大山康晴という男
写真は大山康晴であり、この本はなかなかの名著でもある。
将棋に関して書かれたものには大崎善夫の作品があるので、これ以上はほめられないが、にしてもいい作品だし、棋士のなかでは最も文章が書ける人ではないだろうか。
もちろん、真部一男という忘れられない男の存在も知ったうえでの一文なのだが…
さて、今回は、この大山康晴の一面を書いてみたく思う。
この男、わたしの嫌いな男だ。
つまりは、えげつない。
恐ろしい話しだが、大山はわざと悪手を指すといわれている。
悪手には対抗策がないからだ。(あるいは、相手の読みをはぐらかす意味もあったらしい)
悪手はとがめなければ、自分の側に優勢を持ち込める。
しかし、悪手で負ければ、なんともしがたい。
対抗策はそこにはない。(とがめられなかった自分をうじうじと責めるしかないではないか)
わたしの愛する升田幸三は、悪手など指そうとは思わない。
無駄な手も忌み嫌った。
彼は、一編の叙事詩のような棋譜を残したかった男だ。
その棋譜を何で自ずから汚すものか。
これをもってして美学という。
美学は勝負とは裏腹で、ときとして反逆する。
したがって、勝負師としての格は大山が升田に勝る。(書きたくもないことだが、事実だ)
先日、柳家権太楼の本の話しを書いた。
そのときに、枝雀の弱さも書き添えた。
枝雀には美学があった。
その美学は、寄席芸とは相反するののであったし、談志ほどのふてぶてさは枝雀にはなかったものだからああいうことになってしまった。(談志が強いということを語っているのではない。彼もまた繊細だが、折れることはない)
わたしは、それがマイナスに働こうとも美学をもった人を愛する。
権太楼にはおそらく「美学」という視点が抜け落ちている。
そして、おそらく噺家にとって「美学」は弱点になるのだろう。
もちろん、棋士にとっても、あるいは他の何かの職においても。
大山恐るべし。
穢れた先に勝利を求めた。
いやな告白を書いてしまった。
ラベル: 将棋
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