わたしの若き友人へ
もちろんわたしに対してもこめての以下の発言なのですが、傍観者の意見には十分に注意していただきたい。
「傍観者」と「当事者」
わたしのよく使うタームです。
このふたつの言葉を語りつくすのは、なかなか大変なので何度でもこのブログでは登場してしまいます。
この概念の具体的ポイントの大きなひとつは、自分であることだけでは自分の人生の当事者にさえなれないということです。
自分の人生の傍観者でしかない人は、探すに困らぬほど多く存在しています。
お前もそうではないかと詰問されれば、わたしは「そうかもしれないですね」と微笑むだけです。
自分の人生を自分自身で引き受けて当事者として生きることは生易しいことではありません。
しかも、処世上、わたしは当事者として自分の人生を生きることを強く勧めることはできません。
当然、当事者性を放棄して生きておられる方を責める気も毛頭ございません。
けれど、伝えておきたい。
当事者性を自分に科して、強く生きていこうとしている若き友人にこれだけは注意してほしいと。
長くなるといけないので、簡単にまとめてしまいます。
(また会うその日にあなたが聞きたければもう少しお話しましょう)
自分でさえ自分の人生の当事者になれないのだから、他者が当事者としてあなたの個人史上に登場してくることは、きわめてまれです。
そのまれの代表が、特殊な母親であり、特殊な恋人であり、特殊な配偶者などです。
キミのつき合う彼女が、当事者性をキミとともに背負うというのなら、それはただ感謝するだけですむようなことではありません。
何があろうとも、自分自身を賭して彼女を愛してあげてほしい。
(たとえ、あなたが彼女を嫌いになろうともです)
それだけが、彼女に報いる道だと今のわたしには思えます。
さて、言っておきたかったことは簡単なことです。
人生の岐路にあるあなたへの忠告、意見は多々あると思います。
そのほとんどに耳を貸さないでほしいということです。
あなたの人生を決めるのは主観的なあなたです。
(自分の人生を決めるときに客観性など無用の長物です)
ただの部外者にすぎない人たちの成り行きの忠告など当事者であるあなたのクソの役にも立ちません。
面白がって意見を言っているだけです。
そのなかに、あなたとともに生きる覚悟、もっと言えば、あなたの今後の失敗をともに背負っていく覚悟はどこにもありません。
どこかで聞いたことをまことしやかに語っているだけなのです。
このようなあなたへの忠告をする人間を専門用語で阿呆と呼びます。
無視しておしまいなさい。
人は他者に迷惑をかけながら生きていく存在です。
そのことを今もなお当事者性と向き合う人間たちは知っています。
だから、あのように彼らのあなたへの意見は寡黙なのです。
当事者性を持ち合わせないどころか、事情も知らず、誰かからの二度や三度のバイアスのかかった情報だけで人を批判するようなちんけな傍観者たちもいるのです。
当事者性を持たぬ人間に当事者性の中で生きることを選択したあなたはかかわってはいけない。
もちろん、彼らを積極的に批判することもダメです。
さてさて、話はつきませぬが、あなたはあなたの人生の岐路をすばやく過ぎていかねばなりません。
そのときに傍観者に足をすくわれる愚を犯しますまい。
当事者の巧遅に歩みを遅くしなさんな。
100パーセント安全で、納得のいく決断などありません。
人は、決断のとき、ある段階で跳ぶのです。
目をつぶって己が運にかけて跳ぶのです。
だからこそ、多くの人はあなたが跳ぶことを止めさせようとします。
わたしですか!?
わたしだって止めたいですよ。
だから、いつも言うでしょ。
あなたが決めることだよ、って。
キミが跳んでいった先に幸せが待っていることを祈っております。
やま本とんぼ
「傍観者」と「当事者」
わたしのよく使うタームです。
このふたつの言葉を語りつくすのは、なかなか大変なので何度でもこのブログでは登場してしまいます。
この概念の具体的ポイントの大きなひとつは、自分であることだけでは自分の人生の当事者にさえなれないということです。
自分の人生の傍観者でしかない人は、探すに困らぬほど多く存在しています。
お前もそうではないかと詰問されれば、わたしは「そうかもしれないですね」と微笑むだけです。
自分の人生を自分自身で引き受けて当事者として生きることは生易しいことではありません。
しかも、処世上、わたしは当事者として自分の人生を生きることを強く勧めることはできません。
当然、当事者性を放棄して生きておられる方を責める気も毛頭ございません。
けれど、伝えておきたい。
当事者性を自分に科して、強く生きていこうとしている若き友人にこれだけは注意してほしいと。
長くなるといけないので、簡単にまとめてしまいます。
(また会うその日にあなたが聞きたければもう少しお話しましょう)
自分でさえ自分の人生の当事者になれないのだから、他者が当事者としてあなたの個人史上に登場してくることは、きわめてまれです。
そのまれの代表が、特殊な母親であり、特殊な恋人であり、特殊な配偶者などです。
キミのつき合う彼女が、当事者性をキミとともに背負うというのなら、それはただ感謝するだけですむようなことではありません。
何があろうとも、自分自身を賭して彼女を愛してあげてほしい。
(たとえ、あなたが彼女を嫌いになろうともです)
それだけが、彼女に報いる道だと今のわたしには思えます。
さて、言っておきたかったことは簡単なことです。
人生の岐路にあるあなたへの忠告、意見は多々あると思います。
そのほとんどに耳を貸さないでほしいということです。
あなたの人生を決めるのは主観的なあなたです。
(自分の人生を決めるときに客観性など無用の長物です)
ただの部外者にすぎない人たちの成り行きの忠告など当事者であるあなたのクソの役にも立ちません。
面白がって意見を言っているだけです。
そのなかに、あなたとともに生きる覚悟、もっと言えば、あなたの今後の失敗をともに背負っていく覚悟はどこにもありません。
どこかで聞いたことをまことしやかに語っているだけなのです。
このようなあなたへの忠告をする人間を専門用語で阿呆と呼びます。
無視しておしまいなさい。
人は他者に迷惑をかけながら生きていく存在です。
そのことを今もなお当事者性と向き合う人間たちは知っています。
だから、あのように彼らのあなたへの意見は寡黙なのです。
当事者性を持ち合わせないどころか、事情も知らず、誰かからの二度や三度のバイアスのかかった情報だけで人を批判するようなちんけな傍観者たちもいるのです。
当事者性を持たぬ人間に当事者性の中で生きることを選択したあなたはかかわってはいけない。
もちろん、彼らを積極的に批判することもダメです。
さてさて、話はつきませぬが、あなたはあなたの人生の岐路をすばやく過ぎていかねばなりません。
そのときに傍観者に足をすくわれる愚を犯しますまい。
当事者の巧遅に歩みを遅くしなさんな。
100パーセント安全で、納得のいく決断などありません。
人は、決断のとき、ある段階で跳ぶのです。
目をつぶって己が運にかけて跳ぶのです。
だからこそ、多くの人はあなたが跳ぶことを止めさせようとします。
わたしですか!?
わたしだって止めたいですよ。
だから、いつも言うでしょ。
あなたが決めることだよ、って。
キミが跳んでいった先に幸せが待っていることを祈っております。
やま本とんぼ
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