2010年5月31日月曜日

人間の建設


こういうときは、崇高な本にかぎる。で、どういうときかといえば、いわく言い難しだ。えへへ。

この本は、圧倒的に崇高ですぞ。写真もいいやね。これだけの人が、現代何人いるのかねえ。この本を読めたことに感謝します。

仕事が、妙に忙しくて本を読む気がしない。けれどもさすがに、このクラスの本になるとドカーンだ。好き嫌いで言ってはならない。いい対話だと思う。

わたしは、1割くらいはこの内容がわかっているだろうか。

何度も読み直す本だ。お買い求めになっても、まったく惜しくはない本だと思うよ。

ラベル:

素敵な夜をありがとう

昨夜は、信頼する若者と二人っきりでじっくり話ができた。
幸せなひと時だった。

このまま人生が終わればいいとさえ思った。
一瞬だけどね。

夏に向けての原稿の話もできたし、つらい人間関係の話もした。
やらねばならない実務処理の話もしたし、気恥ずかしいが、愛の本質についても話した。

何度も繰り返すが、仲間は大切だ。
その大切な仲間に性別も年齢も関係ない。
ただ、あなたが信頼できると思うかどうかだ。
信頼できる相手に身を投げ出してみる。

もちろん痛い目もするだろう。
けれども、それが愛する人に会うただひとつの道だと思う。

己を投げ出しもせずに愛を知ろうなんて、考え違いもはなはだしい。
自己投機もせずにいるのならば、一生何ものにも出会えまい。

昨夜の若者を思う。
わたしは、彼と出会ったことを誇りに思っている。

同志よとは呼びかけない。
彼が、いやだとささやいたからね。

ラベル:

2010年5月30日日曜日

辺野古移転、やっぱり

鳩山首相に対して個人批判が、奔出している。

けれども、問題はシステムにある。
このことは手を替え品を替え、繰り返し述べてきた。

こん回の場合、どのようなシステムが問題になるか。
そのシステムの存在と構造を見極めようとする人間があまりに少ない。

いたる番組で、個人批判の続出。

鳩山を変えたところで何も変わらないことがわからないのか。
システムを変えなければ、再現性は止められない。
ごくごく簡単な話だ。

誰かはっきり打ち上げないと。
問題は、システムにあり。

ラベル:

ホットケーキ


朝食にホットケーキを食す。

ホットケーキというよりは、メープルシロップを。ケッベク州の上等な一品をもらったものだから、そんな気分になったのだった。

本品は混ぜものなし。サトウカエデの樹液を単に濃縮したものであり、まさにシンプル&ディープ、人もまたこうありたいものだ。

わたしの食すシロップは、樹液を60分の1に濃縮したもので、限りなく淡い甘みをかもし出している。淡くありながらボディはしっかりとしている。女性もこうありたいものだ。

選りすぐった材料で丁寧にホットケーキを焼いたのだが、残念ながらメープルシロップが勝ってしまった。それでも、豊かな朝の時間が流れていった。部屋の中に、これまた選りすぐったバロック音楽を流しておいた。

ラベル:

2010年5月29日土曜日

タバコを吸う少年

ヨウツベにあると思うのだが、「タバコを吸う少年」というのが強烈だった。
少年といっても二歳だ。
それが、おっさんのように吸っている。

確か英語の説明があったが、真剣に読んでいない。
スマトラに住む少年は、かなり前からタバコを吸い出したらしい。

その姿は、まさにおっさん。

わたしのなかにタバコを吸う人=おっさんという等号が成立しているから、この呪縛からは逃れがたい。

警官を見たら、悪い人だと思うのと同じだ。
こちらは、ほぼ正しい。

ラベル:

辺野古移転

辺野古移転の泥仕合が続くが、沖縄に核があり、それがこの基地問題に大きく影を投げかけているという見方にわたしは与する。
ストーリーがわかりやすいからストーリーテーラーを夢見る人間はついついこういう見解に魅力を感じる。

米軍は、海外移転を嫌がる。
思いやり予算がなくなるからね。
県外移転は核の移動がやりにくい。

残るは県内移転だけ。

だから、今回の結論「辺野古移転」

もうひとつの結論、米軍撤退は一顧だにされなかった。

ポテチン…

ラベル:

哀しいいウソ

もう一ヶ月も前だろうか。
わたしのかみさんが、会社を首になったと哀しい顔をしてわたしに言う。

「もう、あなたに頼るしかないの」

わりとよく聞くセリフだが、かみさんから聞いたのは初めてだ。
わたしのかみさんは圧倒的に強力でこの社会に順応している。
まあ、順応していると思い込んでいる。

その人が、社会から放擲されたとなると一大事だ。
けれども、このごろになって、それはウソでかみさんがまだ、会社に在籍していることを知る。

そうかと安心したが、その後襲ってきた感情はきびしかった。
とても詳しくは書けないが、わたしのようなろくでなしに甲斐性のあるあの人がどんな気持ちで頼ってみたかと思えば、哀しい。

ほかにも、今月の家賃が払えないと泣きついてきているひともいる。
こちらの方はしょっちゅうだからもういいだろう。
放っておけば、何とかしている。
あれはあれで、たくましい。

もっと心配なのは、自分を周りに合わせて自分を見失っていく幼い女の子だ。
まあ、幼いといってもそこそこの歳なのだから、これも捨て置いていいだろう。
最近、興ざめの気分だ。
だって、どうやっても同志にななれない軟弱ものなんだから。

で、かみさんはどうかといえば、こっちは強い。
強くてすぐさまシステムの側に入っていく。

わたしも敵に塩を送るのもどうかと思い、躊躇する。
それが、われわれ夫婦の行き違いを生む。

もう何度言っただろう。

「いい子だから、オレなんかと別れてしまえ」

格好をつけているわけではない。
獅子身中の虫を飼うのはきわめて危険なのである。

ラベル:

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

わたしには仲間がいる。
その仲間を大切にしていてよかったと、心から思う。

仲間は財産である。
かれらがわたしの苦しい時期を助けてくれたし、今も支え続けてくれている。
意志を持って、仲間を大切にしたい。

これからの人生、何ものにも揺るがず正々堂々と生き抜くためには仲間が必要だ。
わたしのような弱い人間にはとくに仲間が必要だ。

仲間を捜し当てる術をもっと多くの人が知っていれば、いろいろの場面での戦いは様相を転じていくだろう。

一方、仲間のいない人間はいともたやすくシステムに取り込まれる。
取り込まれた人間は瞬く間にシステム強化のための一員となる。
マルクスの分析は、ここでも有効だ。

人は、システムに取り込まれることで人であることを放棄するにいたる。

現代のシステムは資本主義の生み出したものだが、多種多様を極める。
そこがややこしいい。

取り込まれてしまった人間個人をうらむことはやめよう。
われわれの敵はシステムそのものだ。

われわれの仲間は微々たる力だが、それでもそれぞれの場所で戦いを続けている。
体制に反逆する姿は気が違っているように見えるかもしれない。

それが、われわれの矜持だ。

同志よ。

ラベル:

2010年5月28日金曜日

生きる姿勢、書への姿勢

姿勢ということで言えば、伊藤隆くんの書に対する姿は常に謙虚で美しい。
それは、ひとつには彼が今井凌雪という人と出会ったことに大きく関係している。

彼の考えや感じたことは「伊藤隆のご縁大福帳」に詳しいが、大切なことの皮肉に先達との出会いがあることは心に銘記すべき内容である。

皮肉といったのは自分自身の努力の末にすべてが獲得されるのではなく、よき先達という他者の存在がなければ人は美しく生きられないという、自分の生き方の追求の欠くべからざる地点に他者の存在を必要としてしまう皮肉である。

他者との出会いは、改めていつか稿を起こすしかないが、人が生きていくためにとても大切なことだ。

生きていくために必要なもののすべては、学習によって習得できるとしたのが、この国の現代の悲劇だ。
そんなものが、学習なんかで捕まえられるわけはない。

手本が必要なんだよ、手本が。
その手本を伊藤くんは見事手に入れている。
それが、彼の強みであり、決定的なところである。

手本足るべき人との出会いがなければ、人は一歩前に歩み出せない。
手本にいかに出会うか。
実はそれが人生を生き抜く最も肝心なところなのである。

そのためには、謙虚でなければならないし、何より自分に嘘をついて適当に人に合わせて生きるようなことをしてはならない。
怖くても自分のありのままの姿を出さなければ先へは進めないのだ。

むむ、このような処世に関することは、書いていると、やはり、どうしてもダサくなるな。
もともと、このようなことは面と向かって話すことなのだろうな。

というわけで、このことはこれ以上は追いかけて書かない。
うまく書けると思えたときに、また書くことにさせてください。

ラベル:

2010年5月27日木曜日

うれしい出来事

昨日は、一人の先達からアニメ業界の話をいくつか教わった。
仕事がらみのことだが、それでも知らない世界をその人の生きてきた姿とオーバーラップして伺うことは至上の喜びだし、それでこそ仕事に深くつながっていくというものだ。
そういう機微もわからずにただ上辺だけで仕事をとらえ、浅薄にこなしていくのとは土台、話が違う。

