2008年9月30日火曜日

メヒカリ


いわき市の魚である「メヒカリ」は 平成13年10月に、いわき市の水産物イメージアップと消費拡大を図るためにいわき市の魚として制定されている。
和名は「アオメエソ」という深海魚なのだが、あまり東京では見かけない。
体長は大きいもので、15cmくらいで、目が大きく青緑色に光ることから通称「目光=めひかり」と呼ばれている。

塩焼き・唐揚げ・天ぷら・干物にして食すのが一般的なのだが、傷みやすい魚なので、福島県内陸方面などでは"生"の状態で、東京ではあまり店頭に並ぶことの少ない魚であるとまでは知っていたが、昨夜久しぶりに出かけた居酒屋が出していた。
アブラののった「メヒカリ」はなかなかにおいしかった。
こういうものを食べていけば、食糧危機も少しは緩和されるのにと思う。

意外に思われるかもしれないが、この海産国では意外に食べない魚が多い。
そういうものまで手を出して、慎ましやかに暮らそうというのがわたしの思いだが、そういうわけにはいかないらしい。

ついでに書いておけば、わたしはメヒカリは金沢あたりで食すものだと思っていたが、どうもそうではないらしい。(ノドクロと混線したか)
しかし、あまり東京ではお目にかからない。
是非みなさんには食していただきたい。

高級料理でないところもよいではないか。
さらにつけ加えれば、メヒカリは東日本の何ヶ所かで取れる。
というか多くの場所で取れる。

「青森のメヒカリは見逃すな」ということまで言うのだから。

ラベル:

2008年9月29日月曜日

人の感性

人は皮膚でも感じるし、もっと言えば髪でも爪でも感じる。

もちろん眼を通してきたものにも、耳を通してきたものにも、鼻を通してきたものにも感じることができる。
それらは視覚だの聴覚だの嗅覚だの触覚だのというが他にも味覚や第6感などというものもある。
しかしながら、残念なことにそれらはあまり多く取りざたされなくなっている。

多くのマスメディアの中心は、情報収集能力と情報処理能力に終始し、主に頭で考えしゃべることに重きを置いている。
もともと都市がそのように出来上がっており、その都市で活躍の場を与えられるのが前述の情報収集能力と情報処理能力だからそのこと自体に何の不自然さはない。(都市が不自然なだけだ)
だから、その自然なことをここで荒げる必要もないが、それらが万能の力であると誤解しているのは危ない。

人が感じることができるというのは大きな能力だが、頭で考えること、その多くは言語化していくことだが、その行為が人を感じることから遠ざけている。
ごくごく単純に言えば、ある花を見て「かわいい」といってしまえば感じる自分はその時点で止まる。
言葉にはそのような力がある。

念のために言っておけばこの場合の「かわいい」は花がかわいいのではなく、花を「かわいい」と言うわたしを主張する言葉だ。(その点でも感性からはなはだしく遠い)

花の持つ多くの要素はそのまま身のうちに取り込むことにおいてのみ開花する。

都会ではとても難しいことだが、(しっかり考えていないと取り込み詐欺にかかったりするからね)田舎に行ったときに感じることをそのまま身のうちに入れる訓練をするといいと思う。
そのままというのは「言語化を拒否する」ということだ。
何の言葉にもせず目に入ってくるものは目に入ってくるように、鼻からくる香りはその香りのように…、そういうことをしていると自分がいつの間にかどこかに行ってしまい、どこか違う世界に入ってきたような感じがしてくる。

わたしは屋久島でそんな体験を持った。

感動などというものは、その瞬間に訪れるものではなく違う場所や時間に訪れてくる。
あるときは訪れないこともある。

それでも「かわいい」などという言葉をあなたには毅然として発しないでもらいたい。

ラベル:

2008年9月28日日曜日

王貞治を思うとき


王貞治のファンだと最近書いたが、そのときわたしの胸にあったのは、長嶋茂雄は嫌いであったなあという思いだった。
今でもその思いは引きずっているが、正確には長嶋茂雄でなく無頓着に長島のファンだと言い切る長嶋茂雄のファンたちに嫌気がさしていた。
その説明ならば多少なりともできるが、今は王のファンであることに誇りを持つことを中心において書かしてほしい。

今夕、散々馬鹿にしていたテレビ番組で王の人となりを映していた。
その中では王のファンたちを多く映し出し、大きな力を確認させてもらった。
いい番組もある、もちろん。

彼の(監督をしていたチームの)選手まで彼のファンであった。
こういうことは王貞治が巨人軍の指揮者をしていたときは起こらなかった。
あのころの巨人軍には、今もそうだが馬鹿が多く、王貞治が何者であるかを知らなかった。

いい番組を見せてくれたテレビに感謝したい。

そして、彼のファンであったことを噛み締めたい。
イチローが王貞治を世界一にしたいと言ったのは伊達に言った言葉ではない。
長島が監督ならそうは言わなかったし、星野が監督であってもそうだろう。

ファンであることも、祭りではない表層以外のものを持つことがある。

いつも文句を言うテレビだが、いい企画のいい番組を見せてもらった。
ありがとう。

ラベル:

テレビは媚びる

何年か先にテレビが地デジに変わるからとしきりに宣伝しているが、考えてみればそれほどまでにテレビが生活に必要というわけでもない。
ラジオでほぼ対応できるのではないかとわたしなどは思っている。
ニュースの速さでテレビの必要性を説くかもしれないが、ラジオ程度でいいのではないのだろうか。
それがわたしの個人的な意見です。

第一、テレビは媚びる。
これに嫌気がさすし、慣れれば考えることから遠ざかる。
考えることから遠くなって、何も考えずにぼんやりするのもいいが、知らぬうちにテレビは洗脳していく。
媚びるというのは洗脳への一里塚で、テレビ芸人の言葉が巷に流布する所以である。

テレビは主体が、音声ではなく映像であるから動きを必要とする。
おかしいときににこりと微笑むことだけで出演者を許さないのは、テレビのその部分を強調した演出で、今では特殊な人間を除いてだれかれとなく少しおかしいことが映像に映れば、手を叩いて喜び笑う。
この場合手を叩くというのがポイントで、たぶん手を叩かなければ演出家には嫌われるのだろう。
演出家を恐れぬ大御所たちが手を叩かぬ理由はそこにあり、視聴者に対する媚をわざわざしたくないというのが彼らの気持ちの底にある。

にもかかわらずこのごろは、手を叩いて笑う人間が巷にもいる。
悲しきテレビの被害者というわけだ。

同じようなことはここかしこにおいて起きていてテレビの大衆に対する媚だけではなく政治家やスポンサーに対する媚びもまた視聴者に感染している。
その感染率は深く強く、今の状況を大宅先生がごらんになればどのように言われるのだろうか。

もちろんテレビでの評論家やコメンテーターという人々も媚びている。
その媚びている対象がテレビ局か、政治家か、スポンサーかは知らないが、媚びている人間、媚びることに敏感な人間がテレビの中では伸びていく。

そういう中にテレビがある以上、わたしたちがそれと無関係などということはありえない。

どこか誰も知らない場所で、釣り糸を下げていたいという気持ちが起こるのは、そういうことたちの中で過ごしている疲れからだろう。

ラベル:

2008年9月27日土曜日

体と心

鬱病はすでに心の病気ではなく体の病気であることは広く知られており、優れた薬も多く出回っているのだから、鬱に悩む青年は無理をせずに、つまりは「かくあるべべき」とか「かくある」自分を眺めるような行為は避けて、生きたほうがいい。

もちろん薬はある程度の効果を発揮するが、肉体から発生した心の病の現象は心から直接迫らざるを得ないところもある。
そのときに大きな効果を発揮する信用されているのが、「森田療法」だ。
この両方、精神療法で西洋薬とは自分に対し別の迫り方をするもので、どちらが優れているかではなく、それぞれを使いこなしていくしかない。

ただ、森田療法において大きなポイントは、だめな自分(自分がだめであると思ってしまう自分、思わされてしまう自分)を認めていくところにあり、その作業が、なかなかに難しいので専門医に頼ったりしている。
最終的にはとにかく、だめな自分を認めてしまうことに始まる。
自分自身で認め、もし可能なら誰かからも認められていくことができるならば、鬱はそれほどの脅威は発揮しない。

