2010年11月30日火曜日

大切なもの

自分にとって大切なものを大切にする。
肝心なことはそういうことなのだが、大切なものをどうやって決めるのか、大切なものをどうやって大切にするのかはさっぱりわからない。
そういう自分の置かれた事実は知っておかなければならない。

人は物語にっよって生きている。

確かなものは自分の肉体を通し感じる痛みに代表される感覚だけなのだろう。
かといって、この感覚だけでは今の世の中を生きてはいけない。
困ったね。

媚も売らなければならないし、にこにこと笑うことも必要だろう。
まあ、そんなことを世の中では生きると言うようだということはわかる。

どこに正義があるわけでもない。

確かな感覚に出会ったときに喜べばいい。

仲間はどこかにいるという事実だけは動かせない。
そうじゃないかな。

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2010年11月28日日曜日

のぼうの城

愉快な本でした。
脚本出身者のよさが、うまく取り入れられておりました。
つまりは、読者サービス満点。
書き手というよりは、読み手の視点をしっかりと持っていることに驚く。

ただ楽しみました。
書くという作業が、多少なりとも銭に替わるということの中心には自分の作品を書きながらいかに読者として読めるかにかかっているのかもしれません。

書き手としての自分がいくら楽しんでも仕方ないのですから…。

この作品の主人公。
豊かな造形ですねえ。
「のぼう様」と言うのですか。

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2010年11月27日土曜日

怒髪天って…

怒髪天って、なんか、結構、マスコミに出てるみたいな気がしてきました。
ちょっと、ネットで探ってみたら…

しかし、わたしの世の中知らずも来るとこまで来ましたか…

そう言えば、昨日、以前に読んだはずの東野圭吾の「秘密」を通読したら、全然記憶がないんです。
ラストの2,3ページになってようやく確かにこの部分は読んだとわかりました。

忘れるということはいいことやらまずいやら、しばし考えました。

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怒髪天

世にそれほど知られているとは思わなかった「怒髪天」が、桃屋のテレビコマーシャルに出ているのを眺めた。
どうしたことだろうか。

それにしても、贔屓の人物が出るとなんとなく気分がいいものだ。
増子さんもほんとうにが好きなのだろう。
ザーサイをうまそうに喰っている。

このコマーシャルを見て、ほっとした自分。
ほっとした自分に納得している自分。

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2010年11月26日金曜日

廃墟に乞う

「廃墟に乞う」佐々木譲著
体幹のぶれない小説であった。

主人公の目を通して描かれていく小説世界であるが、仙道の目線が定まっている。
舞台は北海道に限定された短編集だが、北海道を描くことにも成功しているのではないだろうか。
それは、仙道を警官でも探偵でもない立場に置いた作者のアイデアにも負われた成果だろう。
(探偵でもあり、警官でもあるとしてもいいだろう)

もともと安定感のある作家で、楽しませてもらってきただけにこの作品での直木賞は意外でもあった。
「エトロフ発緊急電」が大きすぎたのかもしれない。

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2010年11月25日木曜日

タッチ


体調のすぐれないときに何冊かの漫画を読んだが、ひときわ「タッチ」が心に残っている。
恋愛という人の心の交流を描いて、いい作品だった。
人は自ら相手を愛することは出来るが、逆に相手からの愛は要求できない。
恋愛の絶対的な決め事だが、それゆえにいくつかの問題は発生する。
幸運がなければ相手から思われることのない恋愛の事実を基軸に幾つもの青春の恋愛ストーリーを紡ぎ出した本作は名作だろう。
いくつかの忘れられないコマがある。
万が一、読んでいないのなら、読んでみたらいいと思う。

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わたしの日本語

たいていの日本人が何を考えるでもなく自分は日本語を扱えると思っているが、ことはそう簡単ではない。
自分の使う日本語にはその日本語の来歴がある。

アーサー・ビナードの日本語とつき合っているとそういうことがわかってくる。
たとえば、「日々の非常口」の「残雪に思う」などを読めば、明らかに自分にはない細やかな日本語に対する感性を感じる。

だからどうなんだと問われれば、これが大きな問題と知ることになると答えざるを得ない。
ひとはその日本語の来歴に従って物事を考えるようになる。
その傾向は強くある。

自分の日本語はどこから来たのだろうか?

そう問い返すことは大切なことだ。
アーサー・ビナードの日本語は注意深く進む。

わたしの日本語もそのようでありたい。

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2010年11月24日水曜日

ここが家だ

「ここが家だ」ベン・シャーンの絵本

アーサー・ビナードからこの絵本にたどり着きました。
北朝鮮の考え方。
各国の対応。

第五福竜丸のころからどれくらい変わったのだろうかとも思う。
何を頼りに人は戦うのだろう。
わたし個人で言えば、わたしは人を殺したくはない。

ま、自分自身止まりだな。

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2010年11月23日火曜日

佐々木勇気

世の中は動き、将棋界も動く。
佐々木勇気という少年が、今年の秋にプロになる。
先日、はじめて将棋を見たが、強い強い。

竜王渡辺明もうかうかしていられない。
羽生世代と絡めれば、三世代の争いがこれから始まることになる。

わたしは、明らかに傍観者だ。
けれども将棋ばかりは当事者にはなれそうにもない。

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2010年11月21日日曜日

アーサー・ビナード

何年か前にこの人が奈良を紹介している(確か、わたしの記憶では)映像を見たことがある。
とても惹かれた。
彼の言葉にも彼の表情にも。

そのまま時は経ち、昨夜ある対談集の中でこの人と会った。
うれしい出会いであった。

ようやく彼の著作に触れることも出来る。
わたしのあの映像の印象は信頼できるものだったのか。

いくつになっても信頼に足る人との予感を感じさせる誰かとの出会いはわくわくさせてくれる。

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2010年11月20日土曜日

KY

人それぞれがもつ物語とは、その人の命綱ゆえ決して離してはならないものである。
そういう風に決まっていたし、程度の差こそあれ、我々はそのように生きてきた。

その自分の意思で持つ物語を他者がおし着せるようになって来たのはいつごろのことだろうか。
心ある何人かの人が指摘するようにそれは最近のことではなく、遠く明治に遡る歴史を持つ趨勢であった。(信頼の置ける人がそう指摘し、その指摘によって歴史を振り返れば、なるほどと首肯せざるを得ない。とんでもない歴史を我々は持っている。)