その後、若者と笑いについての話と細やかな文章について語った。
わたしは、何かを追及しようとする若者と話すことが好きだ。
その逆のわかった気になっている若者を、もちろん大人もそうだが、嫌悪する。
あたかも、どうだすごいだろうと声高に話す若者を見ると、心底情けなくなる。

吸収すべきものは、いつでもそばに転がっている。
わたしのような歳になっても知らないことだらけだ。
30やそこらで、何を寝ぼけたことを考えているのかと思う。
吐き気さえしてくる。

そこへいくと件の青年は素敵だった。
何よりも知ろうとする姿勢があった。

それだけがすべてなのである。

人にあって、大切なものは姿勢だ。
その姿勢こそが守るべきものであって、何を知っているかとか、どれだけ社会的に認められているかとか、容姿などは二の次三の次なのである。

姿勢さえ守られていれば、人は素敵なのである。
姿勢さえ守っていればいいのだ。
逆にその姿勢をおざなりにしてしまえば、すべては終わる。

見知らぬものを知ろうとする姿勢はなかなか保ち続けられるものではない。
あるとき店頭に並ぶドラッガーを手にとってみた好奇心はいつまでも持続するものではない。
もし、その好奇心が続くのならば、わたしはその若者を愛する。
どれだけ現状が無様であってもわたしはその若者を信頼する。

とにかく姿勢なのである。
昨日の若者の姿勢は立派だった。

念のため、つけ加えておくが、姿勢が立派だからといって一丁前の男になるとは限らない。
もちろん女性の場合でも。

けれども姿勢がなければスタートラインにも立てないのだ。
それでは困るだろう。

スタートラインに立てたなら行けるところまで行ってみようではないか。
結果はとやかく考えるな。

走るその姿が快感と思え。
わたしは昨日話し合った若者にしばらく伴走する。

それが、わたしの喜びだ。
わたしは若者の姿勢を愛する。

ここは厳密を帰したい。
若者が女性であっても同じだ。
わたしはその姿勢を愛する。
その姿勢を持った若者を愛する。
そのあと、どうなっていくかは知らない。

始まりは姿勢への強い評価だ。
たとえその人間が無知で破廉恥であってもかまわない。
姿勢さえあれば、わたしには必要十分なのである。

そういう連中といつまでもつき合っていたいと思う。
昨日は、その中の一人と会った。

幸せである。

ラベル:

2010年5月26日水曜日

エディット・ピアフ

あなたの人生の最高の曲は、と尋ねられたら、わたしはピアフの「Non,Je ne Regrette Rien」を答えるだろう。
それも、オリンピア劇場の最後の公演。

ヨウツベにあるから探してみてね。
鬼気迫るものです。

本当は、ここにアドレスを貼り付けたいけど、貼り付け方がわからないのです。
情けないです。
それに貼れなくて、すみません。

エディット・ピアフのこの曲に比べたら…
それから先は言いますまいい。
サッカーにマラドーナの名前を出せないように歌の世界にこの曲は持ち出せません。

さらにこの曲の秘話を知ったらなおさらです。

ラベル:

逃げ場所

逃げ場所と書けば、格好は悪い。
けれども、職場でも家でも落ち着かない気分なら隠れ家を作るに限る。
女がらみでも男がらみでも友達がらみでも誰もいないがらみ(笑い)でもいい。

オレも作っている。
切羽詰っているからね。
そうするとようやっと精神の安定が訪れる。
前は酒でそれをしたが、あれはいまから振り返れば得策ではなかった。
飲むときにいっしょにいた人が、ときどき淋しそうな顔をしていたが、あれがすべてだろう。
いま、いっしょにいたら笑ってくれるだろう。

あまり会わなくなってしまった。

安い金を算段して小さな下宿を借りることをお勧めする。
もちろん、家庭を住みやすくできればそれにこしたことはない。
職場が愉快だったらさらにいい。
なかなか難しい。

オレなどは幸せなほうだ。
それでも、カッカする。
オレを裏切った人間を腹の底から憎んだりもする。

オレはわがままだし、気性が激しいからね。

とにかく、自分の強さをあまり信じちゃいけない。
自分を大切にするのはまず自分だからね、丁寧に自分を見なければいけないと思うよ。

そう言えば、自分自身で自分を大切にするように教えた人がいる。
そのときは、言わなかったけれど、それはとても難しい。
できれば、オレがそばにいたほうがいいだろうとも思っていた。

でも、その人には、ほとほとあきれてしまっていたからね、今もだけど。
いっしょに手伝ってあげたくてもねえ…、あの体たらくでは。
あ、みなさんには関係ありませんでしたね。

で、みなさんはお強いでしょうけど、それでも逃げ場所を作るという発想は大切だと思いますよ。
無理せずに、じっくり構えてともに戦いましょうよ。
戦う相手は違ってもいっしょですからね。

わたしも、意志だけはしっかり持って生きようと思っています。
大事な人から、あきれられないようにね。
でないと、心ある人はみんな離れてしまって、砂のような時間が待っているだけになってしまうから…

みなさんとの夢のような時間を思って。

今日も愉快にいきましょう。

ラベル:

2010年5月25日火曜日

出来事に出会うとき

人は多くの場合、自分の都合のいいように解釈し、その解釈した出来事に出会う。
客観的にそこに出来事が、どでんと投げ出されているわけではない。

あなたにとって、とても苦しい出来事と出会ってしまったとしても、それはあなたがそのように解釈しただけのことかもしれない。
誰かを傷つけ、その人がとても腹を立てていると思っているとしても事実彼がそのように腹を立てているとは限らない。
案外、にこやかにまたあなたを迎えてくれることもあるはずだ。

あなたの思っているようにあなたの世界は出来上がっているのだろうが、彼には彼の世界があり、彼女には彼女の世界があることも知らないといけない。

人と人の触れ合いは、大きく言えばこの他者の世界との触れ合いで、それを感じるためには思い切って飛んでみることも必要だ。

世の中には信じるにたる人もいる。
たまさかあなたの出会った人が、その信じるに足る人かもしれない。
自分で決めてしまって、出会いを見逃すことはつまらない。

人はいつだって、素敵な人たちとの交感の中で生きていたい動物なのだ。
願わくば、あなたにもそういう幸せを感じてほしい。

あまり、暗い顔を見せるな。

ラベル:

2010年5月24日月曜日

「辺野古」 日米大筋合意

たまらない結果ですね。
右往左往した日本政府のアメリカへのペコペコの結果がこれである。

いやあ、沖縄は収まらんだろうね。
また、沖縄は収まらんように行動してきた。

ここにも問題点はある。

アメリカとの大筋合意となったが、もちろんアメリカは一枚岩ではない。
その内情はどうだったか、どこかのマスコミがこのことを伝えてくれるだろうか。
残念ながら、そのような良心はマスコミにはない。
(もし、どこかが言及するとしても数少ない報道番組と報道者とになる。
 どこの報道番組が、だれが、アメリカの内情に言及するかは予想がつく。)

沖縄への認識が甘いので、とうとう沖縄を二進も三進も行かないところに追い込んだ。
沖縄を知らなすぎる。

沖縄に対してどういう寝技が有効だったか?
誰か、しゃべんないかな。
しゃべんないだろうな、沖縄の反発が大きすぎるもんな。

とにかく、ひどい着地点だ。

それでも、鳩山に責任は少ない。
問題はこういう結論に導いた日本国のシステムにある。
誰が、首相をやっていても似たような結論になっていたはずだ。
鳩山氏の不幸は途中で誠実になりすぎたことだ。

誠実では、この国の政治システムを含む国家システムには鉄槌は打ち振るえない。

ラベル:

2010年5月23日日曜日

わたしの愛した人たち

わたしの愛した人たちと思えば、すぐさまその顔は浮かぶ。

だが、どの顔もわたしには不満足である。
それほど美しい顔ではないし、人によってはこいつはひどいといったものでもある。
けれども、わたしはそれでも彼らを愛していいる。

正確に言えば、彼らの可能性を愛しているとなるが、ことはそう簡単ではない。
もちろん可能性を愛してもいるが、可能性に先立ってその存在そのものを愛している。

これはかなりい強烈な愛し方で、それほど持続力のあるものではない。
だから、ときどきはお前の魅力的な顔を拝ませてくれというわけである。

そういった魅力的な顔を見せなくても愛し続けているのは娘と息子で彼らの評価は地獄のように低い。
それでも愛は劣化しいないところにわたしの愛の特徴はある。

勤める会社にも愛の痕跡はあるが、ここでの愛に持続力はない。
くそはくそなのである。
意志なき人間に魅力は住まないのである。

そう言えば、わが息子に、わが娘に意志はある。
時に消え入りそうになるが、意志はある。
その頼りなさにわたしの心が泣いてしまうこともあるが、彼らには耐えてほしい。

脈略もなく、いま思い出した。
昨夜最後に会ったバーテンダーの野口や石井、店長の下里さん。
みんなわたしの可愛いがる人々だ。
つまりは、愛する人々。
愛する人々に囲まれて幸せなひと時。
(お酒なしのカクテルを頼んでごめんね。石井君、また今度、君のジルベルトマティーニを飲むからね)

そういう人たちがいてほしい場所もあるが、人材不足で魅力なき人々に埋め尽くされた場所もある。
わたしのそばにいれば、違う世界が見られるものを。

My love wants to have its destination.

