2011年1月31日月曜日

とり大根への批評

とり大根とは、上の写真のような煮込み料理なのですが、わたしの場合は、圧力鍋で水をほとんど入れないためにもっと濃い色をしたものになります。

そのわたしの作ったとり大根に厳しい師匠の批評が入りました。
大根のあく抜きが十分ではないとのことです。

わたしのとり大根はあく抜きの変わりに生の米を20粒ほど入れて、それから酒や醤油や…で煮込むのですが、それでは大根のあく抜きがたりないとのことでした。

確かになにやら辛味のようなものが残っていたり、芯まで味がしみていなかったりしたのですが、あれはあく抜きの問題だったようです。

わたしが、辛味だと勘違いしたものはえぐみだったようです。

恐るべしプロの料理人。
ありがたい人に出会ったと思っています。

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連続性を考えてみよう

連続性とは人の連続性の意味です。

つまりは、あなたの連続性、わたしの連続性を少しだけ考えてみましょう。
平たく書けば、昨日のあなたと今日のあなたは地続きでつながっているのかという問題です。

これはややこしい話になりそうだといきなりの及び腰。
小股すくいで軽く一本とられてしまうな。

わたしは、連続性の保証はないとしています。
たとえ外見上、そう見えたとしても。
いや、他者にとってはあなたの連続性は保証されているでしょう。

「最近変わったねえ」

なんて言うからね。
だった、別人だもん、なんてあなたも答えないし。

そういう意味では、連続性は保っていると思います。
では、その連続性は何によって保たれているのか。

あっ、これ以上書き続ける前に城戸朱理さんの本のあの箇所を読んでおきますね。
それから続けます。
少し先になりますね。

で、結論としてもってきたかったことだけここに書いておきます。
(変わってしまうかもしれないけれど)

連続性は、あなたがあなた自身で苦労して選び取った生き方をしていることでしか保つことは出来ません。
生き方を他者やシステムに任せたとき、あなたであり続けることに断点が生じます。
もっとひどいときは、あなたが消滅します。

所詮、人間なんてチョボチョボです。
起きて半畳、寝て一畳です。(天下なんてとる必要はありません)

お互いのんびり、十分に自身と付き合いながら生きて行こうではありませんか。
世間なんかどうでもいい。
自分自身を大事にしようではありませんか。

城戸さんのあの部分を読み返して思弁した後も同じ結論を申し述べたく思っております。
しばらく(場合によっては一ヶ月以上)お待ちください。

かしこ(だって、女の子みたい)

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2011年1月30日日曜日

多種の調味料

師匠の会田さんに気に入ってもらうために。


ついつい調味料を買い足してしまった。
なくなりかけていたナンプラー、オイスターソース、三温糖、…。
さらに「牡蠣醤油」なるものを見つけてしまったし、本みりんも買ってしまった。
いままでは、みりん風味の何とかかんとかで代用していたのだ。

それくらいの調味料をかごに入れてしまったときに、あらためて自分の貧乏を思い出し、何品かの食料を棚に戻したのでした。

けどさ、調味料だけ豊富にもっていてどうするの?
しみじみ自分のアホさ加減を思いました。

しかし、料理においてもっとも大切なものはその料理を食べてくれる人でしょ。
そしてその大事な人が会田師匠なわけですから、手抜きできないわけですよ。

まあ、このくらいの調味料があれば、そこそこの料理が作れるワイ。

コチジャンもあと少しあるし。

師匠は次の料理をちょっとはほめてくれるかしら。

オホホホ。

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つい目が覚めて…

つい目が覚めて、後半20分くらいからサッカーを見るとはなしに見てしまったぜ。

あのアジアカップ決勝戦。
日本対オーストラリア。

わたしはナショナリストではないからね。
「patriotizm」は、持っていますよ。
けど、「patriotizm」は愛国心ではないですから…、あれは完全なる誤訳です。
郷土愛、そういう訳の方がずっと正しい。
そういうことを教えてくれた師がいます。

ありがたいことです。
師を持つということは。

で、そういうわたしが何をあの放送で見たかというと、正確には聞いたかというと、解説をする松木、名波、セルジオ越後さんの関係性、彼らのサッカーに対する愛情を聞いていたのです。

試合は、一生懸命でなかなかのものでしたし、李選手のボレーシュート、その前の長友のセンタリングなど見るべき瞬間は大いにありましたが、世界レベルの試合ではなく、大騒ぎするようなものではありませんでした。
ナショナリストでなければね。

で、松木安太郎、名波浩、セルジオ越後の話ですが、松木はサッカーを深く愛しておりません。
単なる太鼓もちです。
ちょうど日本のサッカーサポーターに合っています。
こういう男がサッカーマスコミに幅を利かせているようでは、日本サッカーの障害になります。
まあ、障害になるようなサッカー太鼓もちは多いんですけど、川平慈英とかさ、マスコミ自体がそうだからね。
かなりのレベルの低さですよ。
(どうして、そんなことお前にいえるのかって言いたいんでしょ。言えるんですよ。わたしにはサッカーの師匠もいますから。師匠は、圧倒的にサッカーのことを知っています。南アのワールドカップで日本が勝った理由も彼から教わりました。高地トレーニングがすばらしかったことを。南アで日本が勝った試合会場の標高を調べてみれば、一目瞭然です。…お調べください)

それに引きかえ、セルジオ越後は違います。
彼のマスコミに嫌われる所以です。
彼には、南アメリカのサッカー文化の香りがしますね。

ブラジルじゃあ、サッカーの試合を見て勇気をもらったなんて間抜けなことを言いませんよ。
命がけで応援していますからね。(それがいいとは、単純に思いませんけれど)

けれども、コロンビアでサッカー選手が射殺されたでしょ、サポーターに。
あの雰囲気、すこしだけわかるし、そりゃあ日本とは違うわな、と思いました。

戻って、松木、名波、セルジオの話ですが、徐々に松木の発言は少なくなっていき、最後はセルジオが積極的に話し出しました。
名波もセルジオについて行っちゃった感じで…

黙ってしまった松木の胸を去来するものは、サッカー解説者としてこれから食っていけるのかな、どういうふうに立ち回ればいいかな、だったことでしょう。

昔に戻れば、選手時代、監督時代、松木が、がんばっていたことは知っています。
だからこそ、今の姿は何なのだろうと思っていたのです。
読売クラブの宴会部長に専念しているだけではないですか。

まあ、マスコミ諸君もセルジオさんをどんどん使うようになれば、日本のサッカー文化も変わり、底上げされるんでしょうけどね。

とにかく、いいものを聞かせてもらいました。

こら、松木安太郎。
がんばれよ。

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2011年1月29日土曜日

太平洋の奇跡

事実をピックアップしてつなげれば幾通りもの事実がそこに立ち現れる。
どの事実を選び取るかは製作者の意思であり、事実を基にしたところでこれが真実だとは言えない。

確かに一つひとつはそうだったのだろうが、そこに描かれたものはある邪悪な意思の産物である。

ましてや映画です。
そういう映画はハリウッド映画を代表として多く存在するもので(ハリウッド映画すべてがそうではありませんよ。当たり前ですね。でも、きちんとした意思をもったハリウッド映画はあまり多くはないでしょう。みんながイーストウッドなわけではないですから)とくに戦争を舞台としたものにはそういう邪悪なものが入り込む危険性が高いものです。

正確に書けば、邪悪かどうかは知らないけれど、ある方向を示す意思が反映されたものが多々あります。(たぶん邪悪な方向性だろうな)
戦争物には。

イーストウッドが硫黄島を舞台にして何故二本の映画を撮ったか?

そういう問いは成立しますね。
戦争映画を考える上でとても重要な問いではないでしょうか。

ま、とにかく。
いい映画でした。
金を払って見ていいと思います。

役者もよく頑張っていた。
どれくらい頑張っていたかと言えば、井上真央の稚拙さが際立つほどいい演技(過剰な演技ではないですよ)を見せていただきました。

名前を挙げれば何人も上がります。
けれども登場回数の多さから挙げてみれば、竹野内豊、唐沢寿明、中嶋朋子、ベンガル、…あと、…あんまり知りまへんねん。
外人さんは名前がさっぱりわかりまへん。
日本の俳優さんもほとんど知りまへん。
(あんさん、えらっそうに書いて、そんなもんなんですか。まあ、そんなもんです…)

許してください。
いい演技だったと書いておるんだから。

寡黙な映画ですよ。
実に寡黙にして饒舌な映画です。

音楽もいいですよね。
加古隆です。

それとおそらく原作のドン・ジョーンズの作品が大きかったのではないでしょうか。

連れて行っていただいて仕合せでした。
また、映画を見たくなりました。

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わたしにも知人がいて…

15時から始まる虎ノ門ニッショーホールでの試写会に誘われた。

虎ノ門病院近くのその場所はわたしにとっては鬼門だが、なに、かまうものか。
誘われて断るのは男がすたる。(女がすたるでもいいんですが…)

信頼する人にこの映画はと言われれば、まあ、なんとなく断りづらいもので…

意志薄弱と言うことですか?