現代社会に鬱が蔓延るのは、必要以上のプレッシャーをわれわれに社会がかけ続けているからだ。
そういう意味では鬱は体の問題であるとともにきわめて社会的な問題でもある。

繰り返しになるが、経済成長の幻想を捨て、単純再生産を達成できる小さな村を作り出すという選択もある。

鳥取県智頭村板井原集落はそのようなことを考えはじめてている。
道は険しいが、傷ついた都会人がもう一度生き始められるそういう場所を国の援助も踏まえて、考えてみる気はないのだろうか。
貧困の問題は、かならずしも都会に住むという条件の元に存在しているのではないと思うのだが…

ラベル:

鬼のように勝ち抜いてきた羽生が止まる


二十五日から神奈川県箱根町のホテル花月園で行われていた将棋の第四十九期王位戦七番勝負の最終局、第七局は二十六日午後六時四十一分、後手番の深浦康市王位(36)が100手で羽生善治名人(38)=棋聖、王座、王将=を下し、四勝三敗でタイトルを初防衛した。

持ち時間8時間のうち、残り時間は羽生1分、深浦18分。

深浦は二〇〇七年度の前期、初タイトルとなる王位を羽生から奪った。今期は三勝一敗から連敗したものの、最終局で、好調が続いていた羽生の挑戦を奇しくもはね返した。羽生は六年ぶりの五冠を逃し、深浦は今回の防衛により、二十六日付で九段に昇段した。

鬼のような強さの羽生が止まった。
このまま再度の七冠もあろうかと思っていたが、深浦強し、現在進行形の王座戦は羽生の防衛可能性が強く、羽生は五冠を獲得し、そのまま渡辺との竜王戦に突入する。
ここは全力を持って羽生に当たっていかなければ、しばらくは最後の羽生時代が続くだろう。

しかし、勝負事というのはあくまでも強いものが強く、そこに心の問題も入ってきており、負けたものの切なさは部外者から見て遠く離れて見えない。
恐ろしい話だと思う。

少し前にイチローと松井の対談を見たが、イチローがワールドシリーズの松井が外角から入ってくる右投手のカーブに空振りしたことをほめていたことに痛く感動した。
あのときに打った安打でもホームランでもなく空振りをイチローはほめた。

その後に付け加えたのが、「しかしこんな見方を観客に要求するのはかわいそうだ」というひと言だ。
かわいそうではあるけれど、観客ではない当事者であるイチローはそういうバッティングを追及していくのであろう。

勝負事の当事者は常にそのような宿命を持つ。
その意識の深さが勝負に賭ける者の強さの何パーセントかを占めるというのは本当であろう。
事実、プロの将棋指しでありながら、ほぼ勝負を降りている棋士がいることをわたしは知っている。
それでも食っていけるのならば、それはそれでひとつの選択だあろう。

プロになれずに散っていく青年たちのその後の人生の乗り越え方とは違う次元の話だ。

ラベル:

2008年9月24日水曜日

ファンであること

誰かのファンになることに、何の理由も要らない。
それは、無防備でしかも無意味な行動だ。
面と向かって「ファンになること」を考えればそうなる。

ひとは年を食むにしたがって物事を頭で考えようとする。
その傾向のなか、ひとはおのれの行動にも理由をつけたがる。(本当はいらないのだと思うのだが…)
理由付けのあるあのひとが好きは、ファンの持つものではない。

ファンは、結果として無防備に知らないうちにそのひとが好きになっているのであって、好きになったからといってファンではない。
好きがその始まりならば、それは嫌いになることで終了させることができる。(好きであることは意外にもろいものなのだ)

というわけで、ひとが誰かのファンである場合、その始まりは少年少女時代であろうというのがわたしの意見である。
あのころは、闇雲にブラウン運動のように動き、結果として理由もなく誰かを好きになる能力があった。
それをもってして「ファンであること」だとすれば、成長の後にその契機は訪れない。

頭で考えること、分析、統合することにかなりの嫌悪感を抱いているわたしもまたその癖から逃れるのは至難であるのは事実だ。
だからわたしのファンになった履歴も少年時代にその起源を持つ。

そのわたしの少年のころからのファンであったひと、王貞治が引退した。
久しぶりに頭を通してではなく直接胸に響いた事件だった。

時代はこんなところまで来てしまっているのか。

「王さんが監督を辞めているのにわたしが監督をやっていていいのか」という意味のことを野村氏が言ったが、わたしも同じように思う。

何か無性に寂しい気がしている。

だから、テレビでお決まりの言葉を言う連中に本当にこいつらは何も感じないのだな、などと不謹慎な怒りをもってしまう。

無防備であることはときにそのような怒りを隠せないことでもある。

ラベル:

アンジェラ・アキ「手紙」 再び

初めて彼女の「手紙」をすべて聞いた。

申し訳ないことをした。
特筆すべき歌ではなかった。
こういうことも多々ある。(不用意に何かをほめてしまうこと、何かを好きになってしまうこと)
申し訳ない。

ただし、その歌いだし30秒あまりはとても切なく深く響く歌であるのは本当だ。
けれどもそれで終わりとはできないためにそれからの詩とメロディーを彼女は紡いだ。
残念ながらそれは陳腐なものだった。
致し方ない失敗であると思う。
彼女に悪意はない。(当たり前か)
あれをいっぱしの歌にするためにはもう少しの時間と何かがほしい。

削り取ることだけが作品を磨いていくものである。
大雑把に言えばそういうことだ。

ただ単に言葉を並べそれにメロディーをつけたところで何も産みはしない。
残念だが、これがわたしの今の感想だ。

あの歌の最初はとてもいい。
わたしはそれを聞かせてもらえただけで仕合せと思うが、そのことをあいまいな物言いで伝えたことをここに謝っておきます。

ラベル:

2008年9月22日月曜日

マクシム・ゴーリキー

ゴーリキーは

「人生とはひどいものだ、本当に残酷で、いいようもなく愚かしくひどいものだ。だからといって自分からそれを放棄するほどまではひどくない」

というが、「放棄するほどまではひどくない」の加減がわからない。

わたしは、いま一人の青年の生死を気にしているが、彼の人生はまさに 「人生とはひどいものだ、本当に残酷で、いいようもなく愚かしくひどいものだ」と言い得るたるほどの人生に思える。(わたくしの個人的には)
特に若い彼にあってはなおさらだ。

乗り越えていくのは彼の人生に対する彼の仕事だが、それを強要はできない。
何かを供用もできない。

かといって「放棄するほどまではひどくない」とも言えない。

三日ほど浴びるように酒でも飲んでいればいいのだと思うが、口出す術もない。

他人事でありながらその人に入れ込んでいるとなおさらだ。

ほんとうに人生はひどいものだと思う。

どうやって彼は乗り越えていくのだろうか。

わたしは、もし彼が人生を放棄しても何も言えない。
ただ放棄してはほしくないと願っているだけだ。

ラベル:

国家~社会学者ではないけれど

自民党総裁に麻生太郎が決定した。
例によって街頭インタビューをテレビでやっているが、「期待できません」とか、「彼ぐらいしかいないんじゃないですか」とか、…何か総裁麻生太郎と自分が関係あるかのように話している。

たとえば、国家・マスコミ・国民とラフなくくりをすれば、国会が一番強く(権力を持っているからね。合法的暴力のことですよ)、本当ならばマスコミはこれに対して批判的でなければならず、そのマスコミに示唆されながら国民(あいまいな言い方で申し訳ないが)もいろいろと考えるというような構図になるのが理想なのだが、マスコミがどれくらい考えているのかは知らないけれど、大手マスコミは軒並み国家よりになっている。
たとえば「三笠フーズ」と「農林水産省の大阪農政事務所」との癒着つまりは、あの汚染米事件が国家がらみの話であったことなどというのはクチが裂けても言えません、という国家の立場が大手マスコミの立場だ。

毎年3万人を越える自殺者を出していることを大々的に報道したのもごく最近のことだ。(それも確か、大手新聞社のうちのひとつだけ)
1939~1945年に行われた第二次世界大戦での戦死者、約300万人あまりを考えても、ここ10年近く続く自殺者3万人越えはえげつない話しだし、国民にはあまりお知らせしたくない話だ。