これでよかったかな、南。
今年お前の入った上智大でお前は愉快に暮らしているのかい?
素敵な男に出会えるといいな。
須賀敦子さんの残り香をもつ女性と出会えるといいな。

ラベル:

ゆれる基地問題

基地問題はブログで触れる問題としては大きすぎるが、ポイントだけをここにあげつらっておく。
ブログの醍醐味である。

いま問題になっているのは沖縄の辺野古だが、ここには海兵隊がいる。
海兵隊はアメリカ軍の中では特殊な立場であり、陸海空の3軍とは違い、大統領の直轄部隊である。
このことは、海兵隊が、「殴りこみ部隊」と称されることに深くかかわる。

海兵隊は防衛部隊ではないから、その基地の場所は攻撃戦略をもとに考案される。

重要なポイントをひとつ。
海兵隊が辺野古に執着するのは海兵隊の意志でアメリカの意志ではない。
アメリカ海軍などは、沖縄に関する海兵隊の動きに必ずしも賛成ではない。
むしろ、快く思ってはいない。
ただ、迷惑をかけられるのはあほな日本なので黙って見ているだけである。

外交交渉にはアメリカ海軍を裏で巻き込むべきである。
この外交戦術をまじめに考えている政治家は、数人に過ぎない。
日本は、外交手腕がゼロ以下である。
間抜け以下と言っていい。

海兵隊は抑止力にならない。

抑止力は敵国が感じるもので、はなはだあいまいなものである。
いま、日本の敵国になりうるのは、具体的には、中国と北朝鮮しかいない。

中国の場合、アメリカは抑止力にならない。
中国はアメリカにとって最も重要な経済パートナーとなっており、その重要な国をアメリカは決して攻めないからである。
これは、外交においては、経済が最も優先するという常識中の常識。

鳩山君は抑止の何を学んだのかね。
(わたしは、鳩山氏には好意的です。
あの人は政治に理想を持ち込もうとしている。
ただ、目も当てられないほど腕力がありません。
彼に真に腕力のある政治家を一人つければ、大きく政治は変わるはずです。
まあ、「はず」の話ですが…。
日本に腕力のある政治家はおわかりのように一人しかいいない。
彼を日本は法律の中に具にもつかない国民の良識という眉唾を導入して、血祭りにあげようとした。

いいかね、法の世界は、まったく違う言語によって成り立っているのだよ。
そこにあほな国民の良識を無秩序に組み入れれば、法体系はぐじゃぐじゃになる。
「疑わしいきは罰せず」の意味はわかっているのかな。
頭痛くなるよ、この国の人間たちを見ていると。)

さて、もうひとつの国、北朝鮮は、日本に攻撃を仕掛けたときは、政治的に制御不能の状態になっている。

かの国の大陸間ミサイルは外交交渉の道具であり、それ以上の存在価値はない。
北朝鮮が日本に攻め入るときはこの弾道ミサイル「ノドン」「テポドン」の襲来から始まる。
この襲来は外交交渉を逸脱した動きであり、ミサイル攻撃をする北朝鮮は常識的な軍事見解が機能していない。
その狂った北朝鮮に抑止は効かない。
抑止は強く相手の想像力に負う。
狂った想像力に何も有効ではない。

このように抑止を発揮するべき二国に対して具体的な抑止は効かない。
海兵隊の抑止効果はゼロと断言していい。

日本が海兵隊の常駐を願うのは日本の幼児性による。
フィリピンを見よ、韓国を見よ。

日本はその幼児性により海兵隊にたかられているだけである。
詳しくは、アメリカ軍の軍事費の内訳とその調達方法を調べてみればわかる。
それくらい精査して正しく対応しとけよ、くそたれ政治家諸君と呆けたマスコミどもよ。

さらに一点だけ指摘する。

沖縄はすばらしいいところもあるが、どうしようもない血縁地域共同体でもある。
沖縄の「おじい、おばあ」と間抜けな沖縄好きどもが歌い上げるが、これも恥ずかしい次第である。

沖縄の「おじいおばあ」たちが何をしてきたかは詳細に見る必要がある。

那覇の色町に深く潜入し、そこに棲息する女たちと密に付き合えば、見えてくる。
「おじいおばあ」たちを中心に繰り広げられる陰惨な沖縄の真実。
沖縄の暗部は大きく取り上げられることがない。
あの佐野真一でさえ逃げた。(この表現は、妥当でないかもしれない。要するに佐野さんはこの部分は書かなかった。)

基地問題といえども、上述の4つほどの大きな問題がしっかりと対象化されていない。
わたしにそれを書く動機がない。
金をくれれば書く。

また、今日も金をせびられている。
渡さねば、また泣き出しかねない。

本当に参ってしまうぜ、雲峰先生。

さて、基地問題で見ておきたい点をまとめなおして、この項を終わります。

1 海兵隊の実体と彼らの望んでいるもの
2 抑止効果はどの国に対するもので、それは有効か
3 この国の幼児性とは何か
4 沖縄の血縁共同体性と基地問題のかかわり

ラベル:

昨夜の鼎談

昨夜は大手出版社のSさんとあの有名な雲峰先生と三人で飲んだ。
飲んだといってもわたしは酒を飲めないので、ウーロン茶をがばがばである。
(情けないね)

Sさんは保身に走る幹部連中、それに追随する破廉恥な人々、はたまたそれに一徹を下そうとする社長の一幕劇を語るが、その描写にわたしは微笑む。
いずこも同じ秋の夕暮れである。

雲峰先生はいつものように自分の世界に入り、次の作品の構想でもしているのか、ひとり自分の世界を楽しみ、ときおりわれわれ二人に言葉をかけてくれる。
こういう人と付き合えて、わたしは幸せものだ。

ただ目前の捨ててしまえばいいような半分腐った生活を後生大事にしているあいつにもこんな愉快な飲み会の雰囲気を味合わせてやりたいものだと思うが、届かぬ願いである。

終には人は分かり合える素敵な人の空間に戻り、身を置くものだと、Sさんと雲峰先生のご尊顔を拝見しながらしみじみと思う夕べでした。

雲峰先生の個展とわたしの本の出版の話も上がり、かなわぬ恋への思いに肩をたたかれた気分でした。

本日の夜はマイスターの亀岡さんと約束があるし、娘と試写会にも行かなければならない。
帰りには初台のマンションにも寄らねばならないかな、怒っているから…。

いやはや、忙しいですな雲峰先生。
先生は、今頃新幹線の中であろう。

また、お会いしましょう、若き書道マイスター伊藤雲峰先生。

ラベル:

2010年5月22日土曜日

武士道シックステーン

誉田哲也のこの本、「武士道シックスティーン」は名作である。
抜けて名作である。

これを読んで、どこが名作かわからなければ、それはあなたが悪い。

この本には愛のことがいっぱい書いてある。
その愛は男女のものではない。
もともと男女関係の愛など最も疑わしいからな。
で、この本には男女の愛はあまり書かれてはいない。
けど、よくよく読むとさらりと男女の愛の本質も捉えられている。

なにしろ、この誉田哲也という人は離れてうまいのだ。
色々と書き込んである。
この人は追いかけていい作家だと思うよ。

とにかく、この本は読んだほうがいい。
(おじさんは、そう思う。)

この本から学び、それから、新しい愛に突進してしまえ。
そのお前の貧弱な頭とやや豊満な肉体が、かならず愛への扉を開けてくれる。

いつまでも愛を知らないと言っていてはいけない。
自分の手でその扉をこじ開けてみればいい。

「武士道シックスティーン」の磯山や西荻はまったくもって、愛すべき少女たちだ。
けれども、お前も引けを取らない。
いまは、道草しているけれど、もうすぐ思いきり愛せるようになる。
愛なんていくらでも知ることが出来る、心配するな。

まあ、このようにおじさんが、まだ見ぬ少女にエールを送りたくなるほどこの本はすごい。

キミもこの本に感動するといいな。

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本日の楽しみ

本日の楽しみは、「亀岡テーラー」を代田橋に尋ねることです。

わたしは一級技能士の亀岡さんにスーツを注文している。
市価にすれば、50万は下らぬそのいかしたスーツは、わたしの宝物になるだろう。
決して虫などに食わせぬ。

亀岡さんとの話は楽しい。
抜きん出た技能を持つ老人との話は何物にも代えがたい。
彼にとって、見聞きしたすべてが仕立てるスーツに流れ込んでいるのがわかる。

見聞きしたすべてが仕事に流れ込むというのが、職人の職人たるゆえんで、素人には何回生まれ変わってきてもわかることではない。
及ばずながらわたしの文章にもそんなところがあって、第三者からこれは仕事だ、これは遊びの文章だと言われると愕然とする。
愕然として、そう言った奴の顔を眺めてみれば、痴呆の顔。