まあ、早く言えば…

遅く言ったら?

…やっぱり、意志薄弱ですか。

というわけで、久しぶりにいわゆる映画をホールに見に行ったわけです。
意外と楽しみだったりして。
エヘヘ…

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わたしの若き友人へ

もちろんわたしに対してもこめての以下の発言なのですが、傍観者の意見には十分に注意していただきたい。

「傍観者」と「当事者」

わたしのよく使うタームです。
このふたつの言葉を語りつくすのは、なかなか大変なので何度でもこのブログでは登場してしまいます。

この概念の具体的ポイントの大きなひとつは、自分であることだけでは自分の人生の当事者にさえなれないということです。
自分の人生の傍観者でしかない人は、探すに困らぬほど多く存在しています。
お前もそうではないかと詰問されれば、わたしは「そうかもしれないですね」と微笑むだけです。

自分の人生を自分自身で引き受けて当事者として生きることは生易しいことではありません。
しかも、処世上、わたしは当事者として自分の人生を生きることを強く勧めることはできません。
当然、当事者性を放棄して生きておられる方を責める気も毛頭ございません。

けれど、伝えておきたい。
当事者性を自分に科して、強く生きていこうとしている若き友人にこれだけは注意してほしいと。

長くなるといけないので、簡単にまとめてしまいます。
(また会うその日にあなたが聞きたければもう少しお話しましょう)

自分でさえ自分の人生の当事者になれないのだから、他者が当事者としてあなたの個人史上に登場してくることは、きわめてまれです。
そのまれの代表が、特殊な母親であり、特殊な恋人であり、特殊な配偶者などです。

キミのつき合う彼女が、当事者性をキミとともに背負うというのなら、それはただ感謝するだけですむようなことではありません。
何があろうとも、自分自身を賭して彼女を愛してあげてほしい。
(たとえ、あなたが彼女を嫌いになろうともです)
それだけが、彼女に報いる道だと今のわたしには思えます。

さて、言っておきたかったことは簡単なことです。

人生の岐路にあるあなたへの忠告、意見は多々あると思います。
そのほとんどに耳を貸さないでほしいということです。

あなたの人生を決めるのは主観的なあなたです。
(自分の人生を決めるときに客観性など無用の長物です)
ただの部外者にすぎない人たちの成り行きの忠告など当事者であるあなたのクソの役にも立ちません。
面白がって意見を言っているだけです。

そのなかに、あなたとともに生きる覚悟、もっと言えば、あなたの今後の失敗をともに背負っていく覚悟はどこにもありません。
どこかで聞いたことをまことしやかに語っているだけなのです。

このようなあなたへの忠告をする人間を専門用語で阿呆と呼びます。
無視しておしまいなさい。

人は他者に迷惑をかけながら生きていく存在です。
そのことを今もなお当事者性と向き合う人間たちは知っています。

だから、あのように彼らのあなたへの意見は寡黙なのです。

当事者性を持ち合わせないどころか、事情も知らず、誰かからの二度や三度のバイアスのかかった情報だけで人を批判するようなちんけな傍観者たちもいるのです。

当事者性を持たぬ人間に当事者性の中で生きることを選択したあなたはかかわってはいけない。
もちろん、彼らを積極的に批判することもダメです。

さてさて、話はつきませぬが、あなたはあなたの人生の岐路をすばやく過ぎていかねばなりません。
そのときに傍観者に足をすくわれる愚を犯しますまい。
当事者の巧遅に歩みを遅くしなさんな。

100パーセント安全で、納得のいく決断などありません。
人は、決断のとき、ある段階で跳ぶのです。
目をつぶって己が運にかけて跳ぶのです。

だからこそ、多くの人はあなたが跳ぶことを止めさせようとします。

わたしですか!?

わたしだって止めたいですよ。
だから、いつも言うでしょ。

あなたが決めることだよ、って。

キミが跳んでいった先に幸せが待っていることを祈っております。

やま本とんぼ

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食の師匠

わたしはついに食の師匠、会田さんにたどり着いたものだから、うれしくなって何品も試食してもらっておるのですよ、ハイ。
で、その度にありがたい評価やアドバイスをもらっておるのです。

しかし、なんですなあ、ご同輩。
持つべきものは先達ですな、まったくもって。
それも心清らかにして、圧倒的な技量を持っているとなると、もう二度とボクァ、キミを離さないぞ状態になるわけでして…

まことにもって頼もしい。
いいですね、大人の男は。

ついでに言っておけば、わたしの好きなのは、大人の男と大人の女、それと子どもの男と子どもの女。

大人のふりした男と女。
これは最悪ですぞ。
気をつけんしゃい!

あいつらは、まず自分が正しいと思って偉そうにしゃべり始めますが、すべて誰かから教わったこと、刷り込まれたこと。
自分自身で悪戦苦闘してひねり出した思いなどひとっかけらもありゃしません。
(まっ、ちょっと言いすぎだけど)

けどさ、情けないこと限りなしだわさ。

あいつらを無視しなさい。
あいつらを完全に無視しなさい。

人というのは、もっと自分のダメさ加減を知悉しているもんですよ。

わたしなんか身体全体が底なしのダメさぶりで出来上がっております。

というわけで、わたしのことを

許されることにおいてのみ存在する男

と昔からの友人たちは呼んでいます。

ま、こんなことを書いていてもキリがないので、会田師匠に試食していただいたものを羅列して、今回のブログは終わります。
失礼の段は、平にご容赦を。
ご海容のお気持ちで…

バーソー
ポテトサラダ
きんぴらごぼう
真鱈の卵の煮付け
ふきのとうの甘辛煮

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2011年1月28日金曜日

こんなことを話した夜があった

過日、こんなことを訳知り顔で話したことがあった。
気恥ずかしいけれども、わたしの厚顔無恥を自戒するためにここに書いておくことにしました。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。
信号所に汽車が止まった。

ご存知と思いますが、川端康成「雪国」の冒頭の3センテンスです。

三つの文が「た」で終わっていることにお気づきになるでしょうが、川端は少しずつ変化させております。
これをリズムと申します。

「雪国であった」(名詞+…)
「白くなった」(形容詞+…)
「止まった」(動詞+…)

文法的な細かい説明はどなたか、その道の専門家にお聞きください。

この三つの文は「た」を繰り返す単調さから逃れるための工夫がされております。
ひとつだけ指摘しておけば、最初の一文「雪国であった」は「雪国だった」を嫌って、「だ」を「であ」に変えた表現になっております。
このあたりが、川端の美学なんですね。

それに加えておけば、たいていの人が、

国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった。

と記憶しているのですが、川端は「そこは」を削っていますね。
ここに川端と多くの人の文章に対する感覚の差が象徴的に表れているのです。

蛇足ですが、「停車場に汽車が止まった」と」ありますね。

ここは

停車場汽車が止まった。

でもいいんですよ。

川端は、最初の「…雪国であった」で、すでに格助詞「で」を使用しているので、

停車場に汽車が止まった。

と格助詞「に」を使ったのでしょうね。

この格助詞「に」と「で」については文法書にいろいろと説明がありますが、私見では、川端は美学を優先して使い分けていると思いますよ。

川端の文章に対するこだわりにはこれほどまでに目を見張るものがあるんですね。

だからといって、わたしが彼を信奉しているかといえば、そんなことはありません。
わたしの好む作家は、嗜好として他におります。

以下は、無意味な独言ですが、(読み飛ばしてください)
好き嫌いの世界は理屈から遠く離れたところにあります。

最近も若い女の子に理屈でもって罵倒されました。
若い娘は自分の理屈が正しいと思い(幼い理屈なんですよ)、それを好き嫌いの世界に導入してきたのですね。

この種の若い女と親交を結ぶものではありません。

えっ、その後どうしたかですって!?