国民に対しては国家は順調に運営されているとしておきたいのが国家の発想だ。
その発想をはっきりと認識しているかどうかは別にして国家を運営している官僚・政治家はそう考えるのが自然だ。
なぜなら国家というシステムはその順調なる運営が第一義であって、国民の幸せ、それも弱者と限定してしまえば、国家は弱者に何の興味も抱いていない。
したがってその運営者も弱者に対して何の興味も抱いていない、というのが自然な落としどころだ。

いや、十分に考えているという振りをするのは国民に投票権があるという一点においてのみである(国民の暴動という恐怖感もあろうが、日本では起こらないことになっている)。
選挙さえすめば国民なんぞは虫けらのようなものだ。
でなければ、汚染米のようなことを、薬害肝炎のようなことをするわけふがない。
一時的な票さえもらえればいいわけだ。(繰り返すが、彼らがこれをはっきりと意識しているかどうかは知らない。また、すべての官僚・政治家がそうではないかもしれない)

とにかくそういうわけで、意識的であれ、慣習であれ、役人・政治家はそのように動き、か弱き国民に対して一顧だにしない。
「後期高齢者保険制度は見直しが必要だ」などといってはみるが、後期高齢者が早く死んでくれればもっと好都合なわけだ。

北朝鮮の拉致問題も票につながるので騒いでいるだけで、国家にすれば核問題のほうがはるかに大きい。
また、拉致問題を本当に解決したかったならば、蓮池氏たちを北朝鮮に戻すべきだった。
そのほうが拉致問題解決の可能性は大きかった。
国際政治はゲームだから。

そういうわけで、重要なことは国家は基本的に国民のことなど考えてはいない。
しかも今の国民は多くなりすぎている。
大きく見れば、アメリカは日本など心配してはいない。
そして、その日本という国は、その中で生きる国民を心配してはいない。

弱者が死んでいくのは、票と関係なければ別に痛痒は感じない。
それが票につながったり、暴動やクーデターにつながるとき初めて国家は国民に目を向ける。
第一義である国家運営に支障をきたすからだ。

船戸与一の「満州国演義」を読んでいるとその辺のところはよく見える。
もちろん船戸氏を信用すればのことだけれど…(わたしは信用している)。
あの当時は軍部の動きも注意しなければならなかった。
国民世論も今以上の力を持っていた。
したがって、国家もまた国民のことを気にしていたし、うまくだまそうと考えた。
そのためには満州が必要だったかもしれない。
日本国民に比べれば中国の人民は虫けら以下だったのだろう。

そう考える人間たちがいた。
もちろんそうではない人々もいたが、それはやさしい人々だけではなく、権力に対してたて突く可能性のある人々でもあった。
それが、あの時代の背負った重苦しさで戦争に追いやる一因だったのかもしれない。

その点で、今の日本のマスコミに翻弄される国民は哀しい。
しかも、そのことにあまり疑問を抱いてはいない。

「三笠フーズ」も「薬害肝炎」も本当のところはあまり怒っていないでしょう、あなただって。
わたしもそうだ。

ただ国家が、はなからわれわれを見限っていることは忘れないようにしたい。
そして、国家を信用せず、国家を見限ってしまいたい。

その日まではあまり無茶な政治はしないでほしいというのがわたしの国家へのささやかなお願いです。

ラベル:

テレビ芸

少し前にある番組でこのごろ、演芸(漫才・コントなど)のテレビで演じる時間がどんどん短くなってきている、あれでは芸は見せられないと年配の芸人が嘆いているのを見たが、まことにそのとおりだと思った。
思ったが、テレビというのはもともとそういうもので、いくらビデオで見ても文楽、志ん生、円生…、はたまたダイラケ、イトコイの芸が見えてこないのと同じようにビデオよりもさらにテレビの伝えるものの中にはその芸に含まれる大きな要素である雰囲気としか言いようのないものが欠如している(含まれていない)。

芸においては、まことにここが大きなポイントで、だからこそ、寄席に通ったりするわけで、(これは演者が要求することではないのだろうけれど)そのことにより聞き手は芸を知っていくことになる。
聞き手もまた成長を要求されるわけだ。

その点をイチローは自分の打席の中にあるものを見てほしいと願うのは、こちら側の勝手な要望で、観客に(その深みをわかれというのは)とってはかわいそうな要望だ、と言っているわけだ。

また枝雀があれほど自分のビデオを見て笑ったのも観客としての枝雀がほかをはるかに超えて優れていた、つまり聞き手にも必要な力が要求されている証拠だ(しかし、それを暗に要求することはどうだろうか、というのは演者の考えなければならないところだろう。演者を書き手と変えてもよいのだろうが)。

さて、そのようにいわゆる芸を見せるのに不適合なテレビにおいては、洗練されたものではなくもっと荒い単純で視聴者にダイレクトに伝わるものが好まれる。
それが、下品だがインパクトのある素人芸である。(もちろん持続性はないから長時間演じることはできない)
そういえばと頭に浮かぶタレントが何人もいるだろうが、まさに彼らがそうである。

その彼らが寄席の舞台に登場したらば、かなり悲惨な状況になる。
やはり寄席では「おぼん・こぼん」なのである。
彼らのエンターティナー性は他を寄せ付けないところがあるし、であるからテレビ向きではない。

テレビで活躍するさんま、紳介は素人芸を極めていったところにあり、それを計算ずくでやっているところに彼らのすばらしさがあるが、舞台に出せばちゃちなものである。
しかし、舞台とテレビとその芸を使い分けろといわれても彼らは困るだろう。

笑福亭鶴瓶もまた素人芸の極致を演じられるが、その彼が落語に取り組みだしたのは、芸というものに見せられたからである。
この転換は難しく、イバラの道であるが、その道を歩もうとする彼の立派さは注目に値する。
先を行く小朝がいまだに舞台においても素人にこびるのは、テレビ芸人の気分がどこかにあるからで、これを見ても、テレビから舞台への転換の難しさがわかるというものだ。

テレビが欲しているのは素人の芸であり、それが笑いを呼ぶ。
プロがテレビで芸を見せたところで、一般に受けはしない。

それを知ってやっているテレビ芸人もいればテレビを見る視聴者もいる。
そうしてみているとテレビも少しは面白いが、小三治をテレビで知ることはできないし、小三治のわかる目を育てることもできない。

それがテレビの持つ毒性であり、落語ブームがテレビから発生するわけがないのは以上のような状況だからである。

ラベル:

2008年9月21日日曜日

ドクダミ

昨日書いたドクダミは、抜き取られても反逆はできないが、シカやサルやイノシシならば、その住処たる自然を人間に奪われてしまえば、人里に下りてくることもあるだろう。
東南アジアやアフリカでゾウが人を襲うのもそのようなことだろう。
害獣というコトバを人間は作ったが、この地球上でもっとも大きな環境破壊者は人間だ。
獣たちの反逆はささやかなものだと考えなければなるまい。

アメリカとテロリストの戦いにも似ている。

リーマンショックのニュースが大きく流れているが、リーマン倒産の大きな原因のひとつはサブプライムローンを抱え込んだことにある。
サブプライムローンとは貧困者に対する住宅資金の貸付で、貧困者である彼らの未来に対する投資であるとか、困れば住居を売ればいいとかのコトバで貸付を一時的に増やしていき、一部の人間が潤った。
そうして、貧困者の未来は当たり前のように、彼らが誘惑したようには展開することなく現在の状況を迎えている。

人間が生きるためには健全な環境が必要だが、それを何ものかの犠牲の上に作ろうというのが人間の発想だ。
同じように経済成長はできればいいが、これもまた一種の幻想で永久に続くものではない。
そのためには戦争も起こさねばならないだろうし、貧乏人もだまさなければならないだろう。
また、だましたもの同士で最終的なツケの押し付け合いもしなければならないだろう。

いつも書くが、人は単純再生産の世界に、定常状態に入っていく必要があるのだと思う。
それが今では遅すぎるのかどうかは知らない、知らないが、必要性があるという議論は消えない。

人口増加も環境破壊も経済成長もマルチ商法のようなものだ。

人間の生き方を問われている問題としては、シカが畑を荒らすこともリーマンショックも同じようにわたしには見える。

ラベル:

2008年9月20日土曜日

虫の音


今年の春はドクダミがはびこるのを嫌い除草剤を蒔いたものだから、ドクダミは今我が家の小さな庭にはない。
その代わり他の雑草がいろいろと生えており、小さな草むらとなっている。

