2010年6月30日水曜日

小三治の芸

この項、さらりと触れるだけとさせてください。
勝手な言い草で申し訳ないのですが、今月はブログをどれくらい書けるかと書いてきましたが、さすがにどっぷりと疲れてきました。
今日は、今月の最後ですが、わたしが一月に書けるブログの量は、このくらいだということがわかりました。

量が質に転化する日はいつ来るのでしょうか。

心静かに待ちながら、文章に携わっていきたく思います。

小三治の芸に接するときに、それは最近の小三治だと思っていただいて結構なのですが、彼の話芸が話すところからそうでないところに移行してきていることを感じる。

つまり、ぺらぺらと言い立てたり、粋なセリフを語ったりではなく、異常なほど長い間を取ったり、表情だけで相手に応えてみたり、おおそらくCDなどからは決して伝わらない表現方法に小三治の表現の粋が凝縮し始めているのを感じるのです。

そう思うとき、しゃべりの部分以外にその噺の核を置く小三治のありようはわたしには傑出しているように感じられるのです。

確かに談志はうまい。(比較して申し訳ないですが…)

たまたま27日の昼席主任の入船亭扇遊は「羽団扇」を高座にかけたのだが、帰るさに聞いていた若き日の談志のCD 「羽団扇」にはとても敵うものではなかった。
かといって、扇遊がダメだったなんてとんでもない。
立派な芸を披露してくれたと思う。
(ひとつ耳障りなくすぐりを入れていたが、それはよしとしよう)
要は、談志の噺の作り、しゃべりの達者さが異色なのである。
小三治と比してもそのしゃべりの華麗さは決して劣るものではない。

けれども、先述のように小三治の芸の本質はしゃべらないことにある。
しゃべらないところに何を生み出すかが、当面の小三治の思いなのである。
そういう演者にしゃべりを真骨頂とする談志が敵うわけはない。

小三治が当代きっての噺家とわたしが押す所以である。

小三治は生に限る。
小三治のしゃべりだけ聞いていたのでは、小三治師匠の半分も堪能したことにはならない。
小三治師匠の旬はこれからだし、それほど長くはない。

悪いことは言わない。
無理にでも寄席に足を運び、小三治師匠に接することをお勧めする。

感じやすい人ならば、涙を流すに違いない。
小三治の芸は、今やその域である。

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