2008年9月10日水曜日

落語の本

落語の本を二冊読んだが、(権太楼、堀井憲一郎)権太楼氏のものに圧倒的に教えられた。

下調べというか、本を書くことに手間暇をかけたということでいえば、堀井憲一郎氏の講談社現代新書なのだろうが、いつもいう深みの問題になると落語に対するプロとアマの違いが出すぎていて、堀井氏が可哀想になるくらいだ。

そのものとどれくらい深く付き合うかが対象に対する眼を作っていくのだろうが、恐ろしいものである。
落語家と同じ深みを出す本もあるにはあるのだが、それは落語家でない著者が落語ではない何ものかの深みを通し落語を語っているものに限る。

文芸評論家が、まっとうな小説家に対抗するには何らかの眼が必要であるのはあの小林秀雄氏の言うとおりで、評論を通して自分を語らなければ、小説家の書く文芸論に勝てるわけはない。
あくまでも書けるものは、自分自身でしかなく、したり顔でいくら語ったところで、それはお手軽な解説書にしか過ぎない。
いや、解説書が悪いわけではなく、ずいぶんと助けられたりするのだが、解説書を自分が書いているという自覚は必要だろうといっているだけのことだ。

はじめに戻って、堀井氏の作品は解説書としては十分なもので頭が下がる。
しかし、それは落語を語ったことにはなっていないという意を語っただけのことである。

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