ドクダミは強烈な生命力を持ち地下茎でつながり、さらに特殊なにおいを発するもので秋の夜に集く虫などはあまり寄り付かない。

今、生い茂っている雑草たちはあの虫たちにとっては、ちょうど頃合の草むらなのだろう。
九月になり少し涼しくなってからは、ずいぶんと虫の音がする。

そういえば、ドクダミが勢力を保っていたころにはしなかったな、などと眠るころに思ったりする。

ドクダミ自体漢方としても使われたりするもので、悪いものではないのだが、自分の好みだけでそれを除去することを思うとき、ずいぶんとわたしも勝手で野蛮な人類の一人だと思わずにはいられない。

とまれ、虫の音は続いている。

ラベル:

ミステリー



ミステリーを読むなどということはまさに暇つぶしだし、それ以上のものではない。

もちろんミステリーを書こうとする者にとってはその読書は別の意味を持ってくるのはいうまでもない。
彼らにとってミステリーは飯の種になるし、いくら暇つぶしとはいっても読者もまた面白いものを彼らに要求するからだ。(その参考として別の眼で彼らは読む)

普通の読者はなぜそのミステリーが面白くなかったか(実はこちらの分析が重要なのだが)、なあぜこのミステリーが面白かったかの分析はしない。
それをするのは分析好きな人間であって、あるいはミステリー評論を飯の種にしている人間であって、ミステリー好きとは異なる人種だ。

とにかく、ミステリーは面白くさえあればいいのだが、わたしは七面倒臭い人間なものだから余計なことを付け加えることにする。(ごめんね)

多くのミステリーを読んでいるとしだい次第に眼も肥えてくる。
肥えてくれば、ミステリーについて少しは考えることもできるようになる。

ミステリーの基本は梗概であって、たいていの駄作はこの梗概(荒筋)だけで終わっている。
事実、それだけで終わってもいいのだが、そうすると何か物足りなさを感じる。
ミステリーをよく読む読者にとってはそれだけでは物足りないのだ。

で、書き手もそういう読者に対し(お得意様だから)それ以上のものを自分の書くデッサンに貼り付けようとする。
あらすじを小説にしようというわけです。

きわめて抽象的に書けば、小説はリアリティの積み重ねの上に成り立つ虚構であるから、積み重ねるものはリアリティのあるものでなくてはならない。
であるから作り物に過ぎない小説に取材などとえらそうなことをいって、あっちへ行ったりこっちへ行ったり誰か彼かに会ったりする。
そして、そのような集大成をうまく処理できたとき、もちろんいくつかのウソという調味料を混ぜながらの話だが、名作が生まれる。

私見ではあるが、それほど多くのミステリーを読むわけではないわたしが昨今読んだものの中では「八月の蝉」が娯楽の領域を抜け出す名作となっていた。

写真に示した作品も評判になっているものであるし、この二人の書くものは常にあるレベルを超えている。(「八月の蝉」には劣るように思う、私見だが)
この二つの作品では東野氏のものが劣るが、それは彼が作品を書くに当たって材料に乏しかったからであろう。
100集めた材料の10を使って書く作品と12の材料の10を使って書く作品とではおのずから差は生じてくる。(作者の力量に大きな差がなければということだが、力量ある作家ほど材料集めに熱中するものだ)

ともあれこの二人、ともにどのようにミステリーを書けばいいか自分の中で承知している。
したがってある程度の資料を集められなければ宮部氏は作品を書き出せられないだろうし、落としどころがはっきりしなければ東野氏は書き始めないだろう。

そのときにリアリティというポイントがとても重要になってきて、そのリアリティを得るために取材が必要になってくる。
また、その人物や町や家の細部を書かなくても、それらすべてをイメージ化したりする。
作家によっては町の地図や家の見取り図を描く。(作家によってはなどと書いているが、本物の作家たちは当たり前のようにこのような作業を行っている。基本だからね)

というわけで、箱書き、梗概などの作業の後にいろいろと細工していく。
そして、期待される作家は、大きくなにを意図して書こうかとするものを作品の背後に持つ。

大きな意図に関していえば、宮部みゆきは見事で「模倣犯」「楽園」において追求される彼女の問題意識は一貫している。
その視点で見れば東野圭吾は宮部みゆきに劣る。
しかし、東野にはトリックやわかりやすい人間関係(ちょっとした読者をたやすく感動させる)を作る力がある。
まあ、それぞれということだが、どちらがどうなどということは自分で決めればいいことで、最初に戻ってしまえば所詮暇つぶしに過ぎないものだし、それが暇つぶし以上のものを与えたときに眼を見張ればいいだけの話だ。

ついでに書いておけば、作者もまた勝手に作品を書けるわけではなくリアリティの積み上げのなかから作品を引っ張り出してくるのだから、作者もまた作品を通して何かを教えられる。
教えられることのない作者はそれで終わりなわけで、そういう書き手もあまたいる。

作者は作品を仕上げるためには書くのではなく、資料を読むのであり、誰かに何かを教えてもらうのである。
だからこそ、書き手を育てるものは「書くこと」ではなく「読むこと」であり「聞くこと」であるといわれているのだ。

ラベル:

手紙 ~拝啓 十五の君へ~


アンジェラ・アキの「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」をよく耳にする。
みなさんも聞いたことがあるだろう。

おそらくこれから若者のスタンダードとして残っていくことだろう。
それも中学生くらいの人たちの中に。

わたしも久しぶりに出合った意味のある歌である。
意味があるというのは、BGMにはなりにくく、伝える内容を持つ歌である。(とりわけ歌詞が、もちろんそれをバックアップするメロディーも含めて)
そして同時にこの歌は痛みを含んでいる。
その痛みは、おそらくこの歌の持つリアリティからくるものであると思う。

ご存知のようにこの歌は実際に彼女が30歳になったとき、母親から渡される15歳だったか17歳だったかの過去の自分からの手紙に遭遇するという事実から始まる。
その手紙を読むことが、この歌を作る契機となっている。

要は、始まりから終わりまでほぼ本物が核にあるのだ。

そのことに多くの中学生くらいの年代の人たちは飛びついた。
そこに彼ら自身がいたからだ。
痛みを持つ彼らは痛みを持つ歌を欲していた。

しかし、この時代は多少の心地よさを持つBGMを量産するに過ぎなかった。

商業主義にも乗って今この歌は驀進中だろう。
それならばそれでいい。(商業主義が介在していたとしても)

さてわたしの言いたいことはといえば、そんなにもこの歌を待っていた人たちがいたということへの驚き。
若き人々の普遍的な苦悩の存在への驚きだ。

若さとは残酷にして、遠く遠く離れればいとおしいもののように眼に映る。
しかし当事者はそうはいかない。
その当事者へ直接響く歌がなぜアンジェラ・アキに描けたか?
それは、まさに当事者である彼女自身に30歳の彼女が過去の自分からの手紙を通して出会ったからだ。
そのときに15歳の人たちにとって部外者に過ぎなかった30歳の彼女が当事者として登場するのである。
それはもちろん極めて個人的な事情からのことだが、瞬く間に普遍していく。
そのような土壌があの歌にはあった。

じつは、わたしはこの歌をすべて聞いてはいられない。
それはいい歳をして馬鹿みたいに彼ら(15歳くらいの彼ら)と同じような感覚を持つことが痛いからだ。
だから聞いていても40秒やそこらだ。
それでいい。

それでいて、このような歌が生まれてきたこととそれを受け入れる層があったことをうれしく思う。
しかし、なんとまあ生きていくことは切ないのだろう。
それが切なくなくなってしまったとしたら、それは鈍化したからに過ぎないのだろう。

鈍化しなければ生きられない生、だまさなければ生きられない生、それはなんなのだろう。
少なくともそこには正義はないはずだ。

切ない歌に出会ってしまった。

アンジェラ・アキもまた切ない日々を通して今ある。
それは、まさにたまたまの今にすぎない。
わたしはそのたまたまのために傷つくかれらに努力すればいいとは語りかけられない。

わたしのそのすべてを聞いていない彼女の歌の全貌では、そのことをどのように彼らに語っているのだろう。

ラベル:

2008年9月19日金曜日

繋驢桔(けろけつ)