別れましたよ、きっぱりとね。

たぶん、なぜわたしが彼女から思いっきり距離をとったのか、今でも彼女は理解していないでしょう。
でもいいのです。
美しく若い女は醜悪な年寄りとつき合うものではありません。

逆に老人から言わせれば、困ったもんですよ、若い娘は。
(まあ、その困らせるところを可愛く思ったりするのですが、完全に血迷った状況ですね)

ついでに毒づいておけば、
いっぱしの顔をして、自分を利口だと思っている男どもも最低ですがね。

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もうひとつの生そば

薬師庵のなま日本そばも加寿美庵とともに有名ななま日本そばだけれどもこちらは加寿美庵にちと劣る。
ま、値段が加寿美庵の半額ですから、このあたりは老舗の良心というか吉兆とは大違い、看板に偽りなしなわけです。

それでもねえ、ここの生そばは買うに値しない。
いえいえ、まずいわけでは決してないのです。
けれども、一食400円を超えるのだから、やはり考えてしまうでしょう、われわれ貧困なる者は。

薬師庵のそばにはきつね以外にもしっぽく、天ぷら…と色々ありますが、わたしの経験上、天ぷらそばだけは避けるのがよいでしょう。
ほかのものは、値段に目をつぶれば、ちょっとした蕎麦屋のものよりはうまいです。

けど、どうでしょうか。
そこまで気張る必要がありましょうや。

われわれには乾麺を使ったおろしそばがありますしねえ。

ラベル:

まあ、あなただから教えるんですけどね


そばは乾麺、あるいは加ト吉の冷凍麺とこのブログで紹介しましたが、生そばにもいいものはございます。
それをここに紹介しておきましょう。
加寿美庵の「なま日本そば」。
こいつは滅法うまい。
うまいはうまいけれど、値段も思い切り張ります。
軽々と立ち食いそばの値段を凌駕します。
というわけで、この生そばが手に入れば、水にまで気を使う必要があります。
くれぐれも水道水で茹でたり、少量の水で茹でたりしないこと。
わたしはこのそばをあまりお勧めはしません。
(そんな贅沢しなくてもと思うから)
ここでは、なま日本そばにも名品があり、それはことのほか高いということだけ紹介します。
だったら、そばの名店で食べたらいいじゃないかという話になりますものね。
たとえば、信州上田の「刀屋」とか、三重県四日市市の「老梅庵」とかさ。
そんな戯言は、どこぞのアホがあちこちで書いているでしょ。
だ・か・ら…
そんなくだらん薀蓄ではなく、ここでは生そばにもいいものがあるけど、目茶苦茶高いぞという話。
あなただから、書いたんだよ。
妄言多謝

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2011年1月27日木曜日

魅力的なあなたであってほしいこと

人は自分の世界を持っており、その中で空気を吸ったりはいたりしている。
少しうがった言い方をすれば、そういうことになります。

その人間に大別して二つのタイプあり。
ここは、わたしにとって、わたしが人間を見る場合、とても重要視しているところです。

ひとつは、自分の世界を守り抜こうとしているタイプ。
もうひとつは、場合によっては自分の世界を壊し再構成することさえも厭わないタイプ。

すでにわかっておられると思いますが、自分の世界の中にいるということは安心なものです。
その安心さがまわりに自分と同じような世界(同じような価値観)を持った人を置こうとさせます。

これを排他性と呼びます。
彼らの排他性は強力無比、それが未知なる者、異質なる者への憎しみにも似た感情を生み出す原因ともなります。

また、わたしがよく使う「自分の持つ方向性」への硬直性をも生み出します。

ひとは、間違うものなのです。
他者に迷惑をかけるものなのです。

それが何か悪いように思ってはいませんか。
そんなことはありません。

正しいものがこの世の中にごろごろと転がっているわけではないのです。
自分の持つ世界観が正しいなどと思ってはおしまいです。
いやいや、わたしはそう感じます。

あなたはいくらでも変わっていけるのです。
いくらでも魅力に満ちたまだ会ってもいないその人と出会えるのです。
ああ、このような生き方があるのかと心の底から自分を揺り動かせる人とも出会えるのです。

そういう楽しみを捨てないでください。

それが、わたしの好む「方向性」です。

妄言多謝

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2011年1月26日水曜日

妻の小言

将棋棋士である渡辺明に一人の妻がいて、この奥様が圧倒的な文章センスをお持ちです。

その方の書かれているのが、

「妻の小言」

という名前のブログです。

まあ、読んでご覧ください。

あまりのウイットとユーモアにのけぞってしまいますぞ。
こういう文才をお持ちの方もいらっしゃるのですねえ、雲峰先生。

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重大なな発表

わたしに一人の畏友いて。
この畏友がとても姓名判断に詳しい。

わたしはと言えば、姓名判断に何の興味のない。
何の興味もないのだから、姓名にとくに固執していなければ、その姓名を変えることにも固執しはしない。

わたしは、その畏友の助言に基づき、ペンネームである「山本とんぼ丸」を変えることに決めた。
それをご報告申し上げる。

以後、わたしのペンネームを

「やま本とんぼ」

とさせていただきます。

わたしの」「山本とんぼ丸」への愛着を残しながら、最も重要な「とんぼ」の名称をそのまま残してくれました。
畏友に改めて感謝します。

なお、彼との話し合いは残っていますが、「とんぼ丸漂遊記」の名前を変える気持ちはありません。
なぜならこのブログの名称は姓名ではないからです。

このことも、また彼と話し合わなければならないと思っているところです。

まずは、ご報告まで。

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眠気

慢性的な不眠症のわたしに強烈な眠気が襲ってきている。
これは、いつ以来だろう。
最近眠気なんかほとんど経験したことのないわたしにどうして今日だけ眠気が…

人というのは妙なものが気になるものですね。

けれども、自分の異変を見過ごしてはなりません。
それが思わぬ謎を解くきっかけになるかもしれないからです。

ひょんなことから妙なわたし、つまりは見知らぬわたしとの付き合いが始まるのです。

あなたの知っているあなたもあなたのホンの一部分、とても都合のいい一部分だけということもあるのですよ。
ええ、もちろんわたしだって。

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2011年1月25日火曜日

バーソー

バーソーという台湾料理についてご説明差し上げたい。



わたしが、この料理について知ったのは、他ならぬ名著「檀流クッキング」によってです。

「檀流クッキング」はご存知檀一雄が記した料理の本で、ごくごく大雑把に書かれた料理本。

むしろその文体にいたく惹かれてしまう種類の本です。



それをさらに大雑把にここに記せば、少し大目のサラダ油を引いたフライパンに生姜とにんにくを入れ炒める。

そこへ大量の刻んだねぎを加え、とろとろになるまで焦がさぬように3,40分ほど炒める。

大量のねぎはとろとろになりあれほど多かった生ねぎがあ~ら不思議、ごく少量のあめ色の物体に変質する。


そこへ豚ばら肉のひき肉を放り込み、ひたひたになるまで醤油と酒を加えて煮込んでいくと写真のように最終的にはなる。

これをご飯の上にをば乗せて食すもよし、調味料として野菜炒めに使うもよし、ジャージャー麺の上に乗せスープをかけるもよし、まことに、使い勝手のよい一品となる。



わたしは、ひと晩おいて味を落ち着かせたバーソーを本日どうすべえかと今思案中である。



これが楽しいひと時で、今回はことのほかバーソーがうまく出来たのです。



幸せな気分になる一品は、意外なところに転がっているものです。

無理強いはしませんが、一度試して見られたらいかがでしょうか。

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2011年1月23日日曜日

さらに小三治

先日の小三治師匠の演目は「青菜」。
この話は、亡き枝雀師匠で繰り返し聞いていましたが、小三治のそれはまったく違っておりました。
お屋敷での植木職人とお屋敷のご主人のやり取りを驚くほど丁寧に描写していきます。
この描写の丁寧さがオウムネタである「青菜」の後半、長屋でお屋敷の真似をする所での爆笑につながっていくのですが、最大限のほめ方をすれば、一分の隙のない話の組み立てとなっておりました。

まあ、腰が抜けましたよ。

小三治は、今が旬です。
今というのは、まさに今。
演じるごとに彼はその前の高座を越える最高の芸を見せてくれます。
そう言いきってしまいたい気分です。

なんだか、小三治に出会えたそのことだけで、自分の人生が潤沢になっていくようです。

まあ、とにかく寄席なり独演会に足をお運びになってください。
とんでもないものをご覧になることになります。

恐るべし、小三治。

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2011年1月21日金曜日

宇多田ヒカル

「宇多田ヒカル」とか「KARA」の行動を眺めれば、好もしさを感じる。
正しくとも間違っていようとも自分の意志を強く打ち出すことはその結果よりも生きる姿勢としてドキリとさせる。

韓国の事務所がどうだとか、宇多田の今後がどうだとか細かい指摘はいらない。
彼女たちが自己投企する姿に影ながら小さなエールを送りたい。

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あんたねえ、本気で言ってるの?

