2008年9月20日土曜日

ミステリー



ミステリーを読むなどということはまさに暇つぶしだし、それ以上のものではない。

もちろんミステリーを書こうとする者にとってはその読書は別の意味を持ってくるのはいうまでもない。
彼らにとってミステリーは飯の種になるし、いくら暇つぶしとはいっても読者もまた面白いものを彼らに要求するからだ。(その参考として別の眼で彼らは読む)

普通の読者はなぜそのミステリーが面白くなかったか(実はこちらの分析が重要なのだが)、なあぜこのミステリーが面白かったかの分析はしない。
それをするのは分析好きな人間であって、あるいはミステリー評論を飯の種にしている人間であって、ミステリー好きとは異なる人種だ。

とにかく、ミステリーは面白くさえあればいいのだが、わたしは七面倒臭い人間なものだから余計なことを付け加えることにする。(ごめんね)

多くのミステリーを読んでいるとしだい次第に眼も肥えてくる。
肥えてくれば、ミステリーについて少しは考えることもできるようになる。

ミステリーの基本は梗概であって、たいていの駄作はこの梗概(荒筋)だけで終わっている。
事実、それだけで終わってもいいのだが、そうすると何か物足りなさを感じる。
ミステリーをよく読む読者にとってはそれだけでは物足りないのだ。

で、書き手もそういう読者に対し(お得意様だから)それ以上のものを自分の書くデッサンに貼り付けようとする。
あらすじを小説にしようというわけです。

きわめて抽象的に書けば、小説はリアリティの積み重ねの上に成り立つ虚構であるから、積み重ねるものはリアリティのあるものでなくてはならない。
であるから作り物に過ぎない小説に取材などとえらそうなことをいって、あっちへ行ったりこっちへ行ったり誰か彼かに会ったりする。
そして、そのような集大成をうまく処理できたとき、もちろんいくつかのウソという調味料を混ぜながらの話だが、名作が生まれる。

私見ではあるが、それほど多くのミステリーを読むわけではないわたしが昨今読んだものの中では「八月の蝉」が娯楽の領域を抜け出す名作となっていた。

写真に示した作品も評判になっているものであるし、この二人の書くものは常にあるレベルを超えている。(「八月の蝉」には劣るように思う、私見だが)
この二つの作品では東野氏のものが劣るが、それは彼が作品を書くに当たって材料に乏しかったからであろう。
100集めた材料の10を使って書く作品と12の材料の10を使って書く作品とではおのずから差は生じてくる。(作者の力量に大きな差がなければということだが、力量ある作家ほど材料集めに熱中するものだ)

ともあれこの二人、ともにどのようにミステリーを書けばいいか自分の中で承知している。
したがってある程度の資料を集められなければ宮部氏は作品を書き出せられないだろうし、落としどころがはっきりしなければ東野氏は書き始めないだろう。

そのときにリアリティというポイントがとても重要になってきて、そのリアリティを得るために取材が必要になってくる。
また、その人物や町や家の細部を書かなくても、それらすべてをイメージ化したりする。
作家によっては町の地図や家の見取り図を描く。(作家によってはなどと書いているが、本物の作家たちは当たり前のようにこのような作業を行っている。基本だからね)

というわけで、箱書き、梗概などの作業の後にいろいろと細工していく。
そして、期待される作家は、大きくなにを意図して書こうかとするものを作品の背後に持つ。

大きな意図に関していえば、宮部みゆきは見事で「模倣犯」「楽園」において追求される彼女の問題意識は一貫している。
その視点で見れば東野圭吾は宮部みゆきに劣る。
しかし、東野にはトリックやわかりやすい人間関係(ちょっとした読者をたやすく感動させる)を作る力がある。
まあ、それぞれということだが、どちらがどうなどということは自分で決めればいいことで、最初に戻ってしまえば所詮暇つぶしに過ぎないものだし、それが暇つぶし以上のものを与えたときに眼を見張ればいいだけの話だ。

ついでに書いておけば、作者もまた勝手に作品を書けるわけではなくリアリティの積み上げのなかから作品を引っ張り出してくるのだから、作者もまた作品を通して何かを教えられる。
教えられることのない作者はそれで終わりなわけで、そういう書き手もあまたいる。

作者は作品を仕上げるためには書くのではなく、資料を読むのであり、誰かに何かを教えてもらうのである。
だからこそ、書き手を育てるものは「書くこと」ではなく「読むこと」であり「聞くこと」であるといわれているのだ。

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