難しげなタイトルだが、「杭につながれたロバのこと」でそれほどややこしいことではない。

ややこしいことではないが、その内容はなかなかに深い。
森田療法ではよく使われるコトバであり、「自由になろうとしてもがけばもがくほど、ますます自由を奪われてしまう状態」の比喩として使われるが、なぜそのような状態に落ち込むかを考えることはかなり人間存在の本質的な部分に触れてくる。

人はあるがままでいいのである、というのがひとつの結論だが、「あるがまま」というのがこれまたあいまいなもので、「それはいったいどういうものですか」という問に答えられる方はあまりいないだろう。

なぜならわれわれは、すでに知らず知らずに社会的にあるべき姿を教えられて(植えつけられて)しまっているからだ。
そのような価値観を植えつけられた後に自分の「あるがまま」を探るのは大変に厄介だ。
しかも、われわれは「あるがまま」とは何かを考えているときにも社会のなかで生きていなければならないし。

というわけで「杭につながれたロバ」は、自然と自縄自縛の状態になってしまうものなのだ。

さらにややこしいことには、そのような自縄自縛の状態で生きていても、何も問題の起こらない人種もいれば、他からは「あれほど幸福な状態に見えるのに」苦悩する人種もいるという差があることだ。

自分に問題がなければ「繋驢桔」の話はどうでもいいことで、考える必要はないが、もし何らかの問題をお持ちならここはしっかりと問題を見据える必要があるだろう。

ところで、今回の汚染米の問題で最終的に汚染米と知らずに汚染米をつかまされ、それを加工し消費者に売った罪もないメーカーの名前が何の対策もなく、無防備に発表されたが、彼らの苦悩は、これは逃れられるようなものではなく、きわめて政治的な問題で、目も当てられない。
今頃辞任してどうするというのだ。

「繋驢桔」とは関係のない問題だが、あまりの救いようのなさに書かずにはいられませんでした。
「繋驢桔」の話はまた続けようと思います。
  

ラベル:

2008年9月18日木曜日

北朝鮮、早くも荒れているのか

小耳に挟んだことだが、北朝鮮の食糧危機がかなり緊迫しており、今まで食糧危機とはかけ離れた場所にいた軍人たちにまでも食糧難が襲いかかりつつあるということだ。

それは昨今の世界を覆い包む食糧難と同じ理由もあるし、北朝鮮の2006,7年の不作という理由もあるだろう、さらに北朝鮮の食糧流通の問題もあるだろう。

しかし、そのような分析よりも大きな問題は、食糧不足が中枢部までたどり着いているということだろう。
そして、そのような状態が、管理体制の強化ではなく、ただただ不満が蔓延するということで対応されているのであれば、隣国の韓国は難民の受け入れに対してすでに大きな不安を持っているだろう。

北朝鮮を存続させたいのは、この難民問題があるからだ。

なんにせよ、北朝鮮が、ぐらぐらと揺れ始めているのは確かであり、そのことが北朝鮮だけの問題ではないことも確かだ。

ところで、拉致問題であれだけ騒いでいるこの日本だが、北朝鮮の虐げられた難民は受け入れるのだろうか。
それともそんなことは考えてもいないのだろうか。

あまりにも早い北朝鮮の動揺に驚いたものだからここに記すことにしました。

ラベル:

2008年9月17日水曜日

千駄ヶ谷の受け師


「千駄ヶ谷の受け師」との異名をもつ木村一基をわたしはひいきにしているが、この人が、先の竜王戦挑戦者決定戦、現在行われている王座戦で苦労している。

苦労している相手は羽生善治だ。
この男が次々に受け師の受けを食い破っていく。

私見ではあるが、また強くなってきているように見えるこの男、もう一度の七冠があるのかもしれない。

しかし、何度も何度もこの羽生に挑戦していく棋士たちの気概は、生きていくものの気概そのものであり、頭が下がるばかりである。
生きていくというのはいかなる状況下でも進んでいくことなのであり、それをもって悟りと呼ぶのかもしれない。
つまり、自分の死を黙って受け入れていくことではなく、いかなる状況下でも生きていくという意志を持つことが、悟りではないかと思う。

辛いコトバだが、「死ぬ者貧乏」というコトバもあることだし。

ただいま、王座戦第二局進行中、受け師に勝たせてあげたいものだ。

ラベル:

指導者不在のときの決定権

北朝鮮が米国を射程に収める長距離ミサイルのエンジン燃焼試験を西部の中朝国境近くで建設中の新ミサイル基地で実施したと米韓メディアが報じた問題で、米政府高官は17日までに、実験の事実を確認した。AP通信が報じた。

試験を実施したのは、長距離弾道ミサイル「テポドン2号」用のエンジンで、同高官は射程を伸ばす新型エンジンではないと指摘。ただ、射程を延長させるのに必要な性能向上を目指した可能性はあるとした。同ミサイルの射程は現在、約4千キロと推定される。

試験は、エンジン試験専用施設で実施されたという。この施設はエンジン振動の分析、誘導システムの作動効果などを見極めるのに不可欠なものとされる。

金正日氏が今どのような常態にあるのかは知らないが、独裁者不在のときの意思決定はいかに行われるのか。

イランの独裁者ホメイニが病気のため、しばらくの間意思決定ができなくなると、一部の側近があたかもホメイニが決めたように政策決定を下したという。ホメイニの健康が回復して意思決定に再び参加すると、自らの執務空白期間に側近たちが下した決定の多くを覆し、一部の側近に対して激怒したこともあったという。

とにかく、誰の意思決定によってかは知らないが、何かが狂い始めている可能性がある。
韓国に存在する北朝鮮よりの同志の動きもあるだろう。
脱北者の増加問題もあるだろう。
暴動の可能性もごくわずかだがあるかもしれない。

それを防ぐために国際社会の中で北の優位を示すための核開発に急いだとき、そのボタンを押す狂気の人間が出現してもおかしくはないのではないか。(蓋然性の大きさは別として)

事実アメリカという国のブッシュという男は、わけのわからぬ理由でイラク攻撃を始めたではないか。

自民党総裁選から総選挙の動きのなかで、食の汚染問題やリーマンの破綻、北朝鮮の問題、さまざまなことが起こっている。
すべてたいしたことではないと見過ごしていくのなら、この国には頼るべき為政者はいず、やはり自分自身は自分で守るしかないのかもしれない。

薄っぺらな意見で申し訳ないが、ここに書いておきます。

ラベル:

山野井泰史、再びを祈る

十七日午前七時半ごろ、東京都奥多摩町原でジョギング中だった登山家の山野井泰史さん(43)=同町在住=がクマに襲われた。山野井さんは顔や腕に負傷し、ヘリで青梅市内の病院に運ばれた。意識はあり命に別条はないという。

青梅署などによると山野井さんは奥多摩湖北側の山道で襲われた。近くの民家の住民が一一九番通報した。

沢木耕太郎「凍」でも有名だが、そもそも山野井さんは酸素ボンベを使わず難ルートから高峰に挑むなど、世界的に有名なクライマーであった(いまでもだろう)。
2002年にはヒマラヤのギャチュンカン(七、九五二メートル)で雪崩に襲われ、凍傷のため手足の指計十本を失ってもいる。

ここまでの運命のなかでも一歩もひるまず歩んでいく山野井氏はわたしも陰ながら敬愛し、応援しているが、またこの事件が降りかかった。

おそらく再び立ち上がるのだろうが、これほどの精神力、どこから滾々と湧き出すのであろうか。

彼の無事と今後の早い復活を祈りたい。

2008年9月16日火曜日

演者における自己否定性

昔、自己否定的な部分を内部に持っていなければ、深い意味での表現者になれないのではないかと書いた。
今もその全部を否定しようとは思わないが、権太楼師匠の本を読んで考えてみれば、我が愛する桂枝雀は、寄席で鍛えられなかった。

権太楼氏によれば、寄席とはけられる場所であるという。
わけのわからぬ聞き手に蹴られてもなお演じられるか、そういう場所だという。

寄席を嫌う芸人は多い。
それは自分を聞きにきているとは限らないからである。
つまり、寄席嫌いの演者は、はなから自分を認めてくれていないと演じられない芸人でもあるというわけだ。

