2010年5月10日月曜日

社会に出てみて…

オレのようなぐうたらは、放っておけばぐずぐずと四畳半でのた打ち回って死ぬだけのことだったのに、思わぬ借金がオレを社会へ追いやった。
追いやられてみれば、そこではそこでなかなかオレって役に立つじゃんってもんで、だんだん態度はでかくなる。

自己否定で生きてきたオレだけど、具体的なだれそれの前でひれ伏したことはそうそうない。
昔々に塩沢由典、鶴見俊輔の両先生に完膚なきまでにやられてから後、痛い目に会ったことはあまり覚えていない。
あれほどまでに虚仮にされたことはなかっただろう。

まあ、あのときは虚仮にされたというよりも自分の届かない人を眺めて、ただただその大きさに驚愕して、腰が抜けてしまったのだ。
いまでも、あのお二人には到底届かない。
だから、世の中にはよくよく探してみれば、あれくらいの人もいるのだろうという変な腹のくくり方が出来てしまっている。

そういう人間は、人の見方に厳しい。
自分の上にもう一つの(もう二つのか)物差しがあるのだから、人から見れば厭な男だろう。

まあそんなこんなも合わさって、社会に出て自分が出来ることもわかったし、人が結構無駄に動いていることもわかった。
出来るという人が、たいしたものではないのもわかった。

社会とは深みにはまらぬ限り、意外に楽しくやっていける。
けれども、そういう自信がオレについたときによからぬことも起こった。

従来から付き合っている人たちの中の多くが、変わったオレをなじるのだ。
もちろんコトバにしないことが多い。

けれども、雰囲気でわかる。

変わらぬ人たちのなかで一人変われば村八分だ。
世の中、そんなもんだ、雲峰先生。

変わったオレを評価する人は少ない。
昔のオレと昔のまま付き合いたい人が多い。
彼らは、今更変わるのはいやなのだ。

あのまま老いさらばえて死んでしまいたいのだ。
ハッキリとではないが、そんな風に思い、すでに死んでしまっている
すでに死んでしまっている人間に期待は出来まい。

ここは新たに関係を作り出すか、見つけ出すかしかない。

というわけで、わたしは新たにわたしのプライベートな事件の愚痴を聞いてもらうために若者に頭を下げてお願いし、新しい目的を見据えるために雲峰先生の真摯なる姿勢に自分を重ねようとした。

新たな人生のための再構成の枢軸に若者二人を置き、回りを豊かに年老いている何人かで固めた。
後は、彼らに足る人物にわたしがなっていくことだ。
わたしもしんどいが、彼らもしんどい。
生き続けていくのは、そのような作業だ。

いま、再構成され始めたわたしの周りを見回してみれば、なるほどと実感する。
まだ、足りないところもあるが、それは己の不徳の致すところ、目を瞑る。

これからは、ぼちぼち固めていくしかあるまい。
とりあえずはいい作品を書いてみたいものだ。

新しい人と出会いたいものだ。
ぞんざいに扱った人との関係を新しく作り出したいと願ってみる。

そういうわけで、同志よ、わたしは、もう少しだけ雄雄しく生きてみたいと思っています。

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