最近は、痴呆の顔ばかりよくはやる。

一人でも多くの素敵な若者を育てたいものだ。

わたしが、その素敵な若者だったかどうかはずいぶん疑問だが、こうして亀岡さんに会いに行き、亀岡さんの笑顔と仕事のお話を聞ける幸せは何物にも代えがたいし、生まれてきた醍醐味だともいえる。

昨今のスーツ事情を語るときの亀岡さんの顔は悲しくて正眼しづらい。
若者に痴呆は多い。
いい物を見てこなかったせいだ。
いい人に会ってこなかったせいだ。

若者の痴呆具合にはこちらも責任がある。
痴呆の青年を眺めるたびに、もちろん娘もその例外ではないが、わたしが彼らに何の影響力を持たないことに愕然とする。

にもかかわらず、奴らはあんなふうに嬉々としている。
頭を下げるしかない。

ラベル:

眠れぬままの朝

眠れぬまま迎えた朝、机の隅から出てきた昔のつたない恋愛詩を掲載します。
ぼんやりした頭のせいとしてください。

なつかしい若い自分の詩が出てきた。
甘ったるいが、、今でも自分の中に同じ気分を持つことに驚く。
情けなくも、ややなつかしい。




「縦断」


愛というものが元々事前に与えられたものでなく
目前に現れるたびに ああこれは愛ではない これは愛だとか
行方知らないわたしの力が産み落としていったものならば
己が技量と一蓮托生
お前への思いを託し
己が剣が峰まで連れ去り
置去りにしてしまえ

万年雪を傷つけることもなく そこにあるもの
透明な白になろうとする確かな意志
ありえぬ透明な白を願い 終には色づかぬもの
悲しみの恒常式
さまざまな変性を一身に受け 

地から吹き上げる溶けえぬ雪はお前の唇のその下
小さな傷へと導かれ オレの愛の対象

その傷に あのころ やんちゃな小娘が いまもやんちゃなままで息づいている
もてあますお前の肉体と到来せぬお前の心

ゆき過ぎぬお前の押し返す力
幻想の底に住むお前のわずかな力のくっきりとした意志
お前の肘の押し返す力とオレの幻想

ゆき過ぎぬ幻想
静かに陣取ったお前の肘がオレの肉体を押す

押し返し続けているお前の肉体
恋焦がれるお前の肉体とさらされるお前の心

何もない場所を目隠ししたまま
激情が一目散にお前へと流れ込む

オレのこの身体を引き裂き引き裂きし
縦断して流れるもの
痛みだけからなるお前の肘の感触

ここだ ここに違いない
ここだけがこんなにも熱い
ねじりこむみたいに熱い

お前との縦断の初めて

その後、その女は変性しわたしは待ち続けたが、通り過ぎた影は戻ってきませんでした。

若き日の思い出ですが、いまもまだその影を待っていることを知り、驚きました。

ラベル:

2010年5月21日金曜日

ほぉーっ

ソニー
インテル
Google

これは、組んだだけで、ビッグニュースだ。
誠にもって、なんともはや。

ラベル:

2010年5月20日木曜日

ひどい奴ら

三日ほど前に高井戸から井の頭公園まで歩いたとき、玉川上水沿いに野菜の直売をしている小さな無人の屋台を発見した。
そこで、200円のサツマイモを購入した。
これが、食わせ物だった。

サツマイモは食うものだから食わせ物でいいではないかという意見もあろうが、食わせ物はあの外見はよく見えて…の意味。

どう考えても取れたててではない。
むしろ腐りかけであった。

ああいう場所には、新鮮野菜が決まりではないのか。
腐りかけのものを置いておくとは。

ひでえ奴らだ…

あの散歩を汚された気がする。

復習してやる。
私怨が燃え上がる。

わたしは、どこか、狂っている…

ラベル:

2010年5月19日水曜日

トレンカ

トレンカってさ、レギンスの一種で足先かかとが露出、土踏まずの部分に一部を引っ掛けて着用するタイプだけど、説明が難しい。
だからこうやって写真をつけたわけだけど、これって意外と最近見るでしょう。

Fくん、ハチ公前の広場で一人可愛いトレンカの女の子を見つけたよね。
あの子だけだったね、あのとき、かっこいいトレンカ姿は。

トレンカを身につける子って怖いもの知らずで、ウチの会社にもはいてくる女の子がいるけど、てんで様にならない。
いえいえ、その子のせいじゃないですよ。

トレンカってモデルみたいな体型の子じゃないと似合わない服装なの。
それをどう宣伝したのか猫も杓子もって感じだよね、最近。

醜さのオンパレードってわけ。

レギンス一般にしたらもっといるよ。
そのレギンスにしても、トレンカに比べたら、かなりやさしい着こなしだけど、でも、やっぱり難しい。

もう、あんまりくだらない雑誌やテレビに乗せられるのをやめにしたら…。
レギンスなんて、あなたに似合うはずないからね。

あれは、よほどの体型でないとダメなの。
写真の子みたいにね。

写真の子って、かなり頭悪いと思うけど(気立てはいいかもね)、体型だけは一生懸命守っているよね。

それぐらいの努力をしないと、トレンカは絶対身につけちゃダメ。
それくらい自分で判断しなさいよ。

ラベル:

隣に座った女

通勤の京王線には明大前で乗った。

わたしの後から乗ってきた女がわたしの隣の空席に体を預けた。
その隣に座った女はミニスカートをはいた若い女だったが、どのような顔をしているかはしかと見えなかった。
女の身体をしたガタイのいいお姉ちゃんだった。
その女は、わたしの隣に座ると、すぐに化粧を始めた。
ビューラーで睫毛をいじくりだしいたが、その後は追いかけては見なかった。

わたしはわたしで、気になる昔の「アエラ」を読んでいた。

で、なんだねえ、気にならないといえば気にならないもんだねえ、隣で化粧されても…。
いつもと同じ感じてなもんでしょうか。

あの電車の中の化粧って評判悪いけど、わたしはまあなと思っている。
まあなとは、それほど腹は立たないということです。

だって、彼女たちにとって周りはみんな風景なんだよ。
風景が腹を立ててもねえ。
カッコつかないわな。

で、新宿で降りたとき、その女の子をよく見たのだが、顔の目のあたりはそれなりに化粧で綺麗になっていたが、全体を見ればそうでもない。
そうでもないというのは、化粧してもしなくてもどうだっていいような容姿だったということだ。

醜い女はいつも哀しい。
哀しいなら醜さから脱却する技を考えればいい。
別に化粧に頼らなくても綺麗になる秘技はある。
みんなそれを見つけて綺麗になってよね、そのほうがずっと電車に乗っていて楽しいから。

ラベル:

2010年5月18日火曜日

子ども子どもとよく言うが…

あいつは子どもだとか、ここは子どもばかりでとか、「子ども」という言葉をわたしはよく使いますが、わたしが子どもではないと思っているわけではありません。

わたしも十分に子どもなのです、そのわたしを見るわたしがもう一人いて、ああ、これは子どもっぽいなとか、これは大人の考え方じゃないなとか、自分の言動に批評が加えられるというだけのことです。

言ってしまえば、わたしの言動など、そのほとんどが子どものそれなんですよ、おかしいことに。
そのうえに「子ども子ども」とうるさく言っているのです。

なんせ、わたし自身が子どもなもんですから。

ラベル:

早起き

酒と睡眠剤と一切手を切ってからの睡眠は、眠くなったときに眠るといった原始的なものに変わっており、昨夜11時過ぎから始まった睡眠はすでに目が覚めてしまった。
今は、早朝3時前だから4時間弱眠ったわけである。

これは年寄りの早起きとあまり変わらないが、これからまた眠ることもあるので注意は必要だ。

基本的に日中十分に疲れておかなければ眠くならないので、その夜、眠くなるために手抜きをすることは許されない。
昨日の朝のきつい散歩が、肉体のあちこちに筋肉の記憶として残っているものだから、今朝は早く起きたのかもわからない。
筋肉に若干の緊張があるのだ。
こういうときは、疲労があるレベルを超えているので眠りを妨げてしまうことがある。

自分の肉体と相談するというのは、それはそれで厄介なものである。

ともあれ、起きてしまった不幸をここに記して、もう一度眠ることにする。

ポテチン…

ラベル:

2010年5月17日月曜日

井の頭公園

高井戸の家を出て環八を渡る。
それから、中央高速の下を真直ぐに。
途中から玉川上水に沿って歩くことになるが、このあたりになると緑に囲まれ草いきれが朝の空気を覆う。

