2008年9月16日火曜日

演者における自己否定性

昔、自己否定的な部分を内部に持っていなければ、深い意味での表現者になれないのではないかと書いた。
今もその全部を否定しようとは思わないが、権太楼師匠の本を読んで考えてみれば、我が愛する桂枝雀は、寄席で鍛えられなかった。

権太楼氏によれば、寄席とはけられる場所であるという。
わけのわからぬ聞き手に蹴られてもなお演じられるか、そういう場所だという。

寄席を嫌う芸人は多い。
それは自分を聞きにきているとは限らないからである。
つまり、寄席嫌いの演者は、はなから自分を認めてくれていないと演じられない芸人でもあるというわけだ。

知られていないが噺家の自殺者は多い。
そのことを併せ持って考えても、単に自己否定的なものを内部に持っていることを賞賛ばかりはしていられないだろう。

今もって、内部に自己否定的なものをもつ人をわたしは愛するが、それを超えようとするもう一方の人間を見ていなかった非は、ここにはっきりと書いておかなければならないだろう。
そういう人の中に、小三治はいる。

最終的に噺家が人間を見せるものだとすれば、今、小三治以上の人はいまい。
しかし、小三治をそのように眺められるかどうかの半分は聞き手の力量にかかっている。

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