2010年6月20日日曜日

甘い生活

「甘い生活」は、このときに出合わなければならないものとしてわたしの前に現れた。
肝心なものの出現は、いつも忽然と生じる。

出合わなければならなかった本。
出合わなければならなかった絵画。
出合わなければならなかった風景。

思い返せば、みんなそうだ。

そして、出会わなければならなかったおまえ。

もし、その出会いが完遂することなく終わったならば、それはおまえがわたしにとって取るに足らない人間だったことを意味する。
しかし、嘆くことはない。
もし、本当におまえが必要な人ならば、時と場所を変えてもう一度出会うはずだから。
そのときは、お互いにゆめゆめ見逃すまいぞ。

「甘い生活」の乱雑な映像の放置は、物語の放棄であり、映画を作る意志そのものが映画を汚していくことに対する直感的理解である。
故に、この映画は安直な解釈を拒む仕掛けになっており、この映画を受け取るにはそのまま受け取る以外に方法はない。

この映画において必要なものは、しようとする意味化の軽薄さを理解することだ。
というわけで、これ以上「甘い生活」をこのブログでは述べない。
また、どこかで誰かのこの映画の解釈を読んでも鼻でせせら笑えばいい。

いいか、それがこの映画を受け取るということだ。

石原吉郎ならそう吐くかもしれない。

ところで、もうひとつ大切なことを語っておきたい。
(といっても、わたしにとって大切なことなのだが。)

この映画はわたしにとって素晴らしかった。
いくつもの身につまされることを教えてくれた。
何人かの大切な人に改めてこの映画の中で出会った。
そのなかには、わたしもいた。
わたしが、ある人に繰り返ししている行為がこの映画で再現された。

それらを含め、わたしにとってこの映画は大切な作品となった。

あらゆることは個別的に出会う。
そのことを改めて知った。

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