うちの周りには灯油販売のトラックが結構な頻度で徘徊しておりまして、いつも家人にお世話になりっぱなしのわたしは、灯油を自ら買って家人に少しでも喜んでもらおうと、まあそのトラックを止めたわけですね。
で、灯油の値段をそのおっさんに尋ねたわけですわ。

そしたら、そのおっさん、しゃあしゃあとした顔で、
「一本1650円になります」
「一本って18リットルのこと?」
「ええ、そうです」

わたし思わず口走りそうになりました。
「あんたねえ、それ本気で言ってるの?」

うちは、一週間に36リットルの灯油を使い、石油ファンヒーターをバンバンまわしております。
いったい、この冬に暖房費が何ぼかかるんですか。

で、どうしたかですって。

ま、そうですかとおっさんに言って、二つの空の赤い灯油タンクをそのまま持って家の玄関脇に置いたわけですよ。

それで、ですか。

当然のことながらうちの奥様が今でもお買いになっておられるわけですよ。
夜陰にまぎれて、わたしが自分の石油ファンヒーターに給油するわけですよ。

大変ですよ、うちの奥様は。
わたしは、夜毎寝る前に奥様のおられる方向に手を合わせておるわけですよ。

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2011年1月20日木曜日

料理においてもっとも大切なもの

先ほどのブログにわたしがあえて妻子持ちと書いたのには理由があります。
ごくごくつまらない理由が。
それは、彼らがわたしの料理を食べてくれないということです。

わたしは妻子持ちでありながら、一人暮らしをしているのです。
その一人暮らしのわたしが、料理においてもっとも大切なものをここに披露しましょう。

料理においてもっとも大切なものは、
心でも、味加減でもありません。

料理においてもっとも大切なものは
食べてくれるその人であります。

料理の腕は、食べ手が上げてくれるのです。
それが、料理の持つ秘密です。

このことは、遠い先にあらためて取り上げるかとも思いますが、とても深いお話なのです。
ねっ、会田師匠。

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2011年1月19日水曜日

我に一人の師匠いて

ご存知のようにわたしは妻子持ちの男です。
その妻子持ちは、料理好きであります。
その料理の師匠が会田さんです。

その師匠いわく、素材に対して料理の仕方は基本的に六つある。

生で食す。
焼く
煮る
揚げる、炒める
蒸す

そのような師匠です。

驚くべき師匠は、剣道の達人でもあります。
師匠は、お店をもっておられますが、あえてここには記しません。
わたしの大切な癒しの空間です。

師匠は、料理と一緒に空間も提供してくれているのです。

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圧倒的な小三治

お世話になっている方に寄席へ連れて行ってもらいました。
長時間、寄席の空気の中で漂うように、い、続けていたのですが、出来事はその最後に待っていました。

そのとき、わたしは衝撃的な小三治と遭遇したのでした。
何もかも根こそぎ持って行かれてしまう体感を受け止めました。

落語というものがどのようなものなのか 。
それが、想像もできない方向から押し寄せてくるのです。
津波のようでもありました。

人は感動のただ中で身動きができなくなることがあります。
わたしはいまだにその津波に飲み込まれたままです。

小三治、72歳。

今が旬の噺家です。

年をとることへの淡い恐ろしさが、年をとることへの誘いに変わっていく瞬間でありました。

自分自身の存在を根こそぎもっていかれた夜を経験させていただきました。
生きていることを深く味わった夜でありました。 

ラベル:

2011年1月17日月曜日

「ヒットマン」を好む


15日の土曜の夜は、これでも見て眠るかと「インディージョーンズ 最後の聖戦」をテレビで見始めたのだが、すぐにまあいいかと思い消してしまった。
映画として面白いは面白いのだろうが、別に見なくてもなあ、と思ってしまった。
そのときに二、三日前に放映されていたらしい「ヒットマン」を思い出し、あれのほうがずっとわたし好みだと思った。
(この映画は2007年に試写会で見ていたのです)

どういうわけでわたしが「ヒットマン」の方を好むのかはわからない。
けれども、そういう自分とつき合っていけば、いずれ「ヒットマン」を好むわたしをもっと詳しく知ることが出来るように思う。
自分のことだから、なんの問題もなくわかっていると思うのは随分危険なことで、自分なんて意外と得体の知れないものだと思うし、感じもする。
わたしはなぜに「ヒットマン」の主演女優オルガ・キュリレンコに惹かれるのか。
おおよその理由は経験的になんとなくわかる。
なぜ、ヒットマンであるエージェント47の生き方に思わず魅入られるのか。
これも経験的にはおよその見当がつく。
それに対して「インディージョーンズ」には、わたしの気持ちを引っ張る者はいない。
なんなんだろうな、わたしは、と思う。
わたしと密に付き合うことによって徐々にわかっていくしかないのだろう。
ところで、以上はエンターテイメント映画としてどちらがああだこうだという話ではないことは、あなたが読まれたとおりです。
ご了承ください。

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2011年1月16日日曜日

シャポールージュ

吉祥寺に洋食の名店あり。

わたしが昨年、辛く落ち込んでいたときにそばに寄り添ってくれていた人と吉祥寺で会った。
念のため、「辛く落ち込んでいた」のはわたしが勝手にそうなっただけの話で、ほかに大きな原因があるわけではない。
たいてい人はそのように手前勝手に落ち込んでしまう。
そして、落ち込んでいる状態が手前勝手な原因だからすぐに解決するかといえば、決してことはそんなに簡単ではない。

人は自分の持ってしまった物語に殉じて生きているわけだから、自分の物語にしたがってそう思ってしまえば、抜け出しがたい。

ANYWAY

恩あるその人と吉祥寺で会い、「シャポールージュ」で食事をした。

この「シャポールージュ」が素晴らしかった。

二人は「きのこのクリームソースかけハンバーグ」を楽しんだのだが、この空間で、この接客で、このベシャメルソースで、この人と食べるのかと思うとき、救われた気分になった。

吉祥寺はこのようなお店を抱いている街なのだなあと二人で井の頭公園を散策しながら話した。

けれども安直に行けば出会えると思ってはならない。
最初に書いたように「シャポールージュ」は名店だが、名店であるだけに人を選びもする。

もしあなたが吉祥寺に出向くことが出来るなら、もしこのお店に出かけてみようと思うなら、素晴らしき邂逅に恵まれることを切に願う。

出会えるということは幸せなことなのです。

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2011年1月15日土曜日

甘納豆を食す

「甘納豆を食す」なんて気取って書いてはみても、なに、ただ、人からいただいた甘納豆を食べているだけのことなのですが…、これがまたえらくうまい。
だいたいが甘みというのはこういうふうに効かすのかと納得させる押さえ加減にしばし黙祷…違うか。

「味の花壇」の甘納豆、うまいでげすよ。
な~んてネ。

ちょいと、あの黒門町、八代目桂文楽の逸話を思い出しまして、いやなに、あの「明烏」で甘納豆を食べるシーンがあまりにも絶品で寄席の売店の甘納豆が売り切れたという、あれ。

それとは話がぐいとずれますが、うまいものなんですね、甘納豆って。
うん、確かにうまい。
これは、間違いなく牛丼を超えるうまさだ。
当たり前かな、牛丼より高いんだから。

これは、職人の技ですね。

たいしたもんだ。
素人が食べても、甘納豆の向こうに職人が見える。

「へい、うまかったよ」

って、黒門町ならついと立ち上がって言うんでしょうね。

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逆流性食道炎

年を取るとあきまへんな。
昨日の牛丼でやられてしまいました。(正確には牛飯ですけど)
胸焼けというか、胃もたれというか、要は持病の逆流性食道炎発症。
(胃薬飲めば治るんですけどね)

けど、入ってましたよ松屋さん。
すき屋も入っていました。
吉野家さんは…残念ながら我が家の近くにないんですよ。

こういう身体の状態になってみると(たいてい牛丼の後にはなるんですが)、なんかよくないんだろうな牛丼はと思います。
でもまあ、この値段で健康にいいというのもなんか変ですよね。

だから、大根を食べましょう。
いま、大根は安いですよ。
食べ出がありますよ。
それに胃もたれも胸焼けもしない。
ジアスターゼがありますからね。

存在するんですね。
安くて、うまくて、健康的なものも。

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2011年1月14日金曜日

牛丼戦争真っ盛り

牛丼の安売りが始まっている。

わたしもたまには外食してみるか、今日はそんな贅沢をしてもいいか、などと朝からそわそわしてこんな時間に目が覚めてしまった。

写真は吉野家のものだが、この吉野家は味にこだわっているそうな。
だもんで、吉野家はアメリカ産牛肉のみを使用しているんだとか。

アメリカ産牛肉ってうまいんですか。
(味付けもあるんだろうけど…)

