2008年9月22日月曜日

国家~社会学者ではないけれど

自民党総裁に麻生太郎が決定した。
例によって街頭インタビューをテレビでやっているが、「期待できません」とか、「彼ぐらいしかいないんじゃないですか」とか、…何か総裁麻生太郎と自分が関係あるかのように話している。

たとえば、国家・マスコミ・国民とラフなくくりをすれば、国会が一番強く(権力を持っているからね。合法的暴力のことですよ)、本当ならばマスコミはこれに対して批判的でなければならず、そのマスコミに示唆されながら国民(あいまいな言い方で申し訳ないが)もいろいろと考えるというような構図になるのが理想なのだが、マスコミがどれくらい考えているのかは知らないけれど、大手マスコミは軒並み国家よりになっている。
たとえば「三笠フーズ」と「農林水産省の大阪農政事務所」との癒着つまりは、あの汚染米事件が国家がらみの話であったことなどというのはクチが裂けても言えません、という国家の立場が大手マスコミの立場だ。

毎年3万人を越える自殺者を出していることを大々的に報道したのもごく最近のことだ。(それも確か、大手新聞社のうちのひとつだけ)
1939~1945年に行われた第二次世界大戦での戦死者、約300万人あまりを考えても、ここ10年近く続く自殺者3万人越えはえげつない話しだし、国民にはあまりお知らせしたくない話だ。

国民に対しては国家は順調に運営されているとしておきたいのが国家の発想だ。
その発想をはっきりと認識しているかどうかは別にして国家を運営している官僚・政治家はそう考えるのが自然だ。
なぜなら国家というシステムはその順調なる運営が第一義であって、国民の幸せ、それも弱者と限定してしまえば、国家は弱者に何の興味も抱いていない。
したがってその運営者も弱者に対して何の興味も抱いていない、というのが自然な落としどころだ。

いや、十分に考えているという振りをするのは国民に投票権があるという一点においてのみである(国民の暴動という恐怖感もあろうが、日本では起こらないことになっている)。
選挙さえすめば国民なんぞは虫けらのようなものだ。
でなければ、汚染米のようなことを、薬害肝炎のようなことをするわけふがない。
一時的な票さえもらえればいいわけだ。(繰り返すが、彼らがこれをはっきりと意識しているかどうかは知らない。また、すべての官僚・政治家がそうではないかもしれない)

とにかくそういうわけで、意識的であれ、慣習であれ、役人・政治家はそのように動き、か弱き国民に対して一顧だにしない。
「後期高齢者保険制度は見直しが必要だ」などといってはみるが、後期高齢者が早く死んでくれればもっと好都合なわけだ。

北朝鮮の拉致問題も票につながるので騒いでいるだけで、国家にすれば核問題のほうがはるかに大きい。
また、拉致問題を本当に解決したかったならば、蓮池氏たちを北朝鮮に戻すべきだった。
そのほうが拉致問題解決の可能性は大きかった。
国際政治はゲームだから。

そういうわけで、重要なことは国家は基本的に国民のことなど考えてはいない。
しかも今の国民は多くなりすぎている。
大きく見れば、アメリカは日本など心配してはいない。
そして、その日本という国は、その中で生きる国民を心配してはいない。

弱者が死んでいくのは、票と関係なければ別に痛痒は感じない。
それが票につながったり、暴動やクーデターにつながるとき初めて国家は国民に目を向ける。
第一義である国家運営に支障をきたすからだ。

船戸与一の「満州国演義」を読んでいるとその辺のところはよく見える。
もちろん船戸氏を信用すればのことだけれど…(わたしは信用している)。
あの当時は軍部の動きも注意しなければならなかった。
国民世論も今以上の力を持っていた。
したがって、国家もまた国民のことを気にしていたし、うまくだまそうと考えた。
そのためには満州が必要だったかもしれない。
日本国民に比べれば中国の人民は虫けら以下だったのだろう。

そう考える人間たちがいた。
もちろんそうではない人々もいたが、それはやさしい人々だけではなく、権力に対してたて突く可能性のある人々でもあった。
それが、あの時代の背負った重苦しさで戦争に追いやる一因だったのかもしれない。

その点で、今の日本のマスコミに翻弄される国民は哀しい。
しかも、そのことにあまり疑問を抱いてはいない。

「三笠フーズ」も「薬害肝炎」も本当のところはあまり怒っていないでしょう、あなただって。
わたしもそうだ。

ただ国家が、はなからわれわれを見限っていることは忘れないようにしたい。
そして、国家を信用せず、国家を見限ってしまいたい。

その日まではあまり無茶な政治はしないでほしいというのがわたしの国家へのささやかなお願いです。

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