早朝、6時前に出かけるが、(何たって5時前に起きているんだから)もう日が高くなり始めている。

井の頭公園まで行って帰る。
高井戸-井の頭公園の散歩での往復は、約2時間強。
気持ちはいいし、気分はほぐれるが、へたり込んでしまいもする。

家に帰って胡座をかいていると、履いていたカルバン・クラインのズボンが裂けているのに気づく。
昨日買ったばっかりなのに。
仕方ないか、あんなに安かったのだから。

それで、明日はどうする?
また、井の頭まで遠征するのかい。

自問するが、自答は遠く返ってこない…

ラベル:

横峯さくら


裏の詮索はいらない。
彼女の宮崎への寄付活動は立派だ。

この国の寄付に関する法律の改正、意識の変革を期待したい。

下衆な裏読みをするコメンテーターを抹殺したい。

横峯、お前が何を考えていようと、わたしはあなたの寄付活動を強く支持します。

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2010年5月15日土曜日

みのもんた、というしたたかさ


みのもんた、という男については、大変なので事細かに追わない。

たった一点。
あの男がネクタイを直すシーンに注目してみる。

あの動作を揶揄する芸人がいるが、注目はいいが、取り上げ方が軽いし、本質はまるで見ていない。

言っておくがあれは癖なんかじゃないよ。
洗脳するための特別な動作だよ。
細かい説明は脳機能学者に譲ることにする。

みのもんたのあの動作、あいつはとんでもないことをやっているんだよ。

あのおっさん、ハレンチを通り越している。

まずいぞ、あのおっさん!!


気をつけた方がいい、あの男だけには。

ラベル:

2010年5月14日金曜日

同志って言ったって大変なんだから

わたしの人間関係は再構築の途上にあり、いくつもの入れ替わりを行っています。
それが、経絡からの脱却であり、生まれ変わりと大きく言ってしまってもいいと思います。

わたしは、少々急ぎ旅をしなければならないので半端な人間関係ではもたないのです。
精鋭を揃えようとしている所以です。
精鋭といっても社会的なステイタスや名誉やお金などありません。
(ある人もいますけどね…)
ただ、みなさん志の高い人たちです。
ぐずぐず過去のことにこだわりつづけることを拒み、今のぬくぬくとした温床のような日常を憎む人たちです。
言わば、自己肯定の意志に反発する人々です。

この精鋭部隊には、口先だけの人は存在しません。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり、です。
といって見回せば、捨てる身も持たない人ばかりです。

とまれ、ここにいる同志に尋ねられたため、すばやく今朝返答した「同志とは」という答えに自分も納得したので、返答したその青年に断わり、ここに再掲します。

同志とは、いつも自分の判断を疑い、
それでいて誇り高く、潔く、
出来る限り相手を慮りながら一足飛びの成功を求めず、
地道な努力の毎日と遥かな意志のなかで己の生活を組み立てる、
はたから見れば少し悲しげにさえ見える気高き精神の若者のことである。

同志よ、
あの草いきれがむんむんする、
初夏の山道を草こぎしながら進む、
われわれの妙なる行進の日は、
すぐそばまで来ている。

嗚呼、われらが闘いの日々。
(これは、狂っているな…)

ラベル:

2010年5月13日木曜日

助けてもらえばいい

「助けてもらえばいいし、助けてやればいい」

これが基本だが、二重の障害が横たわる。

助けてくれとは言えない。
助けてやろうという気持ちは起こらない。

人間関係が作れてないんだね。
けど、このような希薄な人間関係のなかで生きざるをえなくなったのは、みんなが人間関係の煩わしさを嫌い、どんどんどんどん、人と人との結ばれた紐をほどいてきたからだ。
これをまた結び直せといっても難しい。

実際、わたしは今年の始め自殺未遂まで行った。
今、考えれば可愛い悪戯だったが、そのときは必死だった。

ムトウハップとサンポールで硫化水素も作ってみた。
あんときも笑い話で、次の日まで頭痛が取れなかった。
こんなに頭痛いんじゃ、硫化水素はやめだって…。

首の回りにはまだ痕跡があるが、首吊りも楽ではない。
一寸試し五分試しにやっていて、とうとう死にきれなかった。

それで恥を忍んでいろいろと人に迷惑をかけてここに到るのだが、その間でよくわかる。
人というのは、今の自分の状況を守りたがる。
相手より自分が優れていると思いたがる。
特に金を貸した人間などはそれだけで優位に立ってしまい、とんでもないほどだ。
そういう自分の心の動きに無批判なのである。

無批判であって何が悪いかといえば何も悪くはないのだが、そこにわたしは人間の浅はかな傲慢を見る。
貸さないで差し上げてしまえばよかったのだ。
100万や200万のはした金。

わたしなんぞは、毎晩のように差し上げてきた。
だからこんな借金生活になってしまったのだが…
何を言っているのだろうね、何の資格もないじゃないか、この禁治産者に。

で、そうそう。
その間、散々味わったのだが、助けようとする人は少ないし、助ける人にはアドバンテージが生まれ、ひどい人間関係に落ち込む。

その間隙をかいくぐって、わたしは素晴らしいと思う若者を二人見つけた。
大事な二人だ。
彼らとのメールのやり取りがわたしを生かしてくれている。
感謝することをわたしは教わった。

人間に対する落胆も多く経験したが、人間ってそんなに大したもんでもないと、今は大仰に構えている。

そういうわけで、非公式なセイフティネットをつくることは難しいが、日ごろから助けてくださいと周囲に言っていると、次第に誰が助けてくれるのか見えてくる。
その見えてきた人を大切にしていけば、わずかながらの光芒が射す。
そういうことではないかな。

レベルは違うのだが、

湯豆腐や 命のはての 薄明かり

ということは。

首でもつってみないとわからぬ心境だが…。

ラベル:

それでも彼はギターを携える

先日、心ある歌手と新宿の片隅のロッテリアで話したが、彼の心にいくつものわだかまりを感じた。
それでもギターを放さないというのが、目の前にある彼の姿なのだろうと思う。
さらに爽やかには、過ぎた願いだろう。
それに、彼はそのわだかまりをあえてわたしに示して見せたのだ、そのことを捉えて語るわたしの方がどうかしている。

ただ少し、彼がまぶしく、そして煙たかったのだ。
この社会が益体もないと改めてしみじみ感じたのだ。

ある詩人のブログに以下のようなことが書きとめてあったものだから、つい彼との語らいを思い出してしまった。


企画展をやるとなると、画商は、画家のホテルを準備しなければならないし、飯も食わせなければならない。
ところが不況でお金が回らなくなったものだから、とある画商、郵便局強盗をやらかしたのだとか。
これが、成功して個展は無事に終わったが、次の企画展のために、また郵便局に強盗に入ったところで、逮捕されてしまったのだという。

「わしは彼を画商の鑑(かがみ)と言っておる」

たしかに、画家のために強盗までするのは偉いが、強盗は強盗である。画商の鑑ではあっても、人間の鑑とは言えないだろう。
「この不況で、銀座の画廊は、もう何人も首を吊ってるし」
さすがに、言葉もない。

ユニクロばかりが売れ、餃子の王将や牛丼に行列ができる時代には、絵も売れないということか。
しかし、それでも絵を画くのが画家というものである。
これは詩人であれ、物書きであれ同じなのだが。

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2010年5月12日水曜日

目の玉勝負

目の玉勝負という言葉があるが(まあ、わたしが作った言葉だけどね)、こいつと組んで勝負をかけるというときには、こっちが喰らわれてしまいそうな目の玉をもった人間と組みたいものだ。

ああでもないこうでもないと小理屈をこねて、ついにはグジュグジュと融けてしまうような頼りがいのない奴の目つきは決まっている。
腰の定まらないふらふらとする目つき、通常「泳いでいる」と言われる目つきだ。

でかいヤマを踏むときは、それが情事の末の逃避行でも、JRAのでかい売上を狙うときも、自爆テロを行う時でも何でもいい。
道行は目の玉がクラクラと燃えている奴と行きたいものだ。

女ならその手のひらの湿り具合が手を合わさぬ今からでもしっかりとわかる奴がいい。

翻って、今前にいる奴が組むに足るかどうかは一途な目つきをしているかどうかによる。
頭で考えて正解を出そうとしている奴にろくな奴はいない。
自分の身を投げ出すことも知らない人間と組めるはずがないではないか。

ああ、きつい表現になりましたかねえ。
いやなに、こうやって、いっしょに死んでしまおうとする相手を軽率に選ばないように、入れ込んでしまった自分を宥めているんですがね。

ラベル:

お上手じゃないですか、小室哲也様

音楽プロデューサー小室哲哉(51)の復帰作として注目された7人組「AAA」の新曲「逢いたい理由/Dream After Dream~夢から醒めた夢~」が最新17日付オリコンランキングで1位に初登場した。