一方、松屋はオーストラリア産、アメリカ産、カナダ産を使用し、すき屋はオーストラリア産、ニュージーランド産、メキシコ産を使用しているらしい。
(へんてこなことに詳しい男が言っていた。まあ、間違っていても大勢に影響のない情報だと思う。怒られるかな、吉野家さんに。…アメリカ産が一番うまいんだって、うちの秘伝のたれによく合ってとか。)

ちなみに、ずっと前に書いたけど松屋だけは牛飯と呼んでいる。
(なんでですかねえ)

「うまい、安い、早い」の吉野家さんですが、わたしなど貧困なる者の感覚では、何と言ってもまず「安い」が最初に来る。
でもって、これだけのものが食えるのかとしげしげと牛丼を見つめ、いきなりがっつく。
このときのうまさは申し訳ないが、どこの牛丼がどうのというより、牛丼一般がうまいという感じなんだよねえ。

牛丼のうまさを考えるというのは方向が違うように思うんですけど…
もっとうまい牛丼はありますから…
ずっと値段の高い店に。

思うに(当てにはなりませんが)、牛丼は安さがそのとっぱじめにくるのではないでしょうか。
味にこだわるのはとても重要ですが、そのことだけをあまりにも深追いするのは、危なっかしく思うのです、吉野家さん。

吉野家さんの牛丼価格、いまのセール(11日~17日)で280円なり。
すき屋は250円。
松屋は240円。

この差額って牛丼を食べる多くの人にとって大きいんじゃないですか。
だって、わたしには大きいですから。

すき屋に店舗展開数一位の座を譲った吉野家さん、方向を過たずにおきばりやす。

で、…わたしは、今日の久々の外食はやっぱ松屋さんかな…

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2011年1月13日木曜日

おろしそば

写真は越前おろし蕎麦ですが、こんなに上等でなくてもいいいのです。
ただ蕎麦だけがあって、それにそばつゆをかけた大根おろし。
これだけで十分です。
たまりませんなあ、ご同輩。なお重要な情報が抜けていましたので、ここに追加いたしいます。

乾麺もよろしいが、加ト吉の八割そばもいいいですぞ。
冷凍ですが一分弱茹でればいい。
(茹ですぎる泣きまする)

というわけで、この冬に冷たいおろしそばをいかがですかな。

「おろしそば」というのは他にも温かいのやら、そばの上にぶっかけたのやら、いろいろとありますが、わたしの言う「おろしそば」は、いたってシンプルで冷たいものです。

うまいと思うんだが、わたしだけかなあ…そう思うのは。

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いい番組に当たる確率

どうしようもなく落ち込んで何も出来ない日々が続いたことがあった。
そういうときにテレビは助けになった。
テレビの中のどうしようもない番組を見ていると、時が過ぎていってくれた。
単なる時間の経過は何ももたらさないけれど、何もせずに時間の経過をダイレクトに自分の身体で受け取ることは弱ったわたしにはきつかった。

だから、わたしはこのごろのテレビ番組のことを少しはわかっている。
ひどいもんです。

これはこれはと目を見張る番組に出会えるのは、日に一度あるかどうか、場合によっては一本もない。
テレビから何かを得ようとしているのなら、それは大変に効率が悪い。
何かを求めるなら、テレビ以外のものがいいと思う。

けれども、そのテレビがわたしのしんどい時期に寄り添ってくれていた。
ひとによっては、それがゲームだったりネットだったりするのかもしてない。

そういう一見、無駄な時間を過ごしているように見えるひとにもそれなりの理由はある。
理由はあるが、わたしのテレビを見ていた時期がテレビ番組の質を上げるわけではない。

テレビを見るのは無駄な時間を過ごしているのとほぼ同義だと思う。

その無駄な時間が救ってくれるときもあったという話をここに書いてみただけのことです。

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2011年1月12日水曜日

ブラックチェンバー

結論から言えば、読まなくてもよかった作品でした。
大沢氏の提供する情報が豊富でついつい最後まで付き合ってしまった。

この作品は、エンターテイメントの醍醐味として新宿鮫シリーズの中の「狼花」よりかなり劣っているだろう。(「狼花」も情報量が大きかった…うん、記憶は確かかな)
おそらくキャラに魅力がない、キャラが立っていないところにその原因があるように思う。

その「狼花」にしてからが、新宿鮫シリーズとして上位ではあるだろうが、特に上位に取り上げる作品でもないのだから、ここに上げた「ブラックチェンバー」の大沢作品における位置付けは、中位と考えていただければいい。
わかりやすく書けば「新宿鮫」以降の大沢作品の中くらいです。

ただし、その情報量の多さ、取材力には頭が下がる。
取材なんですね、小説を裏打ちするひとつの大きな要素は。

そういえば、2006年「狼花」以降新宿鮫シリーズは出版されていない。
いまは「ほぼ日刊イトイ新聞」で、シリーズ十作目になる「絆回廊」を連載しているという。
サイトまで行って読むほどわたしは元気がないが、それでもうまくいけばシリーズ次回作が今年中に読めるわけだ。
小さな楽しみが一つ増えた。

大沢さんも大変ですね。

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2011年1月11日火曜日

見るのではない読んでいるのだ

人が自分の目の前にあるものをただ眺めているうちはいい。
眺めているうちはいいが、人がそれに対してある反応をする場合、人は自分の持つ物語に従って、目の前の現象を解釈する。
その人にはその人のものを見る癖があるというわけです。
その癖の大元となるものをここでは物語と呼んでいるのです。

自分の持つ物語をその人がどのように採用したかはその人その人の歴史があり、ばっさりとは言い切れない。
ただ無垢な目ではなく自分の採用した物語にしたがってその人が現前の出来事を解釈し、怒ったり、喜んだり、泣いたり、無視したりするのは事実である。
まあ、そう思っておいて大きな間違いはない。
(このわたしの話自体、わたしの物語による判断です。
 わたしもまた物語から自由ではないのです)

で、この持ってしまった物語ですが、いったん持ってしまうと、ひょいひょいととっかえひっかえできるものではないらしい。
だいたいが自分の保持する物語を自覚している人自体それほど多くはない。
自覚していないものは変えられない。
自分の中の物語の存在を知らないのだから変えようがないわけだ。
そして、さらに始末が悪いことに、多くの人は自覚なく持っている物語を信じきっており、その物語に従って正義を振りかざす。

その正義にわたしなどは何度痛めつけられたことか。
その人の持つ物語、その物語によって解釈された彼の意見は尊重されなければならない。
ところが困ったことにわたしはそれを絶対的なものと見ない。
(もちろん、わたしの持つ物語もだ)
そういうわたしの雰囲気が彼らを刺激する。

実は今日、そういういやな出来事があった。
ひたすら耐えたが、気分はよくない。

だけどねえ、相手は自分の解釈を絶対だと思っているし、その解釈がおかしいと言ったって聞きゃあしないのだ。
おかしくても相手の怒りを聞いているしかない。

ひょっとするとこういうところに争いの原因はあるのかもしれない。
大きく言えば戦争まで。

「見ればわかるのに」と思ってはならない。
相手は自分の持つ物語に従って目の前にあるものを読んでいるのだ。
そして、参ってしまうことに相手は自分がただ見ているだけだと思っているのです。

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大根おろしにて蕎麦を食す

大根おろしを多めにすりおろし、それに出汁やしょうゆやあれやこれやを使って蕎麦つゆらしきものを作っておく。

蕎麦は乾麺がよろしい。
生麺は中途半端で、始末に悪いことが多い。
その点、乾麺は保存はきくし、どうしてなかなかおいしいものである。

茹で上がった蕎麦を盛り蕎麦にして食すわけです。
「おろしそば」とでも呼ぶのだろうか、先ほどの汁にどぼどぼと浸して食べる。
これがうまいのなんのって、あぁた、やめられませんよ、もう。

