繋驢桔(けろけつ)
難しげなタイトルだが、「杭につながれたロバのこと」でそれほどややこしいことではない。
ややこしいことではないが、その内容はなかなかに深い。
森田療法ではよく使われるコトバであり、「自由になろうとしてもがけばもがくほど、ますます自由を奪われてしまう状態」の比喩として使われるが、なぜそのような状態に落ち込むかを考えることはかなり人間存在の本質的な部分に触れてくる。
人はあるがままでいいのである、というのがひとつの結論だが、「あるがまま」というのがこれまたあいまいなもので、「それはいったいどういうものですか」という問に答えられる方はあまりいないだろう。
なぜならわれわれは、すでに知らず知らずに社会的にあるべき姿を教えられて(植えつけられて)しまっているからだ。
そのような価値観を植えつけられた後に自分の「あるがまま」を探るのは大変に厄介だ。
しかも、われわれは「あるがまま」とは何かを考えているときにも社会のなかで生きていなければならないし。
というわけで「杭につながれたロバ」は、自然と自縄自縛の状態になってしまうものなのだ。
さらにややこしいことには、そのような自縄自縛の状態で生きていても、何も問題の起こらない人種もいれば、他からは「あれほど幸福な状態に見えるのに」苦悩する人種もいるという差があることだ。
自分に問題がなければ「繋驢桔」の話はどうでもいいことで、考える必要はないが、もし何らかの問題をお持ちならここはしっかりと問題を見据える必要があるだろう。
ところで、今回の汚染米の問題で最終的に汚染米と知らずに汚染米をつかまされ、それを加工し消費者に売った罪もないメーカーの名前が何の対策もなく、無防備に発表されたが、彼らの苦悩は、これは逃れられるようなものではなく、きわめて政治的な問題で、目も当てられない。
今頃辞任してどうするというのだ。
「繋驢桔」とは関係のない問題だが、あまりの救いようのなさに書かずにはいられませんでした。
「繋驢桔」の話はまた続けようと思います。
ややこしいことではないが、その内容はなかなかに深い。
森田療法ではよく使われるコトバであり、「自由になろうとしてもがけばもがくほど、ますます自由を奪われてしまう状態」の比喩として使われるが、なぜそのような状態に落ち込むかを考えることはかなり人間存在の本質的な部分に触れてくる。
人はあるがままでいいのである、というのがひとつの結論だが、「あるがまま」というのがこれまたあいまいなもので、「それはいったいどういうものですか」という問に答えられる方はあまりいないだろう。
なぜならわれわれは、すでに知らず知らずに社会的にあるべき姿を教えられて(植えつけられて)しまっているからだ。
そのような価値観を植えつけられた後に自分の「あるがまま」を探るのは大変に厄介だ。
しかも、われわれは「あるがまま」とは何かを考えているときにも社会のなかで生きていなければならないし。
というわけで「杭につながれたロバ」は、自然と自縄自縛の状態になってしまうものなのだ。
さらにややこしいことには、そのような自縄自縛の状態で生きていても、何も問題の起こらない人種もいれば、他からは「あれほど幸福な状態に見えるのに」苦悩する人種もいるという差があることだ。
自分に問題がなければ「繋驢桔」の話はどうでもいいことで、考える必要はないが、もし何らかの問題をお持ちならここはしっかりと問題を見据える必要があるだろう。
ところで、今回の汚染米の問題で最終的に汚染米と知らずに汚染米をつかまされ、それを加工し消費者に売った罪もないメーカーの名前が何の対策もなく、無防備に発表されたが、彼らの苦悩は、これは逃れられるようなものではなく、きわめて政治的な問題で、目も当てられない。
今頃辞任してどうするというのだ。
「繋驢桔」とは関係のない問題だが、あまりの救いようのなさに書かずにはいられませんでした。
「繋驢桔」の話はまた続けようと思います。
ラベル: 日常 考察
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