このニュースをご存知だろうか。
誰が絵図を書いたのかは別の興味として「してやったりの小室哲也」だろう。

事実、小室もほくそえんでいるだろう。

著作権譲渡をめぐる5億円の詐欺事件がとんでもない広告効果を生み出したのだ。
翻ってみれば、小室は人生を棒に振ってまでの仕掛けをしたわけだ。
(まあ、事後的な話だけどね)

けどまあ、なんだね…壊れそうになっている大量消費社会だけど、小室の指先で驚くほど軽やかに計算どおり動いてくれるね。

これじゃあ、小室ファミリーがまた復活ってこともありえないわけではあるまい。

あほらしいというかなんというか。
こういう世界の一員としてボクたちは生きているんだなあ。

ラベル:

人の悩みは似たもので

みなさんはそれぞれが大なり小なりの悩みをお持ちだろうけれど、自分の持った悩みを特別なものとお考えにならないほうがいい。
もちろんそれは、みなさんがご自身で持ったのだから優れて個性的なものなのですが、その個性はどこにもないようなものではないということは知っておいてほしい。
みなさんの持っている悩みもまたいくつかのカテゴリーの中にぴったりと収まってしまう。
あ~ら不思議。

この不思議不思議が、霊能者や超能力者や占い師や詐欺師の飯の種で、自分が特別だと思っている人ほど、自分の悩みが特別だと思っている人ほどころりとだまされてしまう。

そういうことは先にご紹介した「大仏男」に面白おかしく取り上げられています。
詳しい説明は、その手の本に譲るとして、ここでは、あなたが自分は特殊だと考えていれば、単純にホットリーディングに驚愕してしまい、その動揺はコールドリーディングの格好の餌食になることを強調しておきたい。

ここで、わたしがタームの説明をしないのは出し惜しみでもなければ、威張っているのでもない。
こんなものちょっと調べればすぐわかる。

問題は、そのちょっとの手間暇をかけて調べることにある。
(結構大事なんですよ、こんなことが)
そこに広がる世界は、あなたがどこの住人であるかを教えてくれる。
つまり、あなたのタイプがわかる。
そこから、あなたは自分の自分である特有性を探せばいい。

くれぐれもストックスピールなどに翻弄されなさるな。
あなたの個別性はあなたの思っているほど浅薄なところにはない。
自分のことは自分が一番わかる、それはそうだろうけど、わかるには大変な手続きを経なければならない。

自分を愛しているのだったら、自分を愛することに十分な時間と労力を投入してはいかがだろうか。

ラベル:

2010年5月11日火曜日

睡眠状況がよくなったものだから


部屋の片隅に詰まれた雑誌に目が行って、取り上げたのが2008年暮れに休刊となった「読売ウィークリー2008・5・25」。
表Ⅰに「不眠とメタボ『負の連鎖』」とあったからだ。
内容は
「不眠でメタボ600万人!! 放置なら突然死・過労死・うつ自殺も」
「激務・不眠会社員」
「夜食ドカ食いで」で70kg台
「不眠で間食女性管理職は88kg→140kgへ」
と大仰なものになっている。
不眠がとんでもない状況へあなたを追いやってしまうという記事の趣旨である。
けれどもそうではないことをわたしはこのブログに書きつけてきた。
もちろん、「読売ウィークリー」のような現象は確かに見て取れるのだが、よくよく調べてみれば、自律神経失調症が、不眠を起こし、摂食異常を起こし、うつ病を起こし、メタボを起こすことがわかる。
問題は、自律神経失調症が起点か不眠が起点かの違いである。
この違いは大きい。
不眠を睡眠剤で治しても摂食障害は治らないし、メタボは治らないからである。
もちろん、自律神経失調症を治せば、不眠もメタボも治る。
こういうボタンを掛け違えたようなぬるい記事で雑誌を作っているものだから、この年の暮れに休刊の羽目に陥る。
不眠を治せばいいのではないのだ。
自律神経失調症を治さなければ、抜本的治療にはならない。
この抜本的治療にあまりに手間がかかるもんだから、人は睡眠薬での不眠解消に助けを求める。
このその場しのぎは重要な処世だと思う。
けれども、それでは何も解決していないことも知っておく必要がある。
睡眠機能が治るまでには少なくとも一ヶ月の辛い不眠の日々を送らなければならない。
そんなこと、サラリーマンには無理でしょう。
それが、一番の問題だとわたしは思う。
睡眠薬使用者は今も増えつづけているという。
困ったことだと思う。
わたしも睡眠薬常用者だった。

ラベル:

2010年5月10日月曜日

社会に出てみて…

オレのようなぐうたらは、放っておけばぐずぐずと四畳半でのた打ち回って死ぬだけのことだったのに、思わぬ借金がオレを社会へ追いやった。
追いやられてみれば、そこではそこでなかなかオレって役に立つじゃんってもんで、だんだん態度はでかくなる。

自己否定で生きてきたオレだけど、具体的なだれそれの前でひれ伏したことはそうそうない。
昔々に塩沢由典、鶴見俊輔の両先生に完膚なきまでにやられてから後、痛い目に会ったことはあまり覚えていない。
あれほどまでに虚仮にされたことはなかっただろう。

まあ、あのときは虚仮にされたというよりも自分の届かない人を眺めて、ただただその大きさに驚愕して、腰が抜けてしまったのだ。
いまでも、あのお二人には到底届かない。
だから、世の中にはよくよく探してみれば、あれくらいの人もいるのだろうという変な腹のくくり方が出来てしまっている。

そういう人間は、人の見方に厳しい。
自分の上にもう一つの(もう二つのか)物差しがあるのだから、人から見れば厭な男だろう。

まあそんなこんなも合わさって、社会に出て自分が出来ることもわかったし、人が結構無駄に動いていることもわかった。
出来るという人が、たいしたものではないのもわかった。

社会とは深みにはまらぬ限り、意外に楽しくやっていける。
けれども、そういう自信がオレについたときによからぬことも起こった。

従来から付き合っている人たちの中の多くが、変わったオレをなじるのだ。
もちろんコトバにしないことが多い。

けれども、雰囲気でわかる。

変わらぬ人たちのなかで一人変われば村八分だ。
世の中、そんなもんだ、雲峰先生。

変わったオレを評価する人は少ない。
昔のオレと昔のまま付き合いたい人が多い。
彼らは、今更変わるのはいやなのだ。

あのまま老いさらばえて死んでしまいたいのだ。
ハッキリとではないが、そんな風に思い、すでに死んでしまっている
すでに死んでしまっている人間に期待は出来まい。

ここは新たに関係を作り出すか、見つけ出すかしかない。

というわけで、わたしは新たにわたしのプライベートな事件の愚痴を聞いてもらうために若者に頭を下げてお願いし、新しい目的を見据えるために雲峰先生の真摯なる姿勢に自分を重ねようとした。

新たな人生のための再構成の枢軸に若者二人を置き、回りを豊かに年老いている何人かで固めた。
後は、彼らに足る人物にわたしがなっていくことだ。
わたしもしんどいが、彼らもしんどい。
生き続けていくのは、そのような作業だ。

いま、再構成され始めたわたしの周りを見回してみれば、なるほどと実感する。
まだ、足りないところもあるが、それは己の不徳の致すところ、目を瞑る。

これからは、ぼちぼち固めていくしかあるまい。
とりあえずはいい作品を書いてみたいものだ。

新しい人と出会いたいものだ。
ぞんざいに扱った人との関係を新しく作り出したいと願ってみる。

そういうわけで、同志よ、わたしは、もう少しだけ雄雄しく生きてみたいと思っています。

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わたしの手に睡眠が戻ったこと

連続睡眠時間が6時間に戻ってきたことを喜んでいた。
そんな文章を先日ここに書いてみました。
嬉しかったから。(子どもなんだよね)

その文章を少しややこしい説明に替えると以下のようになります。

アルコールに限らず薬物は自律神経に極端なストレスを加重するので、自律神経失調症を呼び起こします。
この自律神経失調症は新たに薬物を投入することで回復するものではありません。
この症状から脱却するためにはひたすら薬物を抜くしかないのです。

そのときに襲いくるのが「退薬症状」ですが、個人差によるけれど、こいつはきついものです。
けれどもこのトンネルを抜けなければ、回復することはない。

回復して見上げてみれば、まぶしいほどの晴天だったりする。

で、わたしは、アルコールと睡眠剤によって自律神経が破壊され、当然の如くホメオスタシスにも異常を来たしました。
ミクロ的に書けば、自律神経失調症は睡眠ホルモンである「メラトニン」分泌のホメオスタシスをぶち壊し、わたしの手から睡眠を調整する機能を奪ってしまった。

