2007年7月31日火曜日

ゴーレム

ラビの中には、土塊から人間の似姿を造りだす力のある者がいたといいます。この、魂のない土塊の人形のことをゴーレム(Golem)といいます。ゴーレムは話をすることはできませんが、作った人の話やその命じたことは理解するらしく、彼の召し使いとしてよく働いたりします。
わたしの一つの願うあり方は、気の合う人の召使にならないゴーレムであるのかもしれません。

いまや、コンピューターゲームにうじゃうじゃ登場するっゴーレムだが、
そう簡単な存在でもないだろう。

ちなみにグスタフ・マイリンク「ゴーレム」には、ゴーレム自体はあまり登場しない。

召使性を捨象したゴーレムをよく知るためには、やはりわたしをよく見てもらうのが一番かもしれない。

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2007年7月30日月曜日

ブログ

こうやって、たまにブログを書くようになったのですが、
誰かに書いているという意識はきわめて薄いのです。

むしろ、書くという作業が、誰かに伝えるというメーッセージ性を失い、
書いたその時点で完結しているといった感じです。

つまり、何かを書きつけることで気が落ち着く人種であったことがわかったのです。

よく知りませんが、雨の音を聞きながら庭先を見ていると落ち着くといった、
そういう感じなのです。

書きつけることにどういう作用があるのかわからないのですが、
精神の安定をもたらしたりもするのでしょうか?

これは、ちょっといいことだなと思うのです。

しかも、ひとりでノートに書きつけるより、このブログの半公開性という性格が
そのことを裏打ちしているようにも思うのです。

また、ゆっくりと考えてみます。

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山之口獏

未開の女のことを書いていたらば、
ふと、あの山之口獏の亜熱帯の詩を思い出した。

うろ覚えだが、少し後に登場する以下のような詩だった。

そして、その詩を思い浮かべたとき、自分の「未開の女」という文章の貧相に思い至る。

思いつきで書いた文章などは、書いた先から腐っていく。

あらためて、山之口氏の詩を目にすると、
その世界の広さを目の当たりにする。

まずもってわたしの文章には広さがない。
小さな景色しか見ていないからだ。

肉眼で見えるものは、さほど広くはない。
肉眼だけで見えるものに浸っていてはだめだ。

たまには煙草にでも火をつけて、遠いかなたに思いを転じてみる。

そのとき、わたしに視覚はあるか?
あるいは、資格はあるか?
辺りを見回すことを許される視覚=刺客はあるか?

このことは未開と亜熱帯がつながって思い馳せたことなのだが、
その結果、わたしの前に登場した「会話」という作品の中の女の存在感やその魅力は
わたしから何と遠いところにあるものなのだろう。

めしいてしまいたいような気分だ。



会話

お国は? と女が言った

さて 僕の国はどこなんだか 
とにかく僕は煙草に火をつけるんだが 
刺青と 蛇皮線などの聯想を染めて 
図案のような風俗をしているあの僕の国か!
ずっとむこう

ずっとむこうとは? と女が言った

それはずっとむこう 日本列島の南端の一寸手前なんだが 
頭上に豚をのせる 女がいるとか 素足で歩くとかいうような
憂鬱な方角を習慣しているあの 僕の国か!
南方

南方とは? と女が言った

南方は南方 濃藍の海に住んでいるあの常夏の地帯 
竜舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が 白い季節を被って寄り添うているんだが 
あれは日本人ではないとか 日本語は通じるかなどと話し合いながら 
世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!
亜熱帯

アネッタイ! と女は言った

亜熱帯なんだが 僕の女よ 眼の前に見える亜熱帯が見えないのか! 
この僕のように 日本語の通じる日本人が 即ち亜熱帯に生れた僕らなんだと僕はおもうんだが
酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのの同義語でも眺めるかのように 
世間の偏見達が眺める僕の国か!
赤道直下のあの近所

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2007年7月29日日曜日

未開の女の項続く

川端の比喩とは、「雪国」で駒子に対して使われたものである。

たとえば
「駒子の唇は美しい蛭の輪のように滑らかだった」
という具合にである。

この直喩の傑出のほどは、「ように」にある。
つまり「ように」により「駒子の唇」と「美しい蛭の輪」を強引に結びつけることにある。
そして、この強引さは、「雪国」という小説世界のなかで、削がれていき、
徐々に甘美な雰囲気さえかもし出すように細工されている。

まことにもって、川端はエロティックな爺である。

どぶ川に潜んで美しい少女を待つようなところがある。

(なお、この直喩に関するさらに詳しい説明は佐藤信夫に委ねることにする。)

そういうわけで、見たことのないこの美しい蛭の唇を持つ未開の女の話もこのあたりにしておく。

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未開の女


昨夜は、N君の送別会があるので、行かなくてもいい近場の店へふらふらと出かけてしまった。

そこで、出会ったのが、なつかしき件の女である。

行ってしまえば、フィリピン南部ビサヤの辺りにいる美人の一典型である顔を持った女なのだが、この女が、すこぶるがさつで魅力的だった。
距離は、2mを越えて近づくと不快になるが、それまで…たぶんちょうど2mくらいだとたまらない雰囲気が迫ってくる。
しかし、このことは、当の女にも周りの男にもいまだ気づかれてはいない。
そのようにして、女は一生を送ることになるのだろう。

ともかく、ANY WAY…こんな戯言を書かせるほどの魅力を持った女であった。
さらに付け加えておけば、前述の美人の典型には南洋の土人の要素が入っており、それは、唇の厚ぼったさが象徴する。
その唇は決してセクシーではなく、もちろんコケティッシュでもないのだが、人をひきよせる力があり、あの川端が描いた美しい比喩、「ひる」を使いたいような感じもあるのであった。

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2007年7月27日金曜日

ブコウスキーのようではなくて

「酔いどれ詩人になる前に」を見てから、ずいぶんと飲み続けた。
「クライネ・ヒュッテ」
「ちゃんぷる亭」
「パッション」
「パラオ」
結局、午前4時まで飲み続けたことになる。

実は、映画の数日前からも自堕落に飲み続けていたものだから、
何をかいわんや、こんにちは、である。

それで、少しわかってきたのだが、酒はうまいまずいではなく、習慣である。
おそらく、飲まなければ、飲まずにいられるはずである。

そのあたりが、城戸さんとわたしの違いだろう。

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2007年7月26日木曜日

連日というか、朝から晩まで酒を飲んでいる。
飲んでいてわかることは、俺が酒を嫌いということである。

実は、俺は酒が嫌いなのです。

そう思いながらグビッとやる。

前にいるのが、黒田三郎や色川武大ならそういう酒も進んでしまうのだろうが…

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2007年7月24日火曜日

FAXでトラブル

FAXでトラぶって、まいったです。
調べてみたら、インクリボンの長さが違っていた。
30m仕様のファックスに55mのインクリボンを放り込んでしまっていたのだった。

だ…か…ら…

まったく機械に疎い。

ビデオも映らなくなって、早2ヶ月がたとうとしている。

まっ、いいか。

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