2008年9月24日水曜日

ファンであること

誰かのファンになることに、何の理由も要らない。
それは、無防備でしかも無意味な行動だ。
面と向かって「ファンになること」を考えればそうなる。

ひとは年を食むにしたがって物事を頭で考えようとする。
その傾向のなか、ひとはおのれの行動にも理由をつけたがる。(本当はいらないのだと思うのだが…)
理由付けのあるあのひとが好きは、ファンの持つものではない。

ファンは、結果として無防備に知らないうちにそのひとが好きになっているのであって、好きになったからといってファンではない。
好きがその始まりならば、それは嫌いになることで終了させることができる。(好きであることは意外にもろいものなのだ)

というわけで、ひとが誰かのファンである場合、その始まりは少年少女時代であろうというのがわたしの意見である。
あのころは、闇雲にブラウン運動のように動き、結果として理由もなく誰かを好きになる能力があった。
それをもってして「ファンであること」だとすれば、成長の後にその契機は訪れない。

頭で考えること、分析、統合することにかなりの嫌悪感を抱いているわたしもまたその癖から逃れるのは至難であるのは事実だ。
だからわたしのファンになった履歴も少年時代にその起源を持つ。

そのわたしの少年のころからのファンであったひと、王貞治が引退した。
久しぶりに頭を通してではなく直接胸に響いた事件だった。

時代はこんなところまで来てしまっているのか。

「王さんが監督を辞めているのにわたしが監督をやっていていいのか」という意味のことを野村氏が言ったが、わたしも同じように思う。

何か無性に寂しい気がしている。

だから、テレビでお決まりの言葉を言う連中に本当にこいつらは何も感じないのだな、などと不謹慎な怒りをもってしまう。

無防備であることはときにそのような怒りを隠せないことでもある。

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