知られていないが噺家の自殺者は多い。
そのことを併せ持って考えても、単に自己否定的なものを内部に持っていることを賞賛ばかりはしていられないだろう。

今もって、内部に自己否定的なものをもつ人をわたしは愛するが、それを超えようとするもう一方の人間を見ていなかった非は、ここにはっきりと書いておかなければならないだろう。
そういう人の中に、小三治はいる。

最終的に噺家が人間を見せるものだとすれば、今、小三治以上の人はいまい。
しかし、小三治をそのように眺められるかどうかの半分は聞き手の力量にかかっている。

ラベル:

長い旅


ボクシング評議会(WBC)スーパーバンタム級暫定王座決定戦で、西岡利晃(帝拳)がナパーポン・ギャットティサックチョークチャイ(タイ)を3―0の判定で下し、5度目の世界挑戦で初の王者となった。

長い旅だった。

西岡はウィラポン・ナコンルアンプロモーションと計4度拳を交えている。
初対決は2000年6月25日、地元兵庫で初挑戦。

したがって、天才の呼び声高き彼が世界チャンになるまでには、じつに8年を要す。

リング後に自分の子供を招き寄せる行為を私は好むものではないが、西岡の場合は、何の問題もなく見られた。

本当にチャンピオンになれてよかったと思う。

彼を祝したい。

ラベル:

2008年9月12日金曜日

「ビッグバン」再現実験


スイスとフランスの国境にまたがる「欧州原子核研究機構」の研究センターにある「Large Hadron Collider(LHC)」と呼ばれる大型粒子加速器(写真)で、物理学者らが粒子同士を衝突させ、宇宙を誕生させたビッグバンを小規模に再現する計画をもっていて、その計画に世界各国の物理学者が参加している。

この計画はスイスのジュネーブ郊外にある広大な地下施設を利用する20年がかりのプロジェクトなのだが、なんと一昨日の9月10日にこの実験はスタートしてしまっている。

「してしまっている」と書いたのは「ビッグバン」を再現し、宇宙の起源や、どのように宇宙に生命が誕生したかを解明しようとするこの実験にはある危険性が指摘されているからだ。(もちろん関係者は根も葉もない作り話と一笑に付しているが、どうなのだろう)

その指摘はこの実験で小さなブラックホールが生み出されるのではないかというものである。
科学音痴のわたしにはよくわからないが、ブラックホールには何もかも飲み込んでしまうというイメージがある。

事実、[ボーパール(インド) 10日 ロイター]によると、インド中部マディヤプラディシュ州で16歳の少女が、欧州で行われる素粒子加速装置を使った「ビッグバン」実験によって地球が終わりを迎えるという報道にショックを受けて自殺している。

少女は農薬を飲んで自殺を図り、病院に運び込まれた後に死亡している。
父親は地元テレビ局に対し「娘は過去2日、私やほかの身内に9月10日で世界が終わることについて質問をしていた」と話しており、インドのニュース番組はここ2日ほど、スイス・フランス国境の地下に設置された素粒子加速装置による実験で、世界が破滅するかどうかの議論を多く放送していたそうだ。

彼女が杞憂のために亡くなったかどうかは別として(それはとても哀しいことだが…)前述のように大型ハドロン衝突型加速器(LHC)は、すでに10日に運転を開始してしまっている。

とはいうものの、実験はまず、トンネル内の密閉された粒子加速器内でビームを一方向に送ることに始まる。
それを行ったら次にビームを逆方向に送る。
さらに次には、おそらく数週間後に、ビームを両方向に送って陽子同士を衝突させる。(ただし、当初は低い強度で)
その後、恐らく今年の年末近くに、ビッグバンの熱とエネルギーを再現する極小規模の衝突を発生させることになるらしい。

というわけで、年末まではわれわれが、ブラックホールに飲み込まれる可能性はない。

現在、宇宙の起源に関するビッグバンの概念は、科学的な考え方の主流となっている。
それを確かめたいのは科学者の本能なのだろう。
だが、それを確かめるためには想像を超える熱とエネルギー生じる。(この「想像を超える」というのがなんとも不気味なのだなあ)

宇宙学者は、約150億年前にビッグバンが起こったとしている。
とてつもなく高密度かつ高温で、小さな硬貨ほどの大きさの物体が、当時の真空の中で爆発し、噴出した物質が急速に拡散して、星や惑星、そして最終的に地球上の生命が誕生したというのである。

そのときにブラックホールがどのように活躍したのかは知らないが、この問題を真剣に討議する国インドと自民党総裁選や大相撲大麻問題をちゃらちゃらしゃべっている日本との違いはなんだろう。

どちらがどうとはいえないのだが、こういう違いはひどく気になる。

この実験のニュース、大きなニュースではなかったのかね、明智クン。

ラベル:

相撲


まずもって知っておきたいことは、もともと相撲は日本固有の宗教である神道に基づいた神事であること。
そして、神事であることには、沖縄地方をはじめ日本各地での「祭り」として「奉納相撲」がその地域住民によって、現在でも行われているということ。

つまりは、その出所を尋ねれば相撲は「神事」なのだというところである。

健康と力に恵まれた男性が神前においてその力を捧げ、神々に敬意と感謝を示す行為、「相撲」は「神事」であるところから、礼儀作法が非常に重視されている。
そのひとつとして、力士はまわし以外は身につけないし、土俵には女性を上げないなどがあるが、その名残は現代の大相撲にも見られる。(あくまでも名残として)
さらに特徴的なことは、古代から現代に至るまで「相撲」と皇室との縁が深いという事実であり、このことは天覧相撲があることとしてもよく知られている。

一体に相撲の起源は非常に古く、古墳時代の埴輪・須恵器にすでにその様子が描写されているが、神ではなく、人間の力士同士の戦いとなると、その最古のものは、垂仁天皇7年7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまひとらしむ」または「すまひ 」と読む)となる。
これは日本書紀のなかに見えるが、この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、宿禰が蹴速を蹴り技で脇骨と腰を折って殺したとされていて、少なくとも現代の相撲とは異なるものであったらしい。
その当時、相撲は武術であったらしく、そのためこの戦いは柔道の事始ともされている。
そして、この戦いの結果として宿禰は「相撲」の始祖として祭られている。

ま、といった薀蓄は別にして、相撲が神事として始まり現代でもなお、イメージとしての相撲には色濃くその香りが残っていることに注意したい。

さて、高橋義孝という名高いドイツ文学者がおられたが、彼は相撲好きでもあり1964年横綱審議委員会委員、81年には委員長にもなっている。
この人は、相撲が神事であることをよく知っており、当時、圧倒的な実力を持っていた小錦を横綱にしなかったことで有名である。

スポーツであれば横綱になっていた小錦は相撲が神事であることによってそれを拒否されたのであった。

あの時代、良くも悪くも相撲の伝統な根強く流れていた。

今日、多くの外国人力士を呼び寄せ、そのことで相撲をただの興行として眺め、金ばかりを計算するようになっていったのは、高橋氏以降のことであろう。

「相撲」が神事であるという考えはわたしにもあり、その意味でもはや「相撲」が日本から消え去ってしまった(ほぼ消滅してしまった)とわたしは思っている。

大麻問題や朝青龍の問題の根底には、いつも神事である「相撲」のイメージが横たわっている。
しかし、もはや神事である相撲は放棄されている。
外国人力士をかくも多く日本の相撲界に入れておきながら、神事も何もあったものではない。
相撲はすぐれて強く日本の神事と結びついており、その意味で他国の力士を入れることは、相撲のスポーツ化であり、従来の「相撲」の否定となってしまうというくらいは、認識しておくべきことだろう。

それをいまだに「横綱というものは…」「相撲の伝統は…」などとなにを騒いでいるのかと思う。
都合のいいように外国人力士を利用して金儲けを続けてきた今の興行相撲に「神事」の面影はない。
それをイメージだけ自分の中に大事にしまいこみ、外国人力士を批判する。
ばかげたことだと思う。

批判するのはかまわない。
しかし、その批判はスポーツマンに対するものであってほしい。

「相撲は他のスポーツとは違う…云々」

馬鹿ではないかと思う。
それはすでに消え去ってしまったものではないか。

そういう認識なしに部外者としてただただ騒いでいる。
当事者は拝金主義者と化している。

そういう連中はいざとなれば「大和魂」とか「大和撫子」とか「桜の花の潔さ」とか言い出すのだろうか。

まず現実がある。
今の相撲に神事の要素を要求できるなどと、どこの馬鹿が考えるのだろうか。

日本にはすでに「相撲」はなくなってしまっているのだ。

ラベル:

