牛の鈴音
キミの希望でこの映画のことを書き綴ることにします。
ほんとうは、今度の土曜日、下北沢でのデートで話せばよいのですが、どうやらそういう映画ではないみたいなのでキミが言ったように、いっしょに見た映画を、帰った直後、こうやってブログに起こすのです。
キミには、この映画はどう見えましたか。
とてもつまらない映画ではなかったのかと心配して何度かキミの顔をうかがいましたが、ラストの場面で少し涙していたのを見て、何か感じたのだなと思い、ほほえましかったです。
ほほえましいなどと書けば、また大げさににらみつけますか。
わたしは、キミににらみつけられるたび、しっかり付き合うことのできなかった、今でも付き合えぬ長女を思い、ふと胸がきゅんとなります。
でもこのごろは、キミが娘みたいなもので、それはそれでいいと思っています。
もちろん、ときどきは恋人のようにキミを思いますし、愛人のようにも思います。
妻のようには思えません。
あなたは、軽やかだから。
あなたが、「牛の鈴音」のことをあれこれと考えなければいいのにと思っています。
あなたは、とても勘の鋭い子だから黙って映画の印象を胸の中にしまってくれたかもしれませんね。
それが、この映画の扱い方です。
わたしもそうしました。
この映画は一頭の牛の思い出の映像です。
思い出が、人の中にどのように残るのかと聞かれれば、この映画のように残るのです。
「亡くなっても、ぼくたちの心の中に生きているんだ」
なんて叫ぶ連中にどれくらいの切実感があるのでしょうか。
思い出は、物語としてではなく、物語とはかけ離れてこの映画のように心の中にあるのです。
だから、キミには考えないでいてくれとお願いするのです。
わたしの中のキミもこの映画のようにさまざまな姿を現します。
そうやって、わたしの意志とは関係なく、キミはわたしの中に住んでいるのです。
現実があって思い出があるなんてとんでもない。
まさに渾然一体。
おじいさんが、夢うつつの表情をしたのはとってつけたものではありません。
いまここにいないものとともに存在するとき、人は呆けたような顔をするものです。
誰かと一緒に生きているというのは、まさに現実とはかけ離れた世界にいることと同義です。
さて、思いつきを書いているだけでこの映画の感想は先に進みませんが、「牛の鈴音」は思い出の姿をそのまま表した映画で、この映画のようにあなたも思い出が持てるようになればいいなと思い、わたしは見終わりました。(急転直下だね。笑わないでよ。)
それで、こうやってブログを起こしながら思うのですが、考えるという作業を何かを見て身体に取り入れる途中過程に入れると見たものがそのまま自分の中に入ってきません。
絵を描くことが好きなキミが知りたがったわたしの屋久島での体験、風景がそのまま身体の中に入ってくる状態というのは、あの映画の牛の姿のようなものです。
あの牛の映像にはつまらぬ説明をつけていなかったでしょう。
説明が、牛の姿を捉えることを邪魔するからですよ。
キミが絵を描くとき、対象をそのまま見たほうがいいかもしれないね、と言ったのはその意味です。
絵を描かないわたしの発言をキミはとても気にして、それはどういうことなのか何度も聞いていましたが、あのときは、わたしもしっかりと把握していなかったから、それを伝えることができませんでした。
たぶん、キミは今夜、この映画でわかったのではないでしょうか。
この映画で、キミが涙したのは理屈の涙ではありません。
そのままの牛の思い出が、キミの絵の才能に触れたのだと思います。
こんなところで書くのもおかしいですが、ブログはわたしの私物でもありますから書いてしまいますが、キミがしばらくわたしに絵の話をしないことが気になっています。
キミは絵を描いていますか。
キミが彼氏の話をとつとつとするのはこのごろよくあるけれど、あまり絵の話はしませんね。
絵の話って、誰かの描いた絵じゃないよ、キミの描く絵の話だよ。
この前も何とかというヴァイオリニストのことをうれしそうに話していたけれど、キミが絵を描く話は聞きませんでした。
もっとも、キミのあの忙しさの中で絵なんて描けないのでしょうけど、それでも描いていたほうがいいと思うよ。
彼氏だけでは、あなたには足りないかもしれないし、それをいつまでもわたしが補うわけにもいかない。
絵がキミのそばに寄り添ってくれると思うよ。
とても素敵な映画を今夜キミと眺められたことを幸せに思います。
いまどき、恐ろしいくらい説明のなかった映画だったね。
韓国で大ヒットのドキュメンタリーだけど、日本ではどうかな。
この国は説明をいっぱいほしがるから。
この国は、幼稚な人が多すぎるよ。
いつものことなんだけど、見てると頭痛くなるよ。
キミがたまに会ってくれて、わたしはとても幸せです。
ありがとう。
おやすみなさい。
