
身体のなかの疲労と呼応して、いつの間にか眠りこけてしまった。
さっき起きたときには、一瞬、わたしがどこで眠ったのか、どういうふうに眠ってしまったのかわからなかった。
最近は、身体のなかに眠気を飼っているようで、不意に眠りについてしまうことがある。
眠りに対する意識が少しずつ変わっていくのを感じる。
不意に歌舞伎町を舞台にしたあの小説の構想が首をもたげた。
何人かに約束したあの小説を書き始めなければと思う。
確かに大変だが、仕事仕事に明け暮れていては駄目だ。
初台では、小説のことも気にし始めなければ…
昨日は名編集者、西岡さんから今月中に会うお約束をいただいた。
わたしは常日頃、若者だけをいつも評価しているようにここに書いているのだが、実のところは、限りなく信頼を置く何人かのメンターのごとき先輩たちに助けられることが多い。
本質的なことを書けば、彼ら先輩の存在が確かだから、若者、特に女性にうつつを抜かすことがあっても大丈夫なのであって、そのことを抜かしてあなたが若い人にうつつを抜かしているとしたら、それはそれで大変なことになってしまうかもしれない。
ふと考えただけで、小説家の塩見さん、編集者の西岡さん、渡部さん、米田さん、哲学者の鶴見さん、経済学者の塩沢さん、…あげ立ててみれば綺羅星のごとく先輩たちが怖い目を光らせている。
わたしをとんでもない遊び人のように感じておられる方が、このブログを読むなかには多いのだろうが、いやいや、わたしには前述の頭の上がらぬ人々がいて、遊び人から程遠い人間なのです。
その一方で、わたしの若い娘好きには、母親が20年前に亡くなってしまったことが大きく影を落としているかもしれないと思ったりもする。
それが、若い娘に目が行く遠因になっているのかもしれない。
(若ければ、誰でもいいわけではないですよ。
若くて美しくて知的な人です。
えらくレベルが高いではないかとお思いかもしれないが、それがそうではない。
若くて美しくて知的な人というのは、とてもふらふらしていて仲良しになってくれるものなのです。
それが、若くて美しくてアホであったりすると、とたんにわたしには歯が立たなくなる。
若くて美しくてアホな女は冷酷だからねえ…)
わたしは、マザコンであり、若い娘コンなのである。
母親の記憶の焦点は、真夏の名古屋動物園。
水玉のパラソルに明るい日傘を差し、幼いぼくの手をとって砂利道で笑っている。
いまでも、わたしの胸の奥にはあの母親の笑顔がいつまでも彼女の上にあることを願っている感情が鬱勃としてある。
それが悪さをして、わたしは不意に情緒が不安定になってしまうことがある。
そんなとき、目の前の若くて美しくて知的な娘に母親の影を重ねてしまったりする。
「キミは何も知らないねえ」
と語るとき、はっきりと若くて美しい母親の影が目前の娘の顔にある。
美しかった母親に合わせて、そのとき娘はとても美しいことが常だ。
あらあら、小説のことやら母親のことやら考えているうちに変なところにたどり着いた。
あと一言だけ費やせば、その若くて美しくて知的な女性はわたしの目前ではあの若い母親であり、交感の伴わない長女であり、そして見知らぬ娘そのものなのである。
ちょっとした分析だけでも娘は三つの顔を持ってしまう。
わたしが変態であるゆえんである。
トホホ…
思ってみれば、丑三つ時ではないか。
ラベル: 日常 考察
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