2010年6月28日月曜日

寄席という文化

今の時代、聴き手に何かを要求することはない。
落語を初めて聞く客も楽しませなくてはならない。
そこまではいいし、初めての客に楽しいんでもらいたいは、小三治の最も望むところでもある。

けれども、落語という芸にはその先があって、聞き込むことにより楽しみが広がってしまうのである。
つまり、わたしは多くの落語を聞き込んでいるが、わたしが聞く小三治とあなたが聞く小三治は違ってしまうと言っているのだ。
それが、多くの作品における状況であり、落語もその状況を引きずる。

作品は、最終的にはその受容者が決める。

これが、原則であり、受容する者にあった作品しか作品は存在しないのである。
ダメな作品はあるが、同時にあなたがダメだからダメな作品に見えてしまうこともある、というわけだ。
困ったね…

さて、寄席はそのトータルでひとつの作品となっている。
端的に言えば、その日のトリのために寄席は構成されている。
それを踏まえて、前座が語り、色物が混じり、中入りがあり、ヒザ前があり、ヒザ隠しがあって、トリへとつながる。

小三治師匠の場合、何度か通ってみると彼がトリを取るときの寄席の構成が驚くほど酷似しいていることに気づく。
なぜか世津子さんはよく出るし、ヒザ隠しの色物には小円歌さんや和楽社中が多いこと。
そしてヒザ前を、必ずと言っていいほど入船亭船橋師匠がつとめること。

すべて大トリの小三治につなげる心憎い演出である。
その流れが生み出す世界の中で、小三治がどの程度の噺家かわかる仕掛けとなっている。

昨夜の小三治のネタは、「転宅」。
これを聞きながら、わたしは小三治の落語を改めて知った。

思いましたね、わたしは。
いやはや、小三治はいまだに進化し続けている。
その進化し続けている名人、小三治をわたしは聞いているのだ。

深謝。

小三治の落語の姿は次の項に譲ることにする。

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