2010年6月26日土曜日

リングワ・フランカ

言語運用能力と知的能力はきわめて密接に結びついている。

何かを分析し、論理的に腑分けし、さらにそれらを再構築する作業を緻密に遂行するためには厳格に言語を運用する能力が問われる。
そのことを言っているのだ。
その人の言葉遣いで、どれくらい深く物事を考えているか、おおよそ判断できる所以である。

これとは、一線を画して「英語がしゃべれる」という現象があるということを知っていなければならない。

このブログで強調したいのは、単に「英語がしゃべれる能力」と知的能力を支える「言語運用能力」は、厳格に区別されなければならないということだ。

世に「英語をしゃべれる」人間は頭がいいという迷信がある。
おろかな発想だと思う。

英語をしゃべれる人間の中にも知的能力においてはさまざまな人がいる。
そういう当たり前の事実があるだけで、英語がしゃべれるだけで頭がよくなったりはしない。

念のため書いておくが、知的能力が優れている人間はなかなかいないもので、それは、「頭がいい」とも厳密には違うのだが、ここでは「頭がいい」(巷間流布するところの)を「知的能力がある」と無反省に読みかえている。
さらに、「知的能力」は、まさに能力のひとつで、それに対抗できる能力はさまざまにあることも指摘しておく。
たとえば、羽生の「将棋を指す能力」は、普通人のもつ「知的能力」をはるかに超える。
ここに「知的脳う力」というのは、何かを分析し、それを論理的に腑分けした後に、それらを再構築する能力である。

話がブログの話題を超えて複雑になってきているので、手短にまとめる。
ごめんチャイ。

知的能力の高い人間は英語運用能力が低いことが多い。
(考えていることが英語に変換しにくいからね)
に対して、総じて馬鹿は英語運用能力が高い。
(考えていることが単純でいともたやすく英語に変換できるからだ)

というわけで、社内では英語を公用化した「ユニクロ」「楽天」「日産」の知的能力はかなりこれから危なくなる。
英語をしゃべれるだけでビジネスの世界に船出はできない。
英語をしゃべれるというだけの船は「泥舟」である。
わかっておいでかな、柳井君。

ここでよくよく注意しなければならないのは、英語を話せるのは事務的意図を間違えずに伝達する英語が話せるに過ぎないとしておくことだ。

「リングワ・フランカ」にその種の感覚があるように思えるが、吟味が必要であるだろう。
ただし、事務的事項の伝達に限った言語能力を表す言葉が早急に必要なのは事実で、それを「リングワ・フランカ」で代用することは意味がある。

英語を話す能力をぼんやりと扱っているととんでもないことになる。

この社会に英語が話せるだけの馬鹿は五万といる。
これも念のため書いておくが(心配性になってしまった)、わたしの職場にも英語がしゃべれるだけの馬鹿がいるが、この人の場合は複雑だ。
わたしは、個人的には彼女を単なる馬鹿と考えてはいない。
彼女は優れて悲劇的な人だ。
その悲劇がどのような悲劇であるかを彼女自身が認識し、自分のある状態をはっきりと見つめ直したときに、彼女は大きく変わるはずだと思っている。
けれども、自分の悲劇を見つめるこの作業は大変に困難を極める。
傍についておいてあげたいと思う所以である。
彼女を眺めるとき、悲しみに襲われる所以である。

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