自民党総裁選

毎度思うことだが、マスコミの自民党総裁選の取り上げ方が激しい。
われわれとまったく関係ないこととはいわないが、なんらの投票権も持たないわれわれに対してなぜにあれほど執拗に総裁選の情報を垂れ流すのか。

いまも公開討論会をNHK がやっているが、あれも他党の党首も参加する形にしておけば多少の意味もわかるが、これでは自民党の選挙活動ではないか。

メディアというものはごこごく自然を装って静かに近づいてくる。
そして知らぬ間に洗脳していくのだ。
そして、最も恐ろしいことには、メディア自体も知らぬ間に洗脳されていて、自分たち自身がわれわれを洗脳していることに気づいていない。

お互い、意識を持って現実に立ち向かいたいものだ。

ちなみに政府はペシャワール会になにをしてくれているのか調べてみるといい。
インド洋での給油活動だけが、世界に対する態度ではないのだ。

どちらを選択するにせよ、われわれの中に崇高な人間がいることは知っておいていいのではないのだろうか。

ラベル:

2008年9月11日木曜日

UFOあるいはT(=TASTE)FO

煮物にしても炒め物にしてもそのなべやフライパンから吹き上げる水分に含まれる物質の香りは、その料理に対する大きな判断材料だ。
したがってこの物質を「味覚人飛行物体」と呼ぶ。

今回はそれだけの話だが、それではあまりにもだから、少し付け加えておきますが、昔、知り合った中華料理の達人は、味見というのは信用できないと師匠から教えられたといっていた。
つまり、自分の体調によって舌の感覚は大きくずれるからというらしい。

では、なにによって味をチェックするかといえば、その色と「味覚人飛行物体」だそうだ。
だから、無理やり酔っ払わされて、料理をするという修業をしたこともあるという。
プロの世界は計り知れない。

その達人が言っていたが、中華料理人の腕は野菜炒めを作らせればすぐわかるといっていた。
その味でではない。
熱くなった中華なべにどのタイミングで野菜を放り込むかでわかるというのだ。
そのタイミングが味を決めるらしい。

もちろん、そのときに一気に上がる「味覚人飛行物体」の香りは記憶すべきものなのだといっていた。

ラベル:

汚染米あるいは事故米について

汚染米には大きく分けて、

(1)農薬等が基準値を超えて含まれている(検出された)もの
(2)海上輸送中に海水を被りカビたり、変質したもの
(3)日本で保管中に温度や湿気管理上の問題で変質したもの

の3種類があります。
三笠フーズの場合は(1)ですが、それは輸入されたものです。
そのもとには、ウルグアイラウンドがあるのでしょうが、問題はなぜ、この日本が汚染米を(今回の件で言えばメタミドホス、アフラトキシンを基準値を超えて含んだ米)輸入しなければならなかったか、です。

ウルグアイラウンドのミニマム・アクセスにしたがって日本政府は買い付けをしますが、そのときどのような思惑で事故米を買い付けたか、あるいはどこかの国の意向で買い付けたか、ここに今回の問題の本質があると考えられます。

そして買い付けられた事故米の4分の1は三笠フーズが買い取っていたわけですから、政府(あるいははっきりと役人と書いてしまったほうがよいだろうか)にとってはまことに都合のいい企業として三笠フーズは存在したのでした。
であるからのチェックのお目こぼしがあったわけです。

この場合も最終的にそれを口にする消費者であるだれかなどはまったく関係がなかったわけです。

このこともさらに繰り返しますが、顔の見えない消費者など存在しないのと同じなのです。
「地産地消」「近所の八百屋さん」がなくなったときから、「食」に関して、もちろん「食」以外でもそうですが、消費者の顔が見えない限り、倫理観など生じることはないのです。
倫理とは顔の見える者と者のあいだに成立するものなのです。

ですから、「三笠フーズ」の倫理観を責め立てるのははなはだ方向違いで、この問題においての焦点は、なぜ事故米を日本は買い取っているかということです。
このことが大きく問題にならなければ、今回の問題は解決の方向に動き出しません。
三笠フーズの問題は、ほかの食の偽装問題よりも大きな構造となっていることが特筆すべきところです。

幸いなことに、これに関してはマスコミも少し取り上げております。
立ち消えにならないことを祈ります。

ラベル:

2008年9月10日水曜日

グラビアアイドル

グラビアアイドルというジャンルがあって有象無象を誰や彼やが生み出し、世に送り出し続けている。
そのなかの一部が、グラビアアイドルから女優やバラエティ番組へ進出していくという流れがある。
グラビアアイドルは、まあ一種の登竜門なのだろう。
うまく芸能界を泳ぎだすと水着にはならなくなる。

そういうなかで森下悠里は、別格で、おそらく今まで登場したグラビアアイドルの中では傑出している。
彼女は、ブログを書いているが、一時間に7万件ヒットするという話を聞いたときは、ぶっ飛んでしまった。
しかし、ヒットするような構成になっている。

今後、彼女がどう生きていくのかは知らないが、グラビアアイドルとしての森下悠里は立派なもので賞賛したい。

こういう人もいるのだ。

皆さんはご存知なのだろうが、もしご存じなかったら眺めてみればいい。
まずもって、エッチですぞ。

ラベル:

落語の本

落語の本を二冊読んだが、(権太楼、堀井憲一郎)権太楼氏のものに圧倒的に教えられた。

下調べというか、本を書くことに手間暇をかけたということでいえば、堀井憲一郎氏の講談社現代新書なのだろうが、いつもいう深みの問題になると落語に対するプロとアマの違いが出すぎていて、堀井氏が可哀想になるくらいだ。

そのものとどれくらい深く付き合うかが対象に対する眼を作っていくのだろうが、恐ろしいものである。
落語家と同じ深みを出す本もあるにはあるのだが、それは落語家でない著者が落語ではない何ものかの深みを通し落語を語っているものに限る。

文芸評論家が、まっとうな小説家に対抗するには何らかの眼が必要であるのはあの小林秀雄氏の言うとおりで、評論を通して自分を語らなければ、小説家の書く文芸論に勝てるわけはない。
あくまでも書けるものは、自分自身でしかなく、したり顔でいくら語ったところで、それはお手軽な解説書にしか過ぎない。
いや、解説書が悪いわけではなく、ずいぶんと助けられたりするのだが、解説書を自分が書いているという自覚は必要だろうといっているだけのことだ。

はじめに戻って、堀井氏の作品は解説書としては十分なもので頭が下がる。
しかし、それは落語を語ったことにはなっていないという意を語っただけのことである。

ラベル:

2008年9月8日月曜日

ジュセリーノ

予知夢を見ることで有名なこの人もはや、商業主義に取り込まれつつあるが(すでに完全に埋没したのだろうか)、しかし以下の予知夢はかなり前からジュセリーノが見てきたものだし、その日も近いのでここに書いておくことにします。
そのあたりに住む方は少しだけ注意するといいかもしれません。

2008年9月13日にマグニチュード9.1の巨大地震が中国を直撃し、百万人に達する死者を出す可能性があります。もし中国で地震が起こらない場合は、日本の名古屋でマグニチュード8.6の東海地震が発生する可能性があり、その場合、600名の死者と3万人の家屋が失われる可能性があります。


わたしの信頼していたジュセリーノ氏はわたしの予知夢は当たらないほうがいいのです、ということをしっかりといっていた。
悪い予言や占いなど当たらないほうがいいではないか。

ラベル:

2008年9月7日日曜日

トレーニング・デイ


「トレーニング・デイ」といえば2001年にデンゼル・ワシントンがアカデミー主演男優賞をとった作品だが、あのデンゼルが悪役というところがおもしろい。
彼の演技力を物語る。
この作品でも、ここまでの演技力を見せてもらうと感激する。
もちろん、その後ろにはイーサン・ホークの演技も光る。

あまりごちゃごちゃ考えずに絞り込んだ脚本もよかった。
観客を出し抜こうとする脚本はどこか裏切られた気がするし、たいていは面白くはない。
作品は客を表層で裏切るために作るのではない。
客をその深度で裏切るのだ。

「トレーニング・デイ」
いい映画でございました。

ラベル:

同一表紙



「週刊朝日」「サンデー毎日」の増刊号の表紙が、同じ写真家が撮った同一写真となってしまった、というのがちょっとした評判になっている。

撮影したのはAP通信のデビッド・フィリップ。
写真は金メダリスト北島康介選手のゴールした瞬間のもの。

まあ、ありうるだろうとわたしは思うが、いろいろと意見はかまびすしい。
しかし、北京オリンピックの結果を見て、特集の表紙は北島でいこうと思うのは当然だし、そいでもって、まあこれかなと、ある一枚の写真を選ぶのは編集者として鍛えてきているのなら一致することもあるのではないかな。

こういうところは大騒ぎするのではなく、楽しむところではないかと思う。

森山大道のどの写真が好きとか、土門拳のどの写真が好きとか、一致しても驚かないし、そういうことはある。
なぜなら、それらはどこか嗜好品の部分をもつからだ。

東京で食べるウナギならどこ?