この時期、大根がうまいとしみじみわかったのは今年です。

大根との出会いをもって今年はよかったと思います。
すでにそんな気分であります。

これから幾つかの大根料理を作り、〆は「ふろふき大根」と思っています。

できれば、誰かに食わしたいのですが、大根の味がわかるには年月がかかるからねえ。

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わたしの風邪は咽喉からです

今朝起きたらノドが痛い。
こりゃ、風邪引いたな。
どこか気を抜いていたんだな。
しょうがないな。

まったくもってこの根性なし。

問題はこの風邪の重さだが、軽くてすんでほしいものだ。

あなたも気をつけてくださいね。

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2011年1月10日月曜日

今朝はマイナス1度なり

雨戸を閉めた室内。
それも無敵の電気毛布の中。
そこへしんしんと寒さが忍び寄る。

寒いねえ。
寒いはずだよ、マイナス一度です。

こうなると電気毛布だけではさすがに心もとない。

今日は秘密兵器、石油ファンヒーターを使用するとするか。

それにしても灯油、高くなったね。
今年になって値上がりばかり。
おちおち人とも会えない。
いやいや、もともと会う人がいないか。
とほほ…

とほほ二連発でした。

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2011年1月9日日曜日

とり大根

食欲が戻ってきている。
料理してみようという思いが起こっているのが何よりその証拠だ。

わたしはもともと料理が好きでした。
でも徐々にその好きだった料理をすることは少なくなっていきました。
食べてくれる人がいないから、楽しくなくなってきたんですね。
哀れな男でしょう。
そうなんです。
哀しい男なのです。

そのわたしが、積極的に料理をしようと思い立ちました。
気まぐれでしょう。
それとも大根に目覚めたからなのでしょうか。

選んだのは「とり大根」圧力鍋編。
詳しいレシピは省くとして、めちゃくちゃにうまかったです、味見したとき。
要は、圧力鍋を使用すること。(好みでは「とり大根」の場合、大根はある程度くたくたになったほうがおいしいですから)
水は少なめ、代わりに酒を大目に使うこと。(後は適当に調味料ね)
ぱらぱらとお米を入れてから煮込み始めます。
20分から30分がめどです。

画像を入れたかったけどデジカメが調子悪くて。

ところで、みなさんは料理において一番大切なことは何かご存知ですか?

出汁、水、真心、…
まあいろいろとご意見はおありでしょううが、わたしの思うにそれは、食べてくれる人がいることです。
それも味のわかった、心優しい人が。

人生なかなかうまくいきませんね。
とほほ…

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容疑者Xへの献身

テレビで「容疑者Xへの献身」を見た。  
これがなかなかいい作品に仕上がっていた。
おそらく受信者のわたしが原作をしっかり読んでいたことに負うところもあったのだろう。

原作に支えられての佳品。

そういった印象を持った。(ほめすぎかな) 
そういう映画に思えた。

そんな感想を胸のうちで転がしていると橋本忍を思い出してしまった。
橋本忍があるとき原作と映画の関係をインタビューで質問されて答える。

オリジナル脚本ばかり書いていた橋本に対して師匠の伊丹万作に「きみは原作ものはやらないのか?」と聞かれたときの返答である。                 

「ぼくはやったことないけど、やるんだったらこんなふうにやりたいです」

正確には引用しません。

それは、こんな感じの答えだった。                                        

ぼくは原作の姿形なんてまったくいらない。

ほしいのは原作の生き血(なんなんでしょうね。含蓄ありますね。)です。だから一度読んだ原作は二度と読みません。

脚本を書くときも読み返しません。(資料として調べてはいるのだろう)

小説と脚本はそもそも全然違うんだから、こだわっても意味はない。  

脚本を書くときに原作を読み返さないといけないときは、失敗作です。

伊丹万作はその答えに「きみの言うとおりかもしれない」と納得しながら付け加えた。

けれども世の中には原作と心中しなければいけないものもあるよ。

橋本は心中しなければならない原作には出会わなかったと後に語っている。

そんな彼の原作ものの代表作は「砂の器」である。     

小説と野村芳太郎のあの映画と比べてみればその志の高さに打たれる。

松本清張もまた自分の作品で映画化されたもののなかで一番よかった映画は「砂の器」だと語っている。       

清張もなかなかわかっていたのです。

転じて「容疑者Xへの献身」。 

わかっていますよ。  

そういう比較はあまり大きな意味はありませんね。  

映画「容疑者Xへの献身」は映画という表現媒体で小説になかった細やかな部分を表現していましたね。

もちろん小説にあったものが抜け落ちてもいました。 

それは小説と映画との表現媒体の違いです。

それを追いかけるように福田靖に橋本忍をねだってもねえ。                         

いま脚本に注目している人はどれくらいいるのであろう。

山田太一、倉本聡、向田邦子というテレビの世界ではなく、映画の脚本の話なのだけれど…                  

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貧困なる者の暖房

寒い日が続くが、今日は昨日に比べてなんだか暖かい。
この温かさにふとうれしさがわくのは精神の弱りのせいかもしれない。

で、表題の貧困なる者とはわたしのことだが、わたしの暖房の主役は電気毛布です。
価格は安いし、部屋の中の移動には案外自由だし、電気代もたいしてかからない。
頭寒足熱を考えれば理想的ではないかな。
上半身を衣服でしっかり覆えば、たいていの寒さはしのげるし、いざとなれば身体全体を電気毛布の中に入れてしまえばいい。

ん?
暖房具を云々できるというのは貧困者ではない!?
なるほどそうかもしれない。

けれども私見を言わせていただくなら、暖房もままならない生活をしているとしたらその人を貧困者とくくるべきではないかと思う。
貧困者とは別にカテゴライズして考えてみたほうが、この社会が見えるのではないだろうか。

ま、とにかくそのようにしてわたしは寒さをしのいでいる。
それに昼間なら暖房のある公的な場所に逃げ込めば、いたって快適であるし…

けれども、わたしの住処で電気毛布を主たる暖房具にしているのはわたしだけで、細君も子どもたちも石油ファンヒーターで活動的に暮らしている。

わたしだけが電気毛布に力を借りて逼塞しているわけなのです。

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2011年1月8日土曜日

ただ眺めるだけでは足りない

将棋について書いたときにただ眺めているだけよりも自分も将棋というゲームに熱中したほうがより多くのことが見えてくる。
そういう意味合いのことを書こうとしました。

それはわたしの体験からなのですが、事実です。
ただし、ものによっては圧倒的に見ることによって対象に対する視線を鍛えるということはあると思います。
量が質に転化するわけですね。
そういうことは置いておいての話だと思ってください。

自分の好むもの。
それが野球であろうが、絵画であろうが、小説であろうが、囲碁であろうがです。
実際に自分が野球をやっていたほうが、絵画を描いていたほうが、小説を書いていたほうが、囲碁を打っていたほうが、確実に対象に対する視線は鍛えられます。

かかわりが深くなるのですね。
(ぼけーっとやっていちゃダメですよ。深まりませんよ。)
その鍛えられた視線でプロを見れば、伝わってくるものが違います。

伝わるものは受信者の受容能力によるからです。
受容能力を育てるのには実際にやってみることが有効です。

知りたければ実際にやってみなはれ。

大きく出れば人生も同じことです。
だから、人生においては無駄なことにも意味が生じてくるのです。
もっともわたしくらい無駄を重ねると命取りになってしまいますがね。

本日は王将戦の第一局目の初日でした。
久保王将対若き豊島将之六段の一戦です。
プロはほんとすごいです。

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場の空気とあなた

「そうだったのか、竜崎さん」についてもう少し書けという要望があったので(うれしいことに)ここに付け足すことにします。

あの中で「場の空気」というのを持ち出していますが、これはある種の人種にとっては厄介なものです。
単にその場その場には「場の空気」がある。
それだけのことだったら、まあそういうものでしょうで終わるのですが、なかなかどうしてそういうやわな存在ではないのです、場の空気は。
その厄介さは、その場においては何よりも「場の空気」が優先されるところにあります。

その場その場にはそこ特有の「場の空気」があり、それをその場にいるみなさんはとてもとても大事にされている。
それが辺境人の特徴なわけです。
「場の空気」は知らぬ間に熟成されており、その場の構成員はそれを暗黙裡に守り、壊さぬことになっています。
ここでのポイントは、「場の空気」の妥当性ではなく、それが守るべきものとして存在しているということなのです、F君。

竜崎のやったことは警察庁の「場の空気」を破ることだったのです。
タブーを行ったわけです。
これは必ず袋叩きに合います。
彼が即座に袋叩きにならなかったのは彼がキャリアでかなりの地位まで上がっていたからです。
それでも「場の空気」を破ることはご法度であり、それが正しいことであってもしてはいけないことなのです。

「正しさ」よりも「場の空気」を重んじる。
これが辺境人の特徴です。

あなたがいる場でうまくやるためには、まず何よりも先に「場の空気」を自分の身に着けること。
そしてその場に十分になじみみんなと仲良くすることなのです。

正義を振りかざしてはいけません。
論理的に正しいということは「場の空気」の前では無力なのです。
同義的におかしいという指摘も「場の空気」の前では何の批判にもなりません。
強く言い切ってしまえばそういうことになります。

だから、何の力もないあなたが「場の空気」を読まずに、あなたの正義を無謀に「場の空気」にぶつけてはならないのです。

こんなことでよろしいでしょうか、F君。
お気をつけあそばせ。

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今日は少し暖かいけど

いやはや老人の愚痴としてお聞きください。
今日は少しましなのですが、それでも十分に寒いではないですか。
寝床の中でも寒いこんな休日の早朝、すでに一時間前に仕事に出かけたわたしの数少ない友人の一人がいる。

こういう若さには頭が下がります。
気持ちから老け込むというのはまさに事実ですね。

みなさんは寒さに尻込みしていませんか?
老け込んではいませんか?