わたしが、酒と薬を断って我が手に取り戻そうとしたのは、睡眠ではなかった。
睡眠がほしければ、睡眠剤を嚥下すれば足りたのである。

わたしは、ホメオスタシスを取り戻したかったのである。

わたしの回復は幸運にも早かった。
3週間ほどでホメオスタシスは戻り、睡眠も我が手に戻った。
もう、酒と睡眠薬はこりごりだ。
まっ、しばらくはこりごりだ。

ひとは甘い。
わたしの意志も砂糖細工のようにもろい。
その意志をどのように操って、薬物を遠ざけ続けるか。
遠ざけるのではない。
どうやって遠ざけ続けるかだ。

道は遠いのではない。
どこまでも続く。
だが、アルコールを止めたからつまらなくなったかというとそうでもない。
やめたら、やめただけの楽しみはある。

どういう楽しみだと聞くのはよした方がいい。

この楽しみは経験しなければわかるまい。
浴びるほど飲んだ男が、酒をやめることで味わうことのできる快感だ。
この快感のためには、まず恐ろしいほど酒を飲まなければならない。

この快感への道のりは遠く、陥穽に満ちている。
他人さまには、とてもお勧め出来ません。

ラベル:

2010年5月9日日曜日

アルコール依存症

アルコール中毒のわたしが書くのもなんですが、アルコール依存症(アルコール中毒を差別的だというのでこんなふうに言い換えようとこの国はしたわけですが…、何とも、頭が痛くなるようなこの言語感覚の貧困ちゅうか、なんちゅうか、本中華)患者の顕著な例は自分をアルコール依存だと認めないことです。

だから、アルコール中毒(こっちの方が、ずっといいね)の治療第一歩は、いまでも

「Powerless over alcohol」 を認めることだ、

となっています。

なかなか認めないんだ。
アルコールに頭やられている中毒者どもは。
それもまた人生なんだけどさ。

アルコール依存症は決してバックは出来ない。
つまり、症状が元の健全な状態に戻ることはないのです。
最高にうまくいって、現状の維持です。
また飲んだら進行していた状態がさらに悪化されていくのです。

それでもと考えるなら、飲んでもいい、というのがわたしの考えです。

だけどね、アルコールで死ねたら本望だといっている奴って、ほんと小心者なんですよ。
何の覚悟もなく、ただ飲んでいるだけ。
呆れてしまいます。

もちろん、わたしも例外ではありません。
また、いつ飲むかもしれないです。

ただ、違っているところが一点。

わたしは、自分を信用していないのです。
だから、注意深く自分の言動を見守っているのです。

まっ、今のところは順調、順調。

ラベル:

定点観測

ひとりの娘に恋焦がれる自分を定点観測していると(まあ、老人だからこそ出来ることなのだが)、とんでもなく自分が生長していくのがわかる。
娘に対する感情や葛藤に今までの自分の情報がくっついてきて、思わぬ果実を生み出すのだ。

繰り返すが、こういう業を身につけていること自体が恋愛には不似合いで、

子どもは大人に恋をするが、大人は子どもに恋は出来ない

所以である。

で、とにかく多種多様な贈り物をひとりの娘を巡る思弁の中で獲得することが出来た。
結果として、娘は、いまだ見知らぬ一人の老人への畏怖と憧憬の中にぐずぐずと蹲っており、老人は老人で娘を燃えカスのように見放している。

なんとも殺伐とした、豊饒なる大地よ。
娘の復活を願う。

いい気なもんだね、この似非文学者!!

ラベル:

快眠!!

本日、6時起床。

奇跡的な6時間の連続睡眠を得る。
心地よい睡眠とはこのことだったのか。
ここ3,4日、昼間から激しい眠気が襲ってきていた。
わたしのホメオスタシスが戻ってきたのだろう。
その結果としての快眠。

だが、困ったこともある。
一滴も酒を飲まない健康的なこの生活の中で痛風を発症してしまった。

ああ、なんと厄介な、わがホメオスタシスよ。

ラベル:

2010年5月7日金曜日

さらに葛根湯

仕事をしながら風邪は治らない。
風邪薬を退薬処理の過程で摂取しないことに決めていたので、えらく長引いた。

「新ルルA錠」=「エフェドリン…→覚せい剤」で症状を押さえていたが、さらにひどくなった。そこで、「葛根湯」=「麻黄…→覚せい剤」を摂取することにした。
上のように西洋医学にも漢方にも覚せい剤は含まれている。
薬は取り方によっては麻薬にもなるから…。
バカをおっしゃい。

取り方によってではない。
薬はそのまま麻薬であるケースがあるのだ。

酒と一緒に飲んでいたりするとえらい目に会いますぞ。
そう言えば、あの酒井法子さん。
マスコミ報道には出てきませんが、決して覚せい剤とは手が切れません。
覚せい剤はそんな生易しい飲み物ではないのです。

子んなにブツが手に入りやすい中で、酒井先生は頑張れるでしょうか。
本人次第なのですが、薬を抜ききった人はほとんどいません。
わたしも知りません。

覚せい剤の恐ろしい所以です。
わたしは、とにかく仕事終わりの8時まで覚せい剤の勢いで仕事をこなします。
今日はしっかり寝て、体調を戻します。

皆さんも困ってしまったら、風邪薬という名の覚せい剤をどうぞ。
どうか、中毒にならないように。

ラベル:

困ったね、伊坂さん    

5月7日に読売新聞に以下のことが発表された。

現代の人間とは別種の人類であるネアンデルタール人が、初期の人間と交雑していたという研究結果を、米独の研究チームが7日付の米科学誌サイエンスに発表する。
ネアンデルタール人は現生人類(ホモ・サピエンス)との生存競争に敗れ絶滅したとされてきたが、実際には現生人類と交流し、その遺伝子が受け継がれていたことになる。アフリカ以外の地域に住む現代人のゲノム(全遺伝情報)のうち1~4%がネアンデルタール人に由来するという。

ああ、そういうことがわかったのかと驚いた。
少し前に「重力ピエロ」で、ネアンデルタール人とクロマニョン人の違いを教えてもらっていたからである。
そこには、ネアンデルタール人は現生人類(ホモ・サピエンス)との生存競争に敗れ絶滅したとあり、その後にこの事実から素敵な解釈を生み出していた。

伊坂さんのセンスがそこに集約されていた。
けれども、冒頭のニュースで「重力ピエロ」の素敵なこの一節は吹っ飛んでしまった。
事実認識が変わったのだから、新しい説を無視することもできまい。

伊坂さんはどうするのだろう。
重刷のときに知らん振りするのかな。
それとも書き直すのかな。
ただ、その部分を削除するのかな。

困ったね、伊坂さん。

ラベル:

2010年5月6日木曜日

音楽を聴く

商売柄、音楽を聴くことが多くなったが、聴くたびに思い知らされるのは、音楽のもつ媒体としての力強さだ。
媒体としての力強さというのは、受信者に届く衝撃具合を言っているのだが、音楽のそれは直接的でぶれるところがない。
こう書ききるときに頭の中を横切るのは文字媒体の頼りなさげな風情です。

文字媒体で人に何かを知らせるというのは至難の技だと思います。
念のために書いておけば、書は文字媒体であるかのように見えて文字媒体ではありません。
それでは…
その後の説明は、このところよく登場する伊藤雲峰先生にお任せしましょう。

ところで、音楽や芝居や映画に対抗する術として文字媒体は何を用意しているのでしょうか。

これは、大きな問題ですね。
昨今の出版不況も関わってくるかもしれませんね。

まあ、そういうことをちらりと考えながら、音楽を聴いているわけですよ。
いまは、ギター音楽です。
それは、仕事とは…、いやいや関係してくるのです。
あたかも平行と思われた半直線がはるかかなたで交わるように。

ラベル:

自分を疑え

この標語はは重要である。

「自分を疑え」

まさにこのことである。
自分の生き死にを握るのは。

そういう人間を多く目にする。
人というのは知らぬ間に自分の考えることを正しいと信じ、深く自分の考えに影響されるものだ。
けどねえ、怪しんだよ、自分の考えなどは。

自分の考えに影響されるをもう少し詳しく書けば、こうなる。
人は、自分の考えに従って自分の行動を決める。
自分の行動だから、他人さまには迷惑をかけないわけで、この点を頼りにあまり検証もしないで自分の考えに盲目裡に従う。
こういう人が多い。

けどさ、自分って結構大事でしょ、それに自分の行動によって他者にひどい思いを味合わせることって十分にあるし、申し訳ないことだと思うよ。
そういう結果を生む「自分の考えに盲目裡に従う」ということは、十分に疑う必要があると思うよ。

こう考えたから、こうした。
とても直線的で疑う余地がないように見えるけど、「こう考えた」のなかに、すでに間違いが含まれていることって結構多いんだよ。

だから、先の標語。

「自分を疑え」

とても大切な意識で、とても遂行することの難しい指針なんだ。
わたしも訓練の途中だけど、ちょっと注意を向けてみてくださいね。

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オレも社内ニートか!?