ほんとうは、今度の土曜日、下北沢でのデートで話せばよいのですが、どうやらそういう映画ではないみたいなのでキミが言ったように、いっしょに見た映画を、帰った直後、こうやってブログに起こすのです。
キミには、この映画はどう見えましたか。
とてもつまらない映画ではなかったのかと心配して何度かキミの顔をうかがいましたが、ラストの場面で少し涙していたのを見て、何か感じたのだなと思い、ほほえましかったです。
ほほえましいなどと書けば、また大げさににらみつけますか。
わたしは、キミににらみつけられるたび、しっかり付き合うことのできなかった、今でも付き合えぬ長女を思い、ふと胸がきゅんとなります。
でもこのごろは、キミが娘みたいなもので、それはそれでいいと思っています。
もちろん、ときどきは恋人のようにキミを思いますし、愛人のようにも思います。
妻のようには思えません。
あなたは、軽やかだから。
あなたが、「牛の鈴音」のことをあれこれと考えなければいいのにと思っています。
あなたは、とても勘の鋭い子だから黙って映画の印象を胸の中にしまってくれたかもしれませんね。
それが、この映画の扱い方です。
わたしもそうしました。
この映画は一頭の牛の思い出の映像です。
思い出が、人の中にどのように残るのかと聞かれれば、この映画のように残るのです。
「亡くなっても、ぼくたちの心の中に生きているんだ」
なんて叫ぶ連中にどれくらいの切実感があるのでしょうか。
思い出は、物語としてではなく、物語とはかけ離れてこの映画のように心の中にあるのです。
だから、キミには考えないでいてくれとお願いするのです。
わたしの中のキミもこの映画のようにさまざまな姿を現します。
そうやって、わたしの意志とは関係なく、キミはわたしの中に住んでいるのです。
現実があって思い出があるなんてとんでもない。
まさに渾然一体。
おじいさんが、夢うつつの表情をしたのはとってつけたものではありません。
いまここにいないものとともに存在するとき、人は呆けたような顔をするものです。
誰かと一緒に生きているというのは、まさに現実とはかけ離れた世界にいることと同義です。
さて、思いつきを書いているだけでこの映画の感想は先に進みませんが、「牛の鈴音」は思い出の姿をそのまま表した映画で、この映画のようにあなたも思い出が持てるようになればいいなと思い、わたしは見終わりました。(急転直下だね。笑わないでよ。)
それで、こうやってブログを起こしながら思うのですが、考えるという作業を何かを見て身体に取り入れる途中過程に入れると見たものがそのまま自分の中に入ってきません。
絵を描くことが好きなキミが知りたがったわたしの屋久島での体験、風景がそのまま身体の中に入ってくる状態というのは、あの映画の牛の姿のようなものです。
あの牛の映像にはつまらぬ説明をつけていなかったでしょう。
説明が、牛の姿を捉えることを邪魔するからですよ。
キミが絵を描くとき、対象をそのまま見たほうがいいかもしれないね、と言ったのはその意味です。
絵を描かないわたしの発言をキミはとても気にして、それはどういうことなのか何度も聞いていましたが、あのときは、わたしもしっかりと把握していなかったから、それを伝えることができませんでした。
たぶん、キミは今夜、この映画でわかったのではないでしょうか。
この映画で、キミが涙したのは理屈の涙ではありません。
そのままの牛の思い出が、キミの絵の才能に触れたのだと思います。
こんなところで書くのもおかしいですが、ブログはわたしの私物でもありますから書いてしまいますが、キミがしばらくわたしに絵の話をしないことが気になっています。
キミは絵を描いていますか。
キミが彼氏の話をとつとつとするのはこのごろよくあるけれど、あまり絵の話はしませんね。
絵の話って、誰かの描いた絵じゃないよ、キミの描く絵の話だよ。
この前も何とかというヴァイオリニストのことをうれしそうに話していたけれど、キミが絵を描く話は聞きませんでした。
もっとも、キミのあの忙しさの中で絵なんて描けないのでしょうけど、それでも描いていたほうがいいと思うよ。
彼氏だけでは、あなたには足りないかもしれないし、それをいつまでもわたしが補うわけにもいかない。
絵がキミのそばに寄り添ってくれると思うよ。
とても素敵な映画を今夜キミと眺められたことを幸せに思います。
いまどき、恐ろしいくらい説明のなかった映画だったね。
韓国で大ヒットのドキュメンタリーだけど、日本ではどうかな。
この国は説明をいっぱいほしがるから。
この国は、幼稚な人が多すぎるよ。
いつものことなんだけど、見てると頭痛くなるよ。
キミがたまに会ってくれて、わたしはとても幸せです。
ありがとう。
おやすみなさい。
ラベル: 映画
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