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2011年1月7日金曜日

寒さ厳し

寒かったです。
こうなると何か退嬰的になりますね。
心意気というものが問われます。

子供は風の子…
いやいや
子供は数の子ニシンの子
でしたか。

体調にお気をつけください。

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坂の上の雲

NHKで「坂の上の雲」が映像化されているが、ひと言。

NHKが映像化したことは好もしくないが、それは個人個人で意識をもって対応していけばいいい。けれどもそれがいつしか司馬遼太郎批判につながるのはどうだろうか。
生前、司馬さんはこの作品の映像化を再三断っている。
また、司馬さんは日露戦争以降を小説作品として書いていない。

それが彼の良識だ。

また、司馬史観云々もよく見聞きするが、どれだけわかって発言しているのだろか。
物事をごちゃごちゃにしないで、しっかり見聞きしていこうではないか。
NHKが「坂の上の雲」をテレビドラマ化したことにはいろいろと問題があるだろう。
だが、それと小説「坂の上の雲」は違う。

わたしは小説「坂の上の雲」をいい作品だと思っている。
あの時代は、日本を大国にしようと必死だったのである。
その時代に生きる人々を司馬さんは書いた。
書かれた人々が権力の中枢部の人間中心になっていくのは致し方ないと思える。

それが、小説「坂の上の雲」の限界だ。

そんなことよりこの今の世の中でもまだ日本が大国だと幻想していたり、大国たらんと考えてているほうがもっと問題ではないか。

しかしまあなんと、NHKさんはこの時期に「坂の上の雲」ですか。

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2011年1月6日木曜日

第36期棋王戦挑戦者決定戦

渡辺が勝った。
これで久しぶりの竜王戦以外のタイトル戦登場となる。

もしかするともしかしてしまう。
つまりは今年は渡辺が暴れるかもしれないということだ。
わたしはファン心理というものの希薄な男であるが、この渡辺にはなぜか肩入れしている。
なぜかはわからない。
ま、贔屓するということはそんなものだろう。

この将棋129手目に広瀬王位が4八へ金ではなく銀を打ちつけていたらどうなっていたのだろうか。
将棋とは恐ろしく奥の深いゲームである。
わたしが将棋を多少なりとも知っていることは、わたしの数少ない財産のうちのひとつだと思う。

いくつかのことを将棋に教えてもらった。
何かを深く知るということはいいことだと思う。
出来れば実戦者として確認しながら知っていきたいものだ。
そうしているうちにその世界が何かを教えてくれる。
ありがたい瞬間が訪れる。
ふわりと胸に落ちるそれには想像以上の確かさがある。

広瀬の粘り強さも目を見張るものがあった。
深浦から王位を奪取したのはだてではない。

渡辺は分の悪い久保棋王とどんな将棋を指すのだろう。
わたしの暗い人生に楽しみがひとつ増えた。

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2011年1月5日水曜日

そうだったのか竜崎さん

今野敏描くところの竜崎伸也にある種の哀切と痛みを感じていたのだが、それが少しはっきりしてきた。
竜崎は日本人的ではなかったのだ。
言うところの辺境の資質をあまり持ち合わせていない。
そこがポイントだったのだ。

「場の親密性を自分自身のアイデンティティの一貫性よりも優先させる」
あの親しさへの固執を持ち合わせていない。

そこに時に痛快で、痛ましさもかもし出させる要因がある。
そういうことであったのだろう。(たぶん…、弱気だね…、まあ辺境人ですから)

そういうわけで竜崎にはある程度高位の警察官僚という役どころが必要だった。
でないと、単に袋叩きに合うだけだから。

その意味では竜崎は辺境人でないことだけを目指して作られた主人公かもしれない。
してみるとなかなか深い小説ではありませんか。

ふむふむ。

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羽生の感慨

NHKで爆笑問題と羽生善治が話をしていた。
なにかあるかなと思って聞いていましたが、何と言うこともなく過ぎていきました。
が、強烈に印象があった会話がひとつありました。
詳しくは書きませんが、大田の発言を受けて羽生がこう答えたのでした。

「そうなんですよ。
 かつて仲間と将棋の研究会なんかしているとあっという間に一日が終わってしまっていたんですけど、  
 そんなとき、こんなことしていていいのかなと思ったことはありましたね。」

そうなんだよな…、将棋なんてどうでもいいことなんだから、そう思ってしまうよな。
すごくよくわかった。

でもまあ羽生にとっては、将棋はかけがえのないものだから彼はその船に乗ってここまで来たわけで…、ホントよかったなあと思う。
面白そうだなと思うことをやって、人生、時が過ぎてゆけばこれほど素敵なことはない。

実は社会的にどうしても必要な仕事ってそんなに多くない。
それでも社会の片隅に生きさせてもらっているわけで、わたしなんかその際たるものなんだけど…

そういう目で見てみれば、この社会、何者が何をしているかが違って見えてきたりする。

わたしなんか本当にどうしようもなくいらない存在なんだよな。
で、どうするかになっていくんだけど、仲間を大事にしなさいってことかな。
(違うかもしれないけど…)

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2011年1月4日火曜日

夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり

自分の中の好悪の感情が自分の今ある状態を教えてくれる。
そういうことを思っています。

自分自身のことだから当たり前のようにわかっていると思っているのなら、それはおそらく恥ずかしいことではないでしょうか。
自分のことだとて、しっかりと自分とつき合っていなければわかるものではありません。
よしんば、自分と心してつき合っていたとしても自分の今ある姿はなかなか見えてはこないしろものだと思います。
だから、自分の中の好悪の感情とつき合うのは自分が何者かを知るうえではとても大切なことだ。

それだけですべてわかるわけではないのだけれど、それでもそっくり返って自分とつき合わないでいるより随分ましだろう。
わたしなど今頃になってようやく少しだけ自分がわかった気分でいる。
そのわかった自分も日々変化しいているのだから、辛抱強く自分と仲良くしていくしかない。

自分を大切にするというのは畢竟そういう行為なのだろう。
それはそのまま誰かを大事にするということにもつながる道だろう。

このところ食欲が少しある。
その食欲の中で自分の変化に少し気がつきました。

今まではそれほどでもなかった「大根おろし」が無性に恋しいのです。
明らかに味覚の変化、あるいは身体の求めるものが変化してしまったようです。
こういう好き嫌いのことを大々的に述べるのは気がひけますが、とにもかくにも「大根おろし」がなくてはやりきれないのです。

好き嫌いをはっきり言うことがひとつの芸になる。
わたしが好き嫌いを語るときはそういうふうでありたいものです。

興味もござんせんでしょうが、
わたし、「大根おろし」に焦がれております。

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2011年1月3日月曜日

大宮八幡宮

お正月も三日目になれば初詣の人手も随分少なくなっていた。
お願いしたことがあって通りかかった大宮八幡宮に寄らせていただいた。

そこでしみじみとお願いした。
大宮八幡宮からの帰るさ、自分が他人の幸せをあんなにも深く願ったことがなかったことに気がついた。
得手勝手な生き方だったから謙虚というものから遠かったのかもしれない。

幸せを願った相手は赤の他人というわけではないが、それでも他者であることは間違いない。
やはり自分以外の人間に目がいくことが少ない生きようだったのだ、わたしの越し方は…

しかし、他人のことをあれほどまでにお願いするのは自分の非力さを痛切に味わっているからだろうなあ。
神頼みをしてしまうことがある。
そういうことを大宮八幡宮で実感した。

