2011年1月28日金曜日

こんなことを話した夜があった

過日、こんなことを訳知り顔で話したことがあった。
気恥ずかしいけれども、わたしの厚顔無恥を自戒するためにここに書いておくことにしました。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。
信号所に汽車が止まった。

ご存知と思いますが、川端康成「雪国」の冒頭の3センテンスです。

三つの文が「た」で終わっていることにお気づきになるでしょうが、川端は少しずつ変化させております。
これをリズムと申します。

「雪国であった」(名詞+…)
「白くなった」(形容詞+…)
「止まった」(動詞+…)

文法的な細かい説明はどなたか、その道の専門家にお聞きください。

この三つの文は「た」を繰り返す単調さから逃れるための工夫がされております。
ひとつだけ指摘しておけば、最初の一文「雪国であった」は「雪国だった」を嫌って、「だ」を「であ」に変えた表現になっております。
このあたりが、川端の美学なんですね。

それに加えておけば、たいていの人が、

国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった。

と記憶しているのですが、川端は「そこは」を削っていますね。
ここに川端と多くの人の文章に対する感覚の差が象徴的に表れているのです。

蛇足ですが、「停車場に汽車が止まった」と」ありますね。

ここは

停車場汽車が止まった。

でもいいんですよ。

川端は、最初の「…雪国であった」で、すでに格助詞「で」を使用しているので、

停車場に汽車が止まった。

と格助詞「に」を使ったのでしょうね。

この格助詞「に」と「で」については文法書にいろいろと説明がありますが、私見では、川端は美学を優先して使い分けていると思いますよ。

川端の文章に対するこだわりにはこれほどまでに目を見張るものがあるんですね。

だからといって、わたしが彼を信奉しているかといえば、そんなことはありません。
わたしの好む作家は、嗜好として他におります。

以下は、無意味な独言ですが、(読み飛ばしてください)
好き嫌いの世界は理屈から遠く離れたところにあります。

最近も若い女の子に理屈でもって罵倒されました。
若い娘は自分の理屈が正しいと思い(幼い理屈なんですよ)、それを好き嫌いの世界に導入してきたのですね。

この種の若い女と親交を結ぶものではありません。

えっ、その後どうしたかですって!?

別れましたよ、きっぱりとね。

たぶん、なぜわたしが彼女から思いっきり距離をとったのか、今でも彼女は理解していないでしょう。
でもいいのです。
美しく若い女は醜悪な年寄りとつき合うものではありません。

逆に老人から言わせれば、困ったもんですよ、若い娘は。
(まあ、その困らせるところを可愛く思ったりするのですが、完全に血迷った状況ですね)

ついでに毒づいておけば、
いっぱしの顔をして、自分を利口だと思っている男どもも最低ですがね。

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