2008年9月27日土曜日

体と心

鬱病はすでに心の病気ではなく体の病気であることは広く知られており、優れた薬も多く出回っているのだから、鬱に悩む青年は無理をせずに、つまりは「かくあるべべき」とか「かくある」自分を眺めるような行為は避けて、生きたほうがいい。

もちろん薬はある程度の効果を発揮するが、肉体から発生した心の病の現象は心から直接迫らざるを得ないところもある。
そのときに大きな効果を発揮する信用されているのが、「森田療法」だ。
この両方、精神療法で西洋薬とは自分に対し別の迫り方をするもので、どちらが優れているかではなく、それぞれを使いこなしていくしかない。

ただ、森田療法において大きなポイントは、だめな自分(自分がだめであると思ってしまう自分、思わされてしまう自分)を認めていくところにあり、その作業が、なかなかに難しいので専門医に頼ったりしている。
最終的にはとにかく、だめな自分を認めてしまうことに始まる。
自分自身で認め、もし可能なら誰かからも認められていくことができるならば、鬱はそれほどの脅威は発揮しない。

現代社会に鬱が蔓延るのは、必要以上のプレッシャーをわれわれに社会がかけ続けているからだ。
そういう意味では鬱は体の問題であるとともにきわめて社会的な問題でもある。

繰り返しになるが、経済成長の幻想を捨て、単純再生産を達成できる小さな村を作り出すという選択もある。

鳥取県智頭村板井原集落はそのようなことを考えはじめてている。
道は険しいが、傷ついた都会人がもう一度生き始められるそういう場所を国の援助も踏まえて、考えてみる気はないのだろうか。
貧困の問題は、かならずしも都会に住むという条件の元に存在しているのではないと思うのだが…

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