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2011年1月2日日曜日

カサブランカ

長く見ていなかった「カサブランカ」をようやく見た。
いいものでしたが、その良さはわたしにとってはたまらないところがあった。

なんと言ってもこの映画で描かれるラブロマンスのお話、とくにバーグマン演ずるイルザの側から語られる錯綜した彼女の恋のお話はもう目茶苦茶で頭が痛くなりました。
その目茶苦茶さをそのままに写し撮ったところがこの映画のよさだったのですね。

あの筋の通らない話をよくストーリーの中で消化していったと思います。

もともと恋愛の話など複雑化してしまえば、わけわからなくなるだけのものでそれを整理しようとするところに無理ができ、不自然になる。
その点、この「カサブランカ」はそのわけわからない恋愛ごとをよく耐えてそのまま映画の中にしまってくれたと思います。

ことほどさようにラブロマンスなどというものはいったんこじれると収拾がつかなくなる。
「カサブランカ」は作り物だからきわどい剣が峰で立ち止まっておりますが、現実ではそうはまいりますまい。
恋愛ごとの刃傷沙汰なんてものはごくごく自然な成り行きだとわたしなどは思っているわけです、…はい。

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「武士道エイティーン」最終章直前

「武士道エイティーン」と方向性との絡みで書き残したことがひとつありました。

本作は十三章からなりますが、その最終章前、第十二章「シュハリ!」。
「シュハリ」とは「守破離」と書く。
武士道の範疇の言葉だが、わたしの言葉で言えば方向性を睨みすえた言葉。
こういう章タイトルが出てくるところが泣かせるんですよ、この小説たちは。

「守破離」

この言葉を書き忘れたなと思って気になっていました。
ここに付け加えておきます。

内容は深いですぞ。

でも小説の中での誉田さんの説明、いい感じだと思います。
少なくともわたしはしみじみ教えられました。

そうか、自分の方向というのはそのように守っていくものなのかと。
いい小説ですぞ。

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2011年1月1日土曜日

ベクトルとしてのあなたへ

ベクトルというのは数学あるいは物理学の基礎概念ですが、方向と量(絶対値)からなります。
その程度のベクトルへの理解でわたしの話は始まります。

宣言すべきことは、わたしが方向を重要視する人間だということです。
わたしはあなたがどちらを向いているかを気にします。
わたしは風がどちらから吹いてきたかに注意を向けます。
わたしは誰かにあるいは何かにどちらの方向に押されているのか、引っ張られているのかを意識します。

方向を重要視するというのはそういう意味です。

さて、誉田哲也氏の武士道シリーズでは主人公は剣道に対して正対しようとしています。
正対の仕方が問題になるのですが、細かいことは見ずに剣道に向かっているという乱暴な言い方をすれば主人公を中心に登場人物のほとんどが同じ方向を見ています。
けれどもこの世の中、剣道だけがすべてではありません。
ですから、この小説シリーズにもあれやこれやといろいろなものが割って入ってきます。
入ってきますが、ひたむきと言っていいほど基本的には剣道の方向を向いているのがこの小説に登場する少女たちの特徴です。
そのなかでぴか一の方向性の安定感を見せるのが主人公の一人、磯山香織です。

ま、わしゃこの娘が好きなわけです。
その純度にほれるわけですよ。
方向性の純度に。

もちろん磯山は剣道に対して一直線ですからかなり強いわけです。
めちゃくちゃ強いと言ってもいいかもしれません。
絶対値も備わっているわけですね。
だから周りは彼女の強さ、つまり絶対値に圧倒されます。
けれども、この小説群のいい点はしっかりと方向性にこそ問題が潜んでいることを書き込んであるところなのです。
強い磯山がいかに自分の方向性に悩み、その方向性をあるときは自らいじり、周りからいじられ、さらにどのように堅固にしていくか…、そういうわけで「武士道」シリーズというタイトルになっているのですね。
「武士道」とは磯山の見つめる方向性なのです。

その方向性である「武士道」への磯山の目線が「武士道エイティーン」では試されていくのですね、世の中に。
仕方ないわけです、磯山も年を重ね世間との接触が多くなっていきますから。
その仕方のない中で彼女はどのように自分の方向性を守っていくのか、それがこれからのこの小説の行方であって、これは青春小説の域を大きくはみ出してしまいそうです。
そういうわけでこのシリーズのどの作品がいいのかは別にして、わたしは、前二作に方向性の純度を痛く感じたわけです。

ちなみにこの世の中にはこの世の中の好む方向性がありまして、人はその方向性にあわせて自分の絶対値を大きくしていくというのが常道です。
そうすることで効率よく世の中の評価を得られますから。
ま、それはそれ。
文句は言いますまい。

問題は、わたしはその世の中が要求する方向をあなたが向いていなくてもあまり気にしないということです。
また、どの方向を向いていようと絶対値によってだけの評価はしませんよ、ということです。
わたしは、方向性を追及する純度を評価します。
絶対値は大きいに越したことはないのですが、まあかぎりなくゼロに近くても文句は言いますまい。
あなたが方向性を大事にしているのなら傍に立ちましょうと言っているのです。

そういうことをあの武士道シリーズを読みながら思っていたのですよ、わたしは。

色づけということを少し前に書きましたが、色づけとは方向性のことですよ。
わたしなど単純な人間ですから、もうこればっかり、方向性一本やり。

その意味でこの武士道シリーズはちょっと感動してしまったのです。
これって、小説としての出来だけの話ではなかったのです。
ですから、ほんとはあなたが読んでおもしろいかどうかはまったく保証できません。
けれどもあなたがいかなる方向を模索しているのであれ、その方向への意思の確かさには必ず共鳴します。
それがわたしです。

わたしは、絶対値より方向を重視するうタイプの人間なのです。

よろしくお願いします。

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井の頭弁財天

ぶらりと歩いている途中に井の頭弁財天にぶつかったものだから、初詣でもせんと近づいて行く。
そうすると、なんとなんと初詣待ちの長~い行列が出来ているではないですか。
行列の最後尾につく力はなく致し方なく立ち去ったのでした。

わたしの力はいまだ雑踏に身を置くことの出来ぬほど。
はかない踏ん張りよなあ…

帰宅して、お世話になっている第六天神社へと初詣に出かけたのでした。

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あけましておめでとうございます

昨日から今日。
あるいは今日から明日。
その移り行きに特別なものは何もないのだけれど、大晦日から元旦にかけてのそれは一年の中では他を大きく離して特別なものとして扱われる。
それが人間の知恵だと肌にしみこむようにしっかりとわたしにわかったのはついこのごろのことです。
(情けないことに)

こういうふうになんでもない日々の移ろいに意味を持たせることはとても大切なことです。
それはあなたにおいてもわたしにおいてもあなたとわたしの関係においてもです。
そのようにすることでしか人は自分の人生をたどれないのではないかといまは思っています。

(それほどにも時間の流れは無意味に感じられてしまうことが多い。
 事実、時の流れは無意味といえば、ほんとうに無意味ではないのかなと思ってしまう。
 生きることに本来意味がないように思えてしまう。
 …だからといって生きること自体が無意味だということとは違うような気分。
 ときに、自分が生きることは無意味だとか、無駄な抵抗だとか思うことはあるけれど、それは、言ってしまえば個人的な感想で何の説得力も持たないしねえ。
 自分に対しても他人に対してもさ。)

無意味の流れに浮かんだ自分の人生に色づけするとすれば大晦日や元旦は意義あることだと思える。
誕生日もそうかな。
クリスマスはいらないか…

ま、好きに色づけして愉快にやっていければ、これほどいいことはない。

そういう意味で「謹賀新年」です。

ご存知のようにわたしは精神的に虚弱で昨年の後半はずっと地の底を徘徊しておりました。
天からの光芒がはっきり見えたのは大晦日のお昼過ぎからでしょうか、断言までしてしまえるとしたら。

というような言い訳もあって、年賀状は一切出しておりません。
このブログが年賀状代わりです。
そういうふうにご理解ください。
わたしが上昇してくれれば、賀状代わりのお葉書をお出ししようかとは思っています。
(失礼な話だね。)

今年を迎えるにあたって、わたしは初めてテレビ、ラジオから遠ざかって時の過ぎ行きを眺めました。
「文七元結」はパソコンだからね。

そういう意味では、自分で色づけた大晦日、そしてこの元旦です。

自分で色づけて日々を眺め暮らしていけるなら、生きていくのもまんざら悪くはないかなとも思います。
誰かからのお仕着せの色づけは拒否しながら慎重に選び取っていくことが出来るなら、わたしやあなたの人生もそう捨てたものではないと思っています。

とにかく時の流れの色くらいは自分自身で描いていきたく思います。

小さな声で、…
本年もよろしくお願いいたします。

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