2011年1月30日日曜日

つい目が覚めて…

つい目が覚めて、後半20分くらいからサッカーを見るとはなしに見てしまったぜ。

あのアジアカップ決勝戦。
日本対オーストラリア。

わたしはナショナリストではないからね。
「patriotizm」は、持っていますよ。
けど、「patriotizm」は愛国心ではないですから…、あれは完全なる誤訳です。
郷土愛、そういう訳の方がずっと正しい。
そういうことを教えてくれた師がいます。

ありがたいことです。
師を持つということは。

で、そういうわたしが何をあの放送で見たかというと、正確には聞いたかというと、解説をする松木、名波、セルジオ越後さんの関係性、彼らのサッカーに対する愛情を聞いていたのです。

試合は、一生懸命でなかなかのものでしたし、李選手のボレーシュート、その前の長友のセンタリングなど見るべき瞬間は大いにありましたが、世界レベルの試合ではなく、大騒ぎするようなものではありませんでした。
ナショナリストでなければね。

で、松木安太郎、名波浩、セルジオ越後の話ですが、松木はサッカーを深く愛しておりません。
単なる太鼓もちです。
ちょうど日本のサッカーサポーターに合っています。
こういう男がサッカーマスコミに幅を利かせているようでは、日本サッカーの障害になります。
まあ、障害になるようなサッカー太鼓もちは多いんですけど、川平慈英とかさ、マスコミ自体がそうだからね。
かなりのレベルの低さですよ。
(どうして、そんなことお前にいえるのかって言いたいんでしょ。言えるんですよ。わたしにはサッカーの師匠もいますから。師匠は、圧倒的にサッカーのことを知っています。南アのワールドカップで日本が勝った理由も彼から教わりました。高地トレーニングがすばらしかったことを。南アで日本が勝った試合会場の標高を調べてみれば、一目瞭然です。…お調べください)

それに引きかえ、セルジオ越後は違います。
彼のマスコミに嫌われる所以です。
彼には、南アメリカのサッカー文化の香りがしますね。

ブラジルじゃあ、サッカーの試合を見て勇気をもらったなんて間抜けなことを言いませんよ。
命がけで応援していますからね。(それがいいとは、単純に思いませんけれど)

けれども、コロンビアでサッカー選手が射殺されたでしょ、サポーターに。
あの雰囲気、すこしだけわかるし、そりゃあ日本とは違うわな、と思いました。

戻って、松木、名波、セルジオの話ですが、徐々に松木の発言は少なくなっていき、最後はセルジオが積極的に話し出しました。
名波もセルジオについて行っちゃった感じで…

黙ってしまった松木の胸を去来するものは、サッカー解説者としてこれから食っていけるのかな、どういうふうに立ち回ればいいかな、だったことでしょう。

昔に戻れば、選手時代、監督時代、松木が、がんばっていたことは知っています。
だからこそ、今の姿は何なのだろうと思っていたのです。
読売クラブの宴会部長に専念しているだけではないですか。

まあ、マスコミ諸君もセルジオさんをどんどん使うようになれば、日本のサッカー文化も変わり、底上げされるんでしょうけどね。

とにかく、いいものを聞かせてもらいました。

こら、松木安太郎。
がんばれよ。

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