連休明けに出社してみて、あれ~と思ったのだが、オレは立派な社内ニートではないのか。

まず、誰かが仕事を頼みに来るではない。
仕事どころか話しかけもしてこない。
話しかけてくるのは、社長とアニメーション部の部長だけ。

あ、そういえば、事情をよく知らぬ新入社員が、月に一度くらい仕事をもってくる。
もちろん仕事がないわけではない。
社長から直接依頼された仕事が山ほどある。

けれども、孤立しているのである。
村八分といえば、村八分なのだが、彼らはそれよりずっと攻撃的ではない。
どちらかといえば、わたしの方が攻撃的である。

けど、なんだなあ…、古手の社員と新規参入の荒くれ者のわたし。
もう入社して3ヶ月経つ。
古手か新参者か、どちらかがゆでガエル現象に見舞われているのは間違いないところだろう。
おそらく古手の側だろうが、侮ってはいけない。
それに自分の判断を信用してはいけない。
(このところ正解率が上がって来たといえども、しばしば間違える)

周りの水が熱湯に変化していくのではないかを十分に注意して会社生活を送ろう。

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2010年5月5日水曜日

風邪薬を飲む

あまりの体調の悪さに市販の風邪薬を嚥下してしまった。
ここ二週間程、体力で耐えてきたが、明日からの仕事を控えてのことである。


ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、市販の風邪薬には「メチルエフェドリン塩酸塩」というものが、使用されており、これは覚せい剤のもとになる物質である。
風邪薬を飲むと治ったような気になるのは(治ってはいないことに注意しよう)、覚醒効果によります。


まあ、風邪なんて大げさな病気ではないので、治った気分でゆったりと日常生活を覚せい剤を飲みながらこなしていると、あ~ら、不思議、ほんとに治っちゃった。

てな、具合である。


こういうことを書くと向きになって批判してくる御仁がいらっしゃるが、そういう無意味な会話をわたしは望んでいない。
気になるのでしたら、インターネットで調べたらいい。
それなりの答が出るはずです。
もし「エフェドリン」が、覚せい剤とつながっていないとおっしゃるのであれば、それはご教示していただければ幸せです。
より正確なことを知るのはわたしの楽しみであります。


今のところのわたしの知識では、今飲んだ新ルルもわたしの近くにあるエスタックアルファもこの元気にしてくれる成分「エフェドリン」がしっかりと含まれている。
ほかのクスリはチェックしていないが、「エフェドリン」が含まれていない風邪クスリがあれば、それをわたしも飲みたいと思っています。
(そのクスリにエフェドリンのようなものが含まれていないのなら)


ときどき、パブロンなどをバカみたいに飲んで、トリップする愉快な方たちがいるが、あれは覚せい剤中毒の初期ですね。


ちなみに、ならば漢方薬ならいいだろうと発想される安直な方がいらっしゃるが、漢方薬には漢方薬で
十分に危ない。

葛根湯などには、エフェドリンと深くつながっているある物質がしっかりと入っている。

先日、精神錯乱気味の女性に「キミはエフェドリンなんか取っていないよね」と確認したら、「そんなもの取っていません」と怒って答えていたが、わたしの質問は市販の風邪薬を飲んでいないねという趣旨だったのだが、わからなかったのだろうな。


幸いなことに彼女の精神錯乱も収まってきた。

原因は、何、激しい感情の起伏によるもので、その感情の起伏が自分のなかで起こっているという事実を見ようとしていないだけのことだ。


人間は手前勝手に出来事を解釈する。

そして、知らぬ間に覚せい剤などを飲んで、風邪が治ったと思っている。

覚せい剤が史上最悪だというのは、こういった我々の日常生活への浸透具合も含めてのことだ。

お気をつけあれ。


と言っている間にあ~ら不思議、わたしの体調がよくなってきた。
やっぱり、「エフェドリン」ってすごいんだね。
覚せい剤ってどれくらいすごいのかな。

なんていって、試したらだめですよ。
抜け出せなくなることは、確実です。

酒なんぞの比ではありません。 

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2010年5月4日火曜日

アイヌネギ

三日ほど前からアイヌネギの…、(行者にんにくのほうがわかりやすいかな)醤油漬けが冷蔵庫で待っている。
安く売っているのを見つけて、買い求めてわたしが作ったのだ。

通常は、軽く湯通しをしてやるものだが、それだと一日でできるという即席性はあるが、辛味が弱くなる。
絡み(辛味でしょ?)命のわたしは、辛味を求めてただ一直線、火を通さずよく洗ったナマの状態のアイヌネギを醤油に漬ける。
醤油漬けといっても単に醤油だけというわけではない。
出汁とか酢とか…いろいろね。
でもって、3日も待てば、あの辛味がやってくる。

やってきましたよ、アイヌネギ独特の辛味が、たまりませんよ、あ~た。
こういうときはですね、きつめの焼酎なんぞをデスね…それができません。

やはりなんですね。
酒はいいもんだったんですね。

あんなに飲まなければよかったのに。
だから、やめなさいと何度も止めたのに。

こんなセリフ、三人ぐらいに言われたな。

もって、銘すべし…か。

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ブログを通じての出会い

こじんまりとしたブログに何人かの心ある人が集まってくれていて、それでこのブログの世界はできています。
閉じられた系ではないのですが、めったにコメントもないものですから、閉じられているかのように錯覚もしていたようです。

「夏野菜、遅し」の項に、なつかしい人からのコメントがあり、やり取りをしていますが、とてもワクワクします。
小さな出会いが心の支えです。

あまり偉そうにならないように、読んでくださる方の愉快を少しでも引き出せるように、ちょっとした工夫の中でブログを前へ進めて行こうと思います。

よろしく、お願いします。

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2010年5月3日月曜日

今井凌雪先生

今井先生は伊藤雲峰さんの師匠である。
師匠と言うよりは師と仰ぐ人と書いた方がいいだろうか。

現代に生きる傑物です。
お身体をお悪くして、奈良で静養しているとお聞きしているが、心配なことです。

雲峰さんがわたしに「書を志す人へ」という今井先生の本を貸してくれていて、今日は調子がいいので先ほどから読んでいるのだが、たまりません、この本は。

この本には、値がつかない。
今井先生がどれだけの時間を費やしたのだろう、今井先生の当時のエキスがふんだんに注入されている。
読む人の理解にあわせて、いくらでも大きく受け止めてくれる本だ。

わたしは、幸せなことに伊藤雲峰先生の薫陶を受けているものだから、かなり深部まで読める。
おそらく、3%くらいはわかるのではないのだろうか。

3%!?

冗談を書いているのではない。
3%と言えば、恐ろしい数字である。

えっ、今井先生の著書の3%もわかるんですか、それはすごいですね。

心ある人がわたしの感想を聞いたなら、間違いなくこういう会話が続くはずだ。

わたしは、いまだ書に手を出してはいない。
手を出してはいないが、この本を一回読んだ暁には(たぶん、一生読む本になると思うから)、その時点で筆を取るようになると思う。

生まれてきて、書に手を染めないとは…
深く恥じ入るのではないだろうか。

わたしは、伊藤雲峰先生に嫉妬する。
わたしは、まだ一度も今井先生に面前でお会いしていないのだ。

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この頃は眠れるの?

優しい声でタイトルのように聞いてくれるご婦人などいるはずもない。
致し方なく妄想してみるだけだ。
(間違いなく変態だね)

で、その睡眠時間のほうだが、5月1日(4時間睡眠)、2日(2時間睡眠)と無理を押して、親しい友人と会っていたものだから、昨日の夜からすっかり疲れてしまい、長い睡眠は取れないものの(2時間が持続睡眠の限度)、五月雨式に眠っていて、16時近くになる現在、すこぶる調子がいい。
というわけで、直前の激烈なる(緩和表現にはしていたが)ブログと相成った次第です。

いろいろと耳に痛いこともあるかとは思いますが、ああこれはとんぼ丸の体調が戻ってきた証拠だとお受け取りになって、ご寛恕ください。

ポテチン…。

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若い娘だけではない

限られた人たちを除いては、腰を低くして力をためて、言葉を吐けば、それがメールであっても十中ハ九、返事は返ってこない。

いい子いい子と頭を撫でながらのやり取りでないと、彼らとのコミュニケーションは調子よく進まないのだ。
ったく、冗談じゃないぜ、雲峰先生。
(雲峰先生は、書道家にしてわたしの畏友であります)

上から目線がイヤです!?、それはおまえがええ加減に生きてきた証拠やないか。
だれだって、批判にさらされる部分はある。
言われたら、頭を下げればいいし、おかしいと思えば、立ち向かえばいい。
それだけのことが出来ずに、KYだ!?。
頭痛くなるぜ、キミたちとコミュニケーションをしていると。

言っておきますが、わたしも含めてみんな立派じゃないんだよ。
文句くらい言われるだろうよ。
罵倒もされるだろうよ。

それを上から目線はやめてください!?

なるべく止めるようにするよ。
だから、キミたちももう一つ歩を進めてください。

志が感じられんのだよ、キミたちには。
この世から消滅してもいいと思うよ。
わたしは一向に構わんよ。
葬儀にも出やせんよ。

とにかく、わたしのメールがきつかったくらいで、へなへなするなよ。
陰に回って、わたしの悪口を言うことで解消するなよ。

絶望的だな、キミたちは。
ねえ、雲峰先生。

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