2010年6月17日木曜日

続・わたしから逃げ出した人々

もちろん、わたしと長くつき合う必要はないから直前のブログは、めめしきものであるのは否定しようがない。
それをあえて掲載したのは、それを知ったうえでも人は自分を正当化して別れを演出するものだということを強く示したかったからである。

ある種の人間は自己否定的で自分が悪いとすぐに思いたがる。
その性癖は現状ではない次へのステップも産み出すが、同時に常に罪意識も産み出す。
わたしは、その罪意識を嫌ってあのブログを書いてしまった。
あなたも罪意識を持たなくていいと語ってみたかった。

人は、自分の嗜好に過ぎないことも、わたしが嫌っているのをなぜあなたはわからないのと大きく振りかざしてくる。

そして、いまわたしが気になるあなたは、「あ、そうなの。ゴメンネ」とすぐに謝りたくなる。
けど、謝んなくていいと思うよ、あなたは。
それは相手の嗜好にしか過ぎないもの。
落とし所なんて話し合えばいくらでもころがっているよ、きっと。

出来ないのは、相手の幼児性による。
そう考えてしまっていいと思うよ。

たいていのことに正統性はない。
正当性もね。
多くは、嗜好に過ぎない。
あるいは、慣習に過ぎない。

それには立ち向かっていいと思う。
あなたは少数派だろうけれどわたしはあなたを強く支持する。

わたしは、空気を読めないあなたが好きだ。

先のブログはそういった意味もこめて、激しく攻撃した。
メールの数が多いこと、朝早くメールすること。
それは、奇異な行動だと思う。
けれども、その奇異な行動をするわたしと付き合うのならその奇異な行動をたしなめたらいいのではないか。
そのたしなめの底に愛情を敷いたらいいのではないか。

そういった思い遣りをこの国は失してしまった。
空気が読めないなんて平気で言う。

言ってしまおうか。
空気など読めなくていい。
自分が自分として生きるとき、空気なんぞクソ食らえだ。
あなたはそのまま好きに生きていればいい。
あなたの自由気ままさに嫌気がさしたら、相手がそれはきついとそのたび言えばいいだけのことだ。
あなたもそのたび考えて、やり方を変えたりそのままでいたりすればいいだけのことだ。

もともと人と人が付き合うのはそういった煩雑さの上に成り立っていた。

「しょうがないねえ、あなたは」

わたしなんぞは、若いのから始終そんな小言をもらっている。
ただ、そう言う相手の顔には心の奥から漂ってくる笑顔が張り付いている。
その顔を見てわたしは言う。

「悪いねえ。駄々っ子で。」

年齢なんて関係ないんだ。
キミがわたしの傍で生きているのはごく自然なことなんだよ。
生きているのが奇跡なんてことはないさ。
今までキミが迷惑かけてもいいよと言ってくれる人に出会わなかったことが、哀しい奇跡だったんだよ。

人と人がつき合う。
必ず迷惑は生じる。
願わくば、その迷惑を受け入れる気概でつき合ってほしい。

この意味で、先のブログの過激さをわたしは今も主張する。
泣き寝入りしている、わたしの愛する人たちのために。

わたしは、そんなあなたが好きだよ。

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