2008年9月22日月曜日

テレビ芸

少し前にある番組でこのごろ、演芸(漫才・コントなど)のテレビで演じる時間がどんどん短くなってきている、あれでは芸は見せられないと年配の芸人が嘆いているのを見たが、まことにそのとおりだと思った。
思ったが、テレビというのはもともとそういうもので、いくらビデオで見ても文楽、志ん生、円生…、はたまたダイラケ、イトコイの芸が見えてこないのと同じようにビデオよりもさらにテレビの伝えるものの中にはその芸に含まれる大きな要素である雰囲気としか言いようのないものが欠如している(含まれていない)。

芸においては、まことにここが大きなポイントで、だからこそ、寄席に通ったりするわけで、(これは演者が要求することではないのだろうけれど)そのことにより聞き手は芸を知っていくことになる。
聞き手もまた成長を要求されるわけだ。

その点をイチローは自分の打席の中にあるものを見てほしいと願うのは、こちら側の勝手な要望で、観客に(その深みをわかれというのは)とってはかわいそうな要望だ、と言っているわけだ。

また枝雀があれほど自分のビデオを見て笑ったのも観客としての枝雀がほかをはるかに超えて優れていた、つまり聞き手にも必要な力が要求されている証拠だ(しかし、それを暗に要求することはどうだろうか、というのは演者の考えなければならないところだろう。演者を書き手と変えてもよいのだろうが)。

さて、そのようにいわゆる芸を見せるのに不適合なテレビにおいては、洗練されたものではなくもっと荒い単純で視聴者にダイレクトに伝わるものが好まれる。
それが、下品だがインパクトのある素人芸である。(もちろん持続性はないから長時間演じることはできない)
そういえばと頭に浮かぶタレントが何人もいるだろうが、まさに彼らがそうである。

その彼らが寄席の舞台に登場したらば、かなり悲惨な状況になる。
やはり寄席では「おぼん・こぼん」なのである。
彼らのエンターティナー性は他を寄せ付けないところがあるし、であるからテレビ向きではない。

テレビで活躍するさんま、紳介は素人芸を極めていったところにあり、それを計算ずくでやっているところに彼らのすばらしさがあるが、舞台に出せばちゃちなものである。
しかし、舞台とテレビとその芸を使い分けろといわれても彼らは困るだろう。

笑福亭鶴瓶もまた素人芸の極致を演じられるが、その彼が落語に取り組みだしたのは、芸というものに見せられたからである。
この転換は難しく、イバラの道であるが、その道を歩もうとする彼の立派さは注目に値する。
先を行く小朝がいまだに舞台においても素人にこびるのは、テレビ芸人の気分がどこかにあるからで、これを見ても、テレビから舞台への転換の難しさがわかるというものだ。

テレビが欲しているのは素人の芸であり、それが笑いを呼ぶ。
プロがテレビで芸を見せたところで、一般に受けはしない。

それを知ってやっているテレビ芸人もいればテレビを見る視聴者もいる。
そうしてみているとテレビも少しは面白いが、小三治をテレビで知ることはできないし、小三治のわかる目を育てることもできない。

それがテレビの持つ毒性であり、落語ブームがテレビから発生するわけがないのは以上のような状況だからである。

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