手紙 ~拝啓 十五の君へ~
アンジェラ・アキの「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」をよく耳にする。
みなさんも聞いたことがあるだろう。
おそらくこれから若者のスタンダードとして残っていくことだろう。
それも中学生くらいの人たちの中に。
わたしも久しぶりに出合った意味のある歌である。
意味があるというのは、BGMにはなりにくく、伝える内容を持つ歌である。(とりわけ歌詞が、もちろんそれをバックアップするメロディーも含めて)
そして同時にこの歌は痛みを含んでいる。
その痛みは、おそらくこの歌の持つリアリティからくるものであると思う。
ご存知のようにこの歌は実際に彼女が30歳になったとき、母親から渡される15歳だったか17歳だったかの過去の自分からの手紙に遭遇するという事実から始まる。
その手紙を読むことが、この歌を作る契機となっている。
要は、始まりから終わりまでほぼ本物が核にあるのだ。
そのことに多くの中学生くらいの年代の人たちは飛びついた。
そこに彼ら自身がいたからだ。
痛みを持つ彼らは痛みを持つ歌を欲していた。
しかし、この時代は多少の心地よさを持つBGMを量産するに過ぎなかった。
商業主義にも乗って今この歌は驀進中だろう。
それならばそれでいい。(商業主義が介在していたとしても)
さてわたしの言いたいことはといえば、そんなにもこの歌を待っていた人たちがいたということへの驚き。
若き人々の普遍的な苦悩の存在への驚きだ。
若さとは残酷にして、遠く遠く離れればいとおしいもののように眼に映る。
しかし当事者はそうはいかない。
その当事者へ直接響く歌がなぜアンジェラ・アキに描けたか?
それは、まさに当事者である彼女自身に30歳の彼女が過去の自分からの手紙を通して出会ったからだ。
そのときに15歳の人たちにとって部外者に過ぎなかった30歳の彼女が当事者として登場するのである。
それはもちろん極めて個人的な事情からのことだが、瞬く間に普遍していく。
そのような土壌があの歌にはあった。
じつは、わたしはこの歌をすべて聞いてはいられない。
それはいい歳をして馬鹿みたいに彼ら(15歳くらいの彼ら)と同じような感覚を持つことが痛いからだ。
だから聞いていても40秒やそこらだ。
それでいい。
それでいて、このような歌が生まれてきたこととそれを受け入れる層があったことをうれしく思う。
しかし、なんとまあ生きていくことは切ないのだろう。
それが切なくなくなってしまったとしたら、それは鈍化したからに過ぎないのだろう。
鈍化しなければ生きられない生、だまさなければ生きられない生、それはなんなのだろう。
少なくともそこには正義はないはずだ。
切ない歌に出会ってしまった。
アンジェラ・アキもまた切ない日々を通して今ある。
それは、まさにたまたまの今にすぎない。
わたしはそのたまたまのために傷つくかれらに努力すればいいとは語りかけられない。
わたしのそのすべてを聞いていない彼女の歌の全貌では、そのことをどのように彼らに語っているのだろう。
ラベル: 社会
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