2010年5月27日木曜日

うれしい出来事

昨日は、一人の先達からアニメ業界の話をいくつか教わった。
仕事がらみのことだが、それでも知らない世界をその人の生きてきた姿とオーバーラップして伺うことは至上の喜びだし、それでこそ仕事に深くつながっていくというものだ。
そういう機微もわからずにただ上辺だけで仕事をとらえ、浅薄にこなしていくのとは土台、話が違う。

その後、若者と笑いについての話と細やかな文章について語った。
わたしは、何かを追及しようとする若者と話すことが好きだ。
その逆のわかった気になっている若者を、もちろん大人もそうだが、嫌悪する。
あたかも、どうだすごいだろうと声高に話す若者を見ると、心底情けなくなる。

吸収すべきものは、いつでもそばに転がっている。
わたしのような歳になっても知らないことだらけだ。
30やそこらで、何を寝ぼけたことを考えているのかと思う。
吐き気さえしてくる。

そこへいくと件の青年は素敵だった。
何よりも知ろうとする姿勢があった。

それだけがすべてなのである。

人にあって、大切なものは姿勢だ。
その姿勢こそが守るべきものであって、何を知っているかとか、どれだけ社会的に認められているかとか、容姿などは二の次三の次なのである。

姿勢さえ守られていれば、人は素敵なのである。
姿勢さえ守っていればいいのだ。
逆にその姿勢をおざなりにしてしまえば、すべては終わる。

見知らぬものを知ろうとする姿勢はなかなか保ち続けられるものではない。
あるとき店頭に並ぶドラッガーを手にとってみた好奇心はいつまでも持続するものではない。
もし、その好奇心が続くのならば、わたしはその若者を愛する。
どれだけ現状が無様であってもわたしはその若者を信頼する。

とにかく姿勢なのである。
昨日の若者の姿勢は立派だった。

念のため、つけ加えておくが、姿勢が立派だからといって一丁前の男になるとは限らない。
もちろん女性の場合でも。

けれども姿勢がなければスタートラインにも立てないのだ。
それでは困るだろう。

スタートラインに立てたなら行けるところまで行ってみようではないか。
結果はとやかく考えるな。

走るその姿が快感と思え。
わたしは昨日話し合った若者にしばらく伴走する。

それが、わたしの喜びだ。
わたしは若者の姿勢を愛する。

ここは厳密を帰したい。
若者が女性であっても同じだ。
わたしはその姿勢を愛する。
その姿勢を持った若者を愛する。
そのあと、どうなっていくかは知らない。

始まりは姿勢への強い評価だ。
たとえその人間が無知で破廉恥であってもかまわない。
姿勢さえあれば、わたしには必要十分なのである。

そういう連中といつまでもつき合っていたいと思う。
昨日は、その中の一人と会った。

幸せである。

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