とにかく、事ここにいたって自分独自の物語を持ち、周りをきょろきょろせずに生きていくことはとても難しくなった。
変わり者は生き難くなっている。
みんなと同じようであることがとても大切になってきている。

かつて、学校にはみんなが同じである必要はないという空気があった。
その量の多寡は別として確かにあった。
その異なる者を許容る力の減少は、家庭にも地域にも学校にも押し寄せる。

明治維新の頃、その力をもっとも激しく持っていた地域は長州の萩であったし、薩摩の下鍛冶屋町である。
圧倒的に異なる者を内包する力が、そこにあった。
革命とも見られる明治維新の人材の多くがそこに産み出された。

KYとは、体制に準ぜよという標語である。
われわれの言うとおりにしなさいというわけである。

体制とは、国だけではない大小色々とある。

自分の物語を持つ者の生き難い所以である。

空気など読む必要はない、と言い切りたい。
しかし、その先には「いじめ」がある。

さて、どうするか。

はてさて、困った世になりました。

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2010年11月19日金曜日

連勝の後

連勝が途切れた後の白鵬の相撲を見れば、美しさを感じることがある。
立派な相撲取りだと思う。

連勝が終わった後のあの姿にはいくつかのことを考えさせられる。

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2010年11月18日木曜日

みをつくし料理帖

「八朔の雪」をはじめ四冊「みをつくし料理帖」シリーズが出ているが、ここに描かれる世界をわれわれはとうの昔になくしてしまったかと思えば、ここ二回、わたしのブログに書いた感慨もひとしおだ。

この作品を書いた高田郁という人の素性をわたしはよく知らないが、とても好もしい作家と感じている。
大向こう受けを狙わずにわたしのように世の隅で息づく人間に温かみを与えてくれるその作品の温度にほっとする気分である。

作品の主人公、澪の幸せを願う所以である。

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学校ばかりが…

先日、学校に関して嘆いてみせたけれども、何、学校ばかりが悪いわけではない。
荒っぽく書いてしまえば、家庭がパスし、地域がパスし、どこにも物語が見つけられなくなった子どもたちの最後の物語の供給者である学校が、子どもを殺すようではたまらんねえという文脈である。
(学校の提供する物語が概ねつまらぬものであるのは置いておいてもの話なのだが)

それにしてもやり切れぬ世の中で、それが構造的に襲い来ているわけだから、個々の事件にひどいやら考えられないやら安直な結論を出さずにこの社会構造の問題点を見つめなければならないのだろうに。

そう言うおまえがいじめを単に学校のせいにしているではないかと罵られると困ってしまうが、構造的に追いやられた子どもたちの間で、また仲間を追いやるという「いじめ」という現象はやりきれない。
学校の中にそれくらいの悲嘆はないのかと嘆いてみせたのである。

そういうことを言うお前が、一番いい気なものだと言われれば、それはそうかもしれないと一揖して立ち去るしかないのだが…、まあ嘆いてもみせたくなるご時勢だ。

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2010年11月14日日曜日

いじめられて自殺

例の桐生市の小学生の自殺は悲惨なものだ。
いじめられての自殺は、いじめと自殺の因果関係の問題になっているが、この関係性はあいまいなものでいくらでも言い逃れは出来るだろう。保身のために。
けれども、学校とはもともと生きる物語を提供する装置ではなかったのか、良くも悪くも。
そうやって、多くのこの日本社会を支える人材を作ってきたのではないか。悪くも悪くも。

その学校が、小学校が、生きる物語を提供するということを放棄してひとりの女の子を寄ってたかって死に追いやる。
いやいや、そこまでの認識もなかろう。
自分の知らぬところで死んでしまった小学校六年生の女の子。
そんな子どものことよりわが身が可愛いか。

それはそうかもしれない。
そのようにあなたたちは教育されてきたのだから。

何度も繰り返してきたが、生きることに意味はない。
したがって、おのおのに生きることを意味づける物語が必要となる。
その手助けをするのが学校だろう。
(そのあげくこの社会の再生産のためにとんでもないストーリーを学校教育は刷り込んでいくのだが…)

まあ、それでも自殺に追い込むよりはよいだろう。
刷り込まれた物語は、自ら放棄することも出来る。

最低限の要求をしているあの娘の親御さんたちに知らぬ存ぜぬはないだろう。
せめて自ら命を絶つくらいの謝罪をするのが筋というものだろう。

桐生の事件は、明らかに犯罪だ。
それも制度的な犯罪で、それ故に罰せられることからは逃れられる。

状況は、至る所で破綻している。

たまたまそこに咲いた美しい物語によって生きている人たちがそこかしこに存在するだけだ。

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2010年11月11日木曜日

そういうわけで…

沈思黙考しておりましたが…
更新していない間も多くの人にブログを眺めてもらっており、ありがたいしだいです。
少しずつ更新していきます。

よろしくお願いします。

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