金をどぶへ捨てる快感
「金をどぶへ捨てる快感」というのがあるが、あれはどういったものだろうか。
快感といったところで、なに一時的なもので、大きくは後悔しないが、快感が持続するほどのものではない。
坂口安吾の「いづこへ」辺りに似たような感覚がある。
どぶへ捨てるといったって、実際に捨てるわけではなく何の意味もなく使うということなのだが、男に使って「ああ、どぶに捨てた」という快感が味わえることはまずない。
どこか男は計算高い。
おごってもらったとか、この人にはいつもおごってもらっているとか、くだらぬことを考えがちだ。
あるいは詐欺師のような感覚を持っている。
その点女には可能性があるが、この女もほれた女であったり、どうにかしようと思う女であったりしてはいけない。
また、何かを買ってもらいたい下心が見え見えの女でもいけない。
だとすると…
もうお分かりだと思うが、この金をどぶに捨てるにぴったりとした相手を見つけるのは至難の業なのであり、そこまで行くのに相当金を使わなければならず、その過程の金は残念ながら「どぶに捨てた金」とはいえず、どぶに捨てる対象を探すための金なのだから大変に有意義な金なのである。
ちなみに「どぶに捨てる金」は御大尽遊びの金ではないので、どこそこの何某が、銀座で一晩1000万使ったなどというのは何も美しくなく単に使ったに過ぎない。
「どぶに捨てる金がもたらす快感」はそれを一瞬のきらめきと錯覚する感覚であり、それをあくまでもこの女でなく自分が選び取ったところが興味深い。
というわけで、先ほどの安吾の作品にある「復讐」という感覚は、違ってはいるが遠からずというものである。
にしてもだ。
「金をどぶに捨てる快感」
など持つ必要はないし、それに匹敵する女を探し当てる必要はない。
どちらもある特殊な人間が持ってしまう業のようなものだが、その悪さをする業が人の生きるということと底の底でつながっていると感じられるところが、面白いだけの話だ。
もちろん御大尽遊びではないのだから、それはそう長くは続くはずのものではないし、いつも板子一枚下には経済的な破滅が待っているし、地獄へも通じているのかもしれない。
まあ、そういった男もいるというだけのお話である。
快感といったところで、なに一時的なもので、大きくは後悔しないが、快感が持続するほどのものではない。
坂口安吾の「いづこへ」辺りに似たような感覚がある。
どぶへ捨てるといったって、実際に捨てるわけではなく何の意味もなく使うということなのだが、男に使って「ああ、どぶに捨てた」という快感が味わえることはまずない。
どこか男は計算高い。
おごってもらったとか、この人にはいつもおごってもらっているとか、くだらぬことを考えがちだ。
あるいは詐欺師のような感覚を持っている。
その点女には可能性があるが、この女もほれた女であったり、どうにかしようと思う女であったりしてはいけない。
また、何かを買ってもらいたい下心が見え見えの女でもいけない。
だとすると…
もうお分かりだと思うが、この金をどぶに捨てるにぴったりとした相手を見つけるのは至難の業なのであり、そこまで行くのに相当金を使わなければならず、その過程の金は残念ながら「どぶに捨てた金」とはいえず、どぶに捨てる対象を探すための金なのだから大変に有意義な金なのである。
ちなみに「どぶに捨てる金」は御大尽遊びの金ではないので、どこそこの何某が、銀座で一晩1000万使ったなどというのは何も美しくなく単に使ったに過ぎない。
「どぶに捨てる金がもたらす快感」はそれを一瞬のきらめきと錯覚する感覚であり、それをあくまでもこの女でなく自分が選び取ったところが興味深い。
というわけで、先ほどの安吾の作品にある「復讐」という感覚は、違ってはいるが遠からずというものである。
にしてもだ。
「金をどぶに捨てる快感」
など持つ必要はないし、それに匹敵する女を探し当てる必要はない。
どちらもある特殊な人間が持ってしまう業のようなものだが、その悪さをする業が人の生きるということと底の底でつながっていると感じられるところが、面白いだけの話だ。
もちろん御大尽遊びではないのだから、それはそう長くは続くはずのものではないし、いつも板子一枚下には経済的な破滅が待っているし、地獄へも通じているのかもしれない。
まあ、そういった男もいるというだけのお話である。
ラベル: 社会
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