まあ、一致することはあるわな。

そういう話、職場や喫茶店や酒場でよくしません?

ラベル:

金をどぶへ捨てる快感

「金をどぶへ捨てる快感」というのがあるが、あれはどういったものだろうか。

快感といったところで、なに一時的なもので、大きくは後悔しないが、快感が持続するほどのものではない。
坂口安吾の「いづこへ」辺りに似たような感覚がある。

どぶへ捨てるといったって、実際に捨てるわけではなく何の意味もなく使うということなのだが、男に使って「ああ、どぶに捨てた」という快感が味わえることはまずない。
どこか男は計算高い。
おごってもらったとか、この人にはいつもおごってもらっているとか、くだらぬことを考えがちだ。
あるいは詐欺師のような感覚を持っている。

その点女には可能性があるが、この女もほれた女であったり、どうにかしようと思う女であったりしてはいけない。
また、何かを買ってもらいたい下心が見え見えの女でもいけない。

だとすると…

もうお分かりだと思うが、この金をどぶに捨てるにぴったりとした相手を見つけるのは至難の業なのであり、そこまで行くのに相当金を使わなければならず、その過程の金は残念ながら「どぶに捨てた金」とはいえず、どぶに捨てる対象を探すための金なのだから大変に有意義な金なのである。

ちなみに「どぶに捨てる金」は御大尽遊びの金ではないので、どこそこの何某が、銀座で一晩1000万使ったなどというのは何も美しくなく単に使ったに過ぎない。

「どぶに捨てる金がもたらす快感」はそれを一瞬のきらめきと錯覚する感覚であり、それをあくまでもこの女でなく自分が選び取ったところが興味深い。

というわけで、先ほどの安吾の作品にある「復讐」という感覚は、違ってはいるが遠からずというものである。

にしてもだ。
「金をどぶに捨てる快感」
など持つ必要はないし、それに匹敵する女を探し当てる必要はない。

どちらもある特殊な人間が持ってしまう業のようなものだが、その悪さをする業が人の生きるということと底の底でつながっていると感じられるところが、面白いだけの話だ。

もちろん御大尽遊びではないのだから、それはそう長くは続くはずのものではないし、いつも板子一枚下には経済的な破滅が待っているし、地獄へも通じているのかもしれない。

まあ、そういった男もいるというだけのお話である。

ラベル:

2008年9月6日土曜日

全国高等学校クイズ選手権

例によって体調を崩し、「全国高等学校クイズ選手権」を横になって眺めていたが、あれはすごかった。
博覧強記におそらく語学力や数学的な力も混じっているのだろう。
それが、官僚に向いているのか、学者に向いているのかは知らないが、まあ、恐ろしいものであって、改めて人間の力を感じた。

生命力が下がり横臥する人間にとってはあまりにも刺激的であったかもしれないが、面白かった。
さらにあの知識を有機的につなげるとき、倫理的な問題やある種の才能がかかわってくるのだろうが、いやはやすさまじいものであった。

体調戻り加減です。

ラベル:

2008年9月3日水曜日

大山康晴という男


写真は大山康晴であり、この本はなかなかの名著でもある。
将棋に関して書かれたものには大崎善夫の作品があるので、これ以上はほめられないが、にしてもいい作品だし、棋士のなかでは最も文章が書ける人ではないだろうか。
もちろん、真部一男という忘れられない男の存在も知ったうえでの一文なのだが…

さて、今回は、この大山康晴の一面を書いてみたく思う。
この男、わたしの嫌いな男だ。
つまりは、えげつない。

恐ろしい話しだが、大山はわざと悪手を指すといわれている。
悪手には対抗策がないからだ。(あるいは、相手の読みをはぐらかす意味もあったらしい)
悪手はとがめなければ、自分の側に優勢を持ち込める。
しかし、悪手で負ければ、なんともしがたい。
対抗策はそこにはない。(とがめられなかった自分をうじうじと責めるしかないではないか)

わたしの愛する升田幸三は、悪手など指そうとは思わない。
無駄な手も忌み嫌った。
彼は、一編の叙事詩のような棋譜を残したかった男だ。
その棋譜を何で自ずから汚すものか。

これをもってして美学という。
美学は勝負とは裏腹で、ときとして反逆する。
したがって、勝負師としての格は大山が升田に勝る。(書きたくもないことだが、事実だ)

先日、柳家権太楼の本の話しを書いた。
そのときに、枝雀の弱さも書き添えた。

枝雀には美学があった。
その美学は、寄席芸とは相反するののであったし、談志ほどのふてぶてさは枝雀にはなかったものだからああいうことになってしまった。(談志が強いということを語っているのではない。彼もまた繊細だが、折れることはない)

わたしは、それがマイナスに働こうとも美学をもった人を愛する。

権太楼にはおそらく「美学」という視点が抜け落ちている。
そして、おそらく噺家にとって「美学」は弱点になるのだろう。
もちろん、棋士にとっても、あるいは他の何かの職においても。

大山恐るべし。
穢れた先に勝利を求めた。

いやな告白を書いてしまった。

ラベル:

2008年9月2日火曜日

わたしの庭に…

わたしの庭に自転車が倒れている。
他の人と比べれば、わたしの見る目にはとても切なく自転車が映る。

そのようなことがあるだろう。

大きくは、広島にしても長崎にしても、米国人のもつ原爆の意識は卑小だ。
所詮アジアの黄色いサルが死んだだけではないか。

そのアメリカという国が、(そういうことは起こりえないが、グルジアを見る前までは)どこかの国が日本の小さな島、沖縄だとかそういう意味だが、その島を攻撃されたとき、助けてくれると思いますか。

あの国が、どれほどの日本人を殺したかご存知ですか?
そして、日本人が、どれほどのシナ人を殺したかご存知ですか?
花岡事件をご存知ですか?

わたしは平和と生物の予定調和を願うものですが、その道は果てしなく遠い。

豊かになりたいというその心が悪だと気づくまで、遠く、遠く、果てしない。

ラベル:

2008年9月1日月曜日

輪廻

輪廻(りんね、Samsara)とは、人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わることやその思想を言うが、ちなみに欧米のキリスト教文化圏でも、Reincarnation(リンカネーション)という、霊魂の生まれ変わり、転生の概念があり、この考えは、わりと普遍的な考えだが、単純に考えて、こうも人が増えてくると、あちらの世界には(輪廻があるとしたら)、ごく少数の生き物に生まれ変われるものがいるだけで、困ると思うのだが、どうだろう。

もともと輪廻の世界は単純再生産の世界にあったもので、拡大再生産になると、あちらの世界の生き物になる可能性のあるもの(なんと言っていいのだか)が、激減して大変だろうと思うのだが、地球上の生き物は、人間に関しては激増しているが、他の生物は、激減しているのだろうか。
鯨が激増しているのは知っているが、ほかの生物はいかに。

満州国建国の折、ある一派は、いまでもそういう人々はいるのだろうが、戦争が経済活動であると同時に人類の数の調整に役立っているといっていた。
これは、実は本当のことで、ひとは、死なないことを目標に定め、科学も医学も進めてきたが、そんなに増やしてよかったのだろうか。

もちろん、これは戦争を要望する発言ではない。

リンカーネーションは、わたしの数少ない希望なので、この世の生物数が増えていないことを